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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
38/65

玄象

桐壷視点

 牧馬が走る。そして歌う。

 秘曲を奏でる私の琵琶は終始ご機嫌だ。


 そりゃそうだな、あれだけさらったこの曲だ。

 撥捌きも完璧だ。つくづく、源典侍に感謝だ。


――――(はや)るな、愚か者。


 なんだか誰かにそう言われたような気がした。

 ああ、でもおまえだって同じだろ。

 練習の時より勢いのあるこの速度にちゃんと乗ってるじゃないか。


 まったくもってしょうがねえ。

 自分を抑えようたって牧馬がその気だ。

 いや、そうじゃねーか。

 今、牧馬が私だ。


 一体化したまま疾駆する。

 誰にも止められねえ。


 玄象(おまえ)だってその気じゃねーか。

 なんだよ、その速さ。

 追い越す気だろうがそうはいかない。


 並走して走る二頭の獣は全く同一のスピードで野を駆け巡る。

 伴奏している右大弁が全身全霊で合わせてくれる。


 耳もそうだけれどなんだか視界もえらくクリアーだ。

 琵琶を抱えて正面を見ているのに全てが中に入ってくる感じだ。


 帝が楽しそうに身を揺らしてる姿とか、口を開けてあっけにとられているどこぞの女房とか、不愉快そうな顔の太った更衣とか、泣きそうな顔で下を向く痩せた更衣とか。

 和琴の女御二人も機嫌が悪そうだが、それでも一人は曲自体は気に入っているらしい。時たまちょっと体をスィングさせる。

 わ、小声でディスってる殿上人がいる。誰かの身内かねえ。すまねえなあ。でもやめられないんだ。


 曲が山場を迎える。

 同時に別方向へジャンプ! だけど軌跡はぴたりと同じ形だ。

 飛び終えるとまた身をそろえて、おんなじ方向に疾走する。


 すぐにまた来るぜ。今度はもっと難解な対比だ。

 そこの音を私は冴え冴えしい月光と取り、おまえは燦爛(さんらん)たる日の光とした。

 どっちも譲らず各自の解釈で弾きこなすことにした箇所だ。

 源典侍もここだけは一歩引いた。


 ここだ! 飛べ!


 この一節は全く違う音。

 それぞれの人生、性格、容姿も生き方も周りの女房も全部込みで博打のように音を張る。

 なのに完璧に決まった。重なった音は見事に調和した。

 つまり、蝉丸は全く違う個性の人間が同時に弾きこなすことを想定してこの曲を作ったってこった。

 まったく。会ったこともねえがくえないヤツだぜ。

 計画通り、と笑うじじいの姿が見えたような気がした。


 そしてこの時、白砂の上に控えるあの名人たる伶人が吐息を吐いた。

 やるじゃねーか、牧馬。すげえぜ、玄象。

 私たちはあの天才に息を呑ませてそれを吐かせた。

 これってけっこう威張れることじゃねーかな。


 かっ飛ばしているともうラストだ。

 

 行くぜ、弘徽殿!

 最後までクライマックスだ!!



 帝は誉めてくれた。

 普通の曲よりずっと理解している。

 むしろそれなりに腕も知識もある人々の方が戸惑っているような気がする。

 そうだろう、この曲はそんな曲だ。楽を本気で愛してるやつ以外は素直で中途半端に染まっていない感覚の持ち主の方がわかりやすい。

 今夜は一人で余韻を味わうって宣言されちゃったが、寂しさもあるけれど曲の楽しさを共有した幸福感もある。


 だから最後の曲は、あんたがいい夢を見られるようにできるだけ優しい音を出すよ。


 弘徽殿も同じ気持ちだったのだろう。ぴったりと合わせて穏やかな音を響かせた。

 ひちりきの名人も打物の伶人も右大弁も、そろってそれに乗った。

 親しみやすい曲だったので和琴の女御も安定した音を添わせる。

 

