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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
40/65

翌日

麗景殿視点

 昨夜は様々な音に気が昂ぶって遅くまで眠れなかったので、今朝はなかなか起きられなかった。

 目が覚めてもぼんやりとしていると、私の女房たちが小鳥のようにささめきあいながら角盥(つのだらい)を運んで来てくれた。


「日が高くなっているわ。まあ、私ったら参加してもいなかったのに」

 思わずつぶやくと女房たちが応える。

「いえ、その方がよかったと思います」

「昨夜遊びに参加した女君で全く無傷だったのは弘徽殿の女御さまだけですわ」

「あの方は別格ですから」


「どういうことなの?」

 身じまいを整えてから尋ねると、彼女たちが口々に語る。


「筝を担当した更衣は二人とも名を下げました」

「ただ単にミスがあっただけならまだしも、功を焦って予定にない技を強引に加えた更衣も、無理にそれを正そうとしてひどい音にしてしまった更衣もそしられています」


「和琴の女御さまも驚いて手を止めてしまった方はもとより、もう一人の方も目の前に琴があったのに手助けをなさらなかったとdisられています」

「まあ。それなら以前の私もおとがめを受けなければいけないわ」

 琴の失敗においては誰にも負けない。


「いえ、そんなことはありませんよ。女御さまはご自身の腕前を自覚して用意していらっしゃったので、ミスがあった時点で私たちが代わりましたからそれほど差し支えはありませんでしたよ」

「ええ。殿上人などどのあたりまでお弾きになられるか賭けをなさっていた方々もあったようです。ぜひまた参加していただきたいとことあるごとに言われます」

「他の女君からも再三勧められましたわ。ご自分が失敗しても目立たないからだと思いますけれど」

「なんとか中盤まで進まれたときは大穴を当てた殿上人からお礼の品をいただきました」

「あら、あれはお父さまとのおつきあいの品だと思っていたら違ったの」

 御帳台から出て茵のもとまでいざりながら尋ねる。


「ええ。それはともかくとして女御さまの失敗に対してはみな寛容でいらっしゃいます。ですが今回の件はひどく取りざたされております」

「不思議ねえ」

 誰であろうと失敗は失敗でしかないと思う。


「そういえば桐壷の方はなにかなさったの? 特に外した様子はなかったけれど」

 それどころか弘徽殿の女御さまと完璧に一体化して琵琶を奏していらっしゃった。濁りのある音の直後も、全く音のずれがなかった。


「いえ特に。でもないはずだった四曲目を進言したことが不相応だとおっしゃっている方もおりますね」

「最初に帝の右にお座りになったことをそしっている方もいます」

 琵琶を合わせるために弘徽殿の方に近い位置に座ることは仕方がないと思うけれど。


「桐壷の人はだいぶ恨みを買っていますからね。あそこの女房と接触するだけでも手ひどく言われます」

「それでも以前、楽の遊びの前に弘徽殿の女御さまがある程度抑えたことがあります。それ以降はひどい攻撃は目立たなかったですけれど」

「でもあれはあくまで音の遊びまでの限定的な対応でしょう。また始まってもおかしくはないと思うわ」

 女房たちがどことなく不安そうに語り合っている。


「今から心配しても何もできないわ。それに今回はみんながしっちゃかめっちゃかだから一人一人の印象は薄いと思うの」

 私はそう言って運ばれてきた粥の椀を手に取った。



 里に文を書いたり、昨日聞いた曲の一番簡単なものを琴で練習してみたりしていると、他の殿舎に出かけていた女房が戻ってきた。

「状況が凄く変わっています」

「何かあったの?」

 その女房は少し顔色がよくない。


「私どもに関わることではないのですが。昨日の失敗は全て桐壷の更衣のせいになっています」

「ええ? だってみんな見ていたでしょうに」

「それでも、更衣たちの失敗は桐壷の方が陥れたと噂されています」

 驚いて彼女を見返す。

「どういう風にすれば帝の前で人が琴を弾くことを邪魔できるのかしら」

「それについては語られていません。ただ、彼女が目立とうとして筝をあらかじめ練習しておいた上で主上を唆したと言われています。その根拠は、自分から言い出したことと急な取り決めだったのに見事に演奏したことのようです」


 妙に思って首を傾げた。

「前回私は参加していないけれど、あの時も同じようなことがあったのでしょう。確か弘徽殿の女御さまが予定にはない和琴をお弾きになったとか。素晴らしい音だったと聞いているわ」