 ところが、筝を担当する更衣たちがやらかした。

 片方がまた違った音を加えようとしたのを、もう片方が強引に留めようとした。

 音は妙に重なり合って嫌な感じの鈍い音を出した。


 まずい。


 とっさにそれを打ち消すように瞬時に判断して予定にない澄んだ音を響かせる。

 その音は一つではなかった。弘徽殿が同時に同じ音を加えていた。

 私たちはまるで最初からの計画のように全くずれずに音を重ねた。


 ほぼ奇跡だ。

 でも偶然ではない。

 こいつも気づいていやがった。

 濁った重ね音はわずかに響かせた直後に澄んだ重ね音を加えると荘厳な趣に変わる。


 本当はこれは繰り返す方がいい。

 しかし筝の女たちにそれが理解できるはずがない。


 仕方なくそのままなるべく不自然ではない音を選んで進めると、さっとひちりきが助けを出した。

 気品を加えて流れる調べ。打物がわずかに拍子を変えて道を決める。

 竜笛が艶を加えて音を運んだ。


 最低な音のずれをどうにかみんなの協力で美的なものに変えて見せた。

 だが筝の二人はびびったのか、そのままぴたりと音を止めていた。


 和琴もしばらく静止した。が、こちらは意地を見せて大した音ではないがまたどうにか加わった。


 残りのメンバーも最善を尽くした。

 が、筝を欠いた楽曲は違和感を完全に消すことはできなかった。


 それでも名人の技量に頼ってどうにかうまく終了した。

 なのに更衣二人がすさまじい表情でにらみ合っている。

 音が終わっても帝の言葉がない。

 彼はなんとか笑顔を浮かべようとして硬直している。

 必死に耐えてはいるが目の奥が今にも潤みそうだ。


 こいつは自分で企画したこの遊びを本当に楽しみにしていたんだ。

 さっきまでは私さえ抜きで余韻を楽しもうとしたほどに。

 だからショックを隠し切れないのだろう。


 えーい、こんな時にはリセットだ。


「……あの、やはりもう一曲いかがでしょうか」

 声をかけてみると帝がほっとしたように言葉にすがりついた。

「そうですね。みなさん、いかがですか」

 賛同の声が上がるが、御簾越しの孫廂からとある殿上人の声がした。


「大変けっこうなことだと思います。ですが体調を悪くしたものもいるようなので……」

「ああ、そうなのですね。それはお気の毒なことをしました。筝の方たちは下がってくださっていいですよ。残りの人たちで何とかします」


 相変わらず空気読めねえ!

 同情心に満ち溢れたままひどいことを言っている。


 痩せた方は気を失わんばかりに憔悴している。

 太った方は険しい視線を今度は私に向けた。すげー睨んでる。

 それぞれの女房が二人を助けてこの場から引き下がる。

 静けさが戻るまで少しの時間を要した。


「それでは筝は別の方に担当してもらいましょう。ええと、こ、こ、こ」

 急に帝がにわとりになったわけではない。たぶん弘徽殿の名を上げようとしたのだろう。だが言葉が出ないらしい。

 ぴんときた。玄象だ。あの意志のある不思議な楽器だ。

 あいつ、響き渡るこの機会を逃したくないんだ。


 すまねえ、牧馬。帝が困ってる。


 心の中で琵琶に謝り、それから決意して声を出す。

「……大そう僭越ながら私が担当いたしましょうか」

 彼は明らかに安どした。

「お願いできますか。それではよろしく」


 今回は琵琶に特化した練習ばっかりでできれば避けたい事態だが、こいつのためなら仕方がねえ。

 それに以前弘徽殿に似たようなことを強いたことがある。ペナルティーだと思って頑張ろう。


 女童が私の前に筝を運んでくる。

 撥を置いて爪をつける。

 少し響かせて音を鳴らした。運よく柱を締める必要はない。


 不安だったがどうにか無難に最後の曲を奏でることができた。

 他のみんなも温かい音で助けてくれた。

 玄象も最大限こちらに気を遣っているのがわかった。

 もう、いいや。気にするな。


 曲が終わったころには、すっかり空気は元に戻っていた。

 帝はあいさつを述べ、それから私に告げた。


「ありがとう桐壷の更衣さん。助かりました。もっとお礼を言いたいのでやはり残ってもらえませんか」


 拒否する権利は私にはなかった。

 孫廂から刺すような視線を感じた。

 私は黙って頭を下げた。

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