 何人かの女房が声をそろえた。


「「だってそれは弘徽殿の女御さまですよ!!」」

 他の一人が小声でつぶやく。

「あの方でしたら突然大太鼓を任されてもどうにかなさいますよ」

 ……それは否定できない。


「伶人でもない並の者には予定なく急に楽器を変えられたとしたら、どこかで馬脚を現します」

「けれど例の方は女御さまに匹敵するほどの腕をお持ちじゃないの? だから今回の難しい琵琶も成功なさったのじゃなくて」

「わたしどもはそう思うのですが、そんなことは口が裂けても言える雰囲気ではないのです」


 不当な噂だと思う。けれどもそれが流された時点でもう誰にも止めることはできない。


「桐壷の方はどうしていらしゃって?」

「つい先ほどまで帝のもとにいましたが、今は下がって里帰りの用意をしているようです」

「それなら大丈夫でしょう。他の方は?」


 一人の女房がやはり暗い表情で答えた。

「他の方は知りませんが、あの技を仕掛けた更衣は夜も眠らず食も取らずと聞きました」

「それは心配ね。周りの女房が気を遣っているでしょうけど」


 別の一人も口を挟む。

「あの方って、思う方があったのに強引に入内させられた方なんでしょう」

「少しご様子がおかしいとかの噂のあった方?」

「そう。前々回の遊びでも音を外してしまわれた方」

「長く里に帰って充分くつろがれたと思ったのに、またこの状態では」


 一人がいっそう暗い顔をした。

「ねえ、その方本当に里で休むことができたのかしら」

「どういうこと?」

「あの更衣はもともとそれほど音に長けていたというわけではないでしょ。そんな技なんか身に着けていたとは思えなかったわ」

「そうね。けして下手と言うわけではなかったけれど」

「そしてあの時帝のお尋ねに里に伝わる技だと答えていたわね」

「ええ。……つまり?」


 まだ早い冷気が殿舎の中に忍びこむ。


「里に戻っても叱咤激励されて無理矢理に琴の練習をさせられていたのではなくて?」

「それ……あり得るかも」

「確かあの方のお父上は、さしたる筋ではないけれどやり手と評判の方でいらしゃるわ」

「今回の噂はもしかして…………」


 それきりみんな口をつぐんだ。



 夜の帳が下りてくる。

 灯りが静かに点されるこの時間帯が好き。

 初秋の今は気の流れもさわやかで、なんだか身が軽い気がする。

 けれど今日は聞いた話が重すぎて、それを楽しめない。


「今頃は桐壷の人は用意を終えてそっと出ようとしていますよ」

 あら。心配しているのがばれてしまった。私の女房は千里眼だわ。


 里下がりは目立たぬ夜間に行われることが多い。それでも有力な女御はたくさんの殿上人がお供に駆けつけるので大きなイベントになるけれど、弱小の更衣には身内や受領クラスの者がわずかに訪れるだけだろう。


「従兄の近衛の中将がいらっしゃるほか、目立つ方は右大弁だけですね」

「あの方も御親戚? 以前よく似ていらっしゃると話していたことがあったわね」

「近い筋ではありませんね。ただ音に巧みな桐壷の方に敬意をお持ちになっていらっしゃるようです」

「そのことがまた他の妬みを買わなければいいけれど」

「人気がありますからね、右大弁は」


 私の人気を一身に集める方は今はどうしていらっしゃるかしら。


「桐壷の方がお帰りならば帝は今日は弘徽殿に行かれたのかしら?」

「いいえ。昨日ちょっと帝の決裁を仰ぎたい事柄ができたらしいのですけれど、遊びの後今日の半ばまではあの方をお召しで人を遠ざけていましたし、そのあとは爆睡されていたので今やっと公卿たちがお会いしているようですわ」

「少し論議を呼ぶ事項らしくってそれ以下の殿上人も呼ばれて意見を聞かれているようですよ」


 と言うことは今日は後宮は人が少ない。女御・更衣のそれぞれの親も清涼殿にいるはずだ。


「滝口の武士は控えているでしょうけれど、なんだか少し不安ね」

「念のために見回ってきましょう」

「ありがとう。お願いね」


 その女房が同輩と部屋を辞すのを見送って、またぼんやりと灯りを眺める。

 だんだんと気が落ち着いてきた。

 ついでに何か物語でも読もうかと考えていると、先ほどの女房のうち一人が激しい足音で戻ってきた。


「大変です! 宣耀殿の辺りに例の更衣が!」

「桐壷の方がどうかしたの?」

「違いますっ、別の更衣です!」


 わけがわからない。宣耀殿はここの北側にある殿舎だが、今人はいない。

「何があったの?」

「た、大変なことですっ」


 動転してしまっていて事情が伝わらない。

 立ち上がると慌てて他の女房が止めた。


「なんだかよくわかりませんが危険ですわ」

「いえ、行かせて。すごく悪い予感がするの」

「とんでもない!」


 みんなが必死に止めるけれど、私は無視して部屋を出た。

 一応扇で顔を隠しながら、宣耀殿を目指して歩く。女房たちはおろおろとついてくる。


「!!」

 麗景殿からそこは近い。すぐにたどり着いて驚愕した。

 やつれきった美しい女が灯篭の火を映して輝く太刀を持って佇んでいる。

 先ほど噂になった昨夜琴で失敗をした更衣だ。

 少し離れた位置から彼女の女房が必死に呼びかけている。

 私の女房もその人たちと一緒にいる。


「…………殺すわ、あの女を」

 更衣の口元はまるで笑っているような形を作っている。


「あの女を殺して私も死ぬわ」

 顔さえ隠さず尋常でない言葉を口走るその人は明らかに正気を失っている。

 彼女は叫んだ。


「もう私には何もないのよっ! 帝の寵も、親の愛も、あの人への思いさえもっ!!」


 あわあわと焦る女房の一人が口走った。

「すぐに滝口を呼んできますっ!!」


「やめてっ!!」

 私は叫んだ。その子は驚いて私を見つめる。


「正気を失ったこの方を、男の人の前にさらしたくないわ。この方も帝の妃の一人なのよ!」

 夫以外の男性に顔を見せるのは大変な恥だ。二度とここへ戻れないほど。


「で、でもっ」

「どうすればいいのでしょう!」


 私は息を吸い込んだ。

 必死に考える。

 体中が震えている。


 ようやく思いついた。

 もう一度息を吸い込んで、それから吐き出す。


 私の女房を常にないほど強く見つめた。

 できるだけ静かに声を出す。


「…………すぐにあの方を呼んで来て」

「え!?」

「あの方、弘徽殿の女御さまを!!」


 一人の女房がたしなみなど忘れて走っていくのが目の端に映った。


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