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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
36/65

大曲

弘徽殿視点

「お願いです。ぜひわたくしもお連れください!」

 弘徽殿の孫廂の几帳の影で女たちが話していたが、中の一人の悲痛な声が奥まで響いてきた。

 慌ててそれを抑えているのは乳母子だ。


「それはみんな望んでいるのよ。あなたはまだ若いしそのうちに機会があると思うわ」

「これと同じ遊びが二度あるとは思えません! わたくしはどうしても今、まだ若く育つ余地のあるこの折りに加わらせていただきたいのです!!」

 こもった気迫に圧されていた乳母子が一瞬黙り、それから水がほとばしるような勢いで反論した。


「ちょっと、あなたっ、わたしだってまだ充分に若いのよ!」

「ですが普段音の遊びに気を入れているわけではないじゃないですかっ」


 こほん、と一つ咳をすると途端に静かになる。私は身近にいた女房に命じて二人を目前に連れてこさせた。

 片側はまだあどけない女房で髪さえもようやっと伸び揃ってきたばかりである。言い合いに興奮したのか、主人の威に打たれたのか目を潤ませている。

 一方の乳母子も少し息を乱している。説明を始めようとしたので扇をうち振るって止めた。


「話は聞きました」

 横にいる女房に若い方を指して尋ねる。

「この者の楽の腕は?」

「なかなかのものです。明け暮れ精進に努め、今では殿舎の内でもランキング上位に食い込みつつあります」

「で、ですがっ」

 くってかかる乳母子をひと睨みで抑える。


 今回の遊びは参加者が多い。連れてくる女房の数も前回よりも減らすこととなった。数少ない席を望む者は多い。


後生(こうせい)恐るべし、と言う。若い者が実力を磨いて上へと昇っていく様を見るのは私にとっても楽しみです」

 あどけない女房が顔を紅潮させた。乳母子はこぶしを握り締めて震えている。


「だが、この者は幼いころから身近に控えていて、今まで私の重要なイベントに加わらなかったことは一度もないのです」

 今度は娘がうなだれ、乳母子がガッツポーズをとる。


「しかし、そこまで意欲に燃える者の自己研さんの目をただ摘み取ることは本意ではない。おまえたち、楽以外に何か得意なことはありますか?」


「あります! 扇取りですっ」

「扇取りなら負けませんっ」


 同時に答えた。私は首を傾げた。

「はて、扇取りとはいったい何なのですか」

 横の女房がかしこまって答えた。


「…………女御さまがお心を鎮めるために投げる扇を受け取ることです。気力、体力、技術の三つが揃わねばできることではありません」


 少しくらくらとしたが、そんな様を見せるわけにはいかない。落ち着いた様子でうむ、とうなずく。

 それからしばし考えて「あるだけの扇を持ってきなさい!」と叫んだ。


 几帳や脇息を片付けさせ、いつもの席の茵の辺りに立つとはっし、とばかりに檜扇を投げた。

 鋭い軌跡を残したそれは、あどけない女房の手に取られた。


「取りました!」

「まだまだ、これからよ!」


 今度は手首をしならせて投げる扇が弧を描くように意識して投げた。

 若い女房の動きは速いのだが、変則的な落下地点の見定めはさすがに乳母子に分がある。

 彼女はつかんだ扇を高く上げて誇示した。


 右に左に二人は動き、山ほどあった扇を投げ切っても勝負がつかない。が、他の女房たちがわれもわれもと捧げてくれた。

 五分五分のままついに最後の一本となった。


 ぜえぜえ、と息をつぐ乳母子と対照的にあどけない女房は顔を赤くはしているが余裕を見せている。

 それでも私は配慮せずに二人の頭上の中央に投げ上げた。


 若い女房がいくらか下がり、ようやく把握した落下地点にたどり着くのと同時に、乳母子は前に出、飛んだ。


 五衣(いつつぎぬ)を着ている割には高い。彼女は宙で扇を受け取ると、そのまま落下した。べちゃり、と音がした。


「だ、大丈夫ですか」

 その女房が顔色を変える。乳母子は答えず、よろよろと扇をつかんだ片腕を上げた。


「勝者はおまえです。明日の夜、動けますか」

「は……い」


 乳母子がようよううなずいた。

 そうだろう。こやつの勝利を私は疑っていなかった。

 たとえ普段は才を示さぬ琴で争ったとしても、この女が負けるとは思わぬ。


 もう一人の女房はがっくりと肩を落とし、声を立てずに泣いている。

 私はそちらの方を向いた。


「…………髪を切ることができるか?」

 女房が驚いて顔を上げる。泣き顔は更に幼い。


「……女御さまの御命令とあらば、出家せよとのおぼしめしであろうとも従います」

 震え声で答える。


「そうではない。確かに女房の数は満たしたが、別枠がある。おまえはまだ若い。せっかく伸びた髪だが多少切れば女童として加わることができましょう」

「…………女御さま」

 潤んだ瞳のまま礼を述べる彼女と乳母子を局に下げさせた。積まれた扇を片付けさせたが、それを見て少し思いついたことがあった。




 上の局にいると、渡っていく女たちの気配を感じる。

 声を立てているわけではないが、やはり熱気を振りまき華やいでいる。

 全ての女たちが通り過ぎた後に立ち上がった。


 女官たちがかしづき、仕える。

 私が現れると室内は静まり返った。

 いつもの場所に座を占める。


 のんきな声で主上が開始を告げる。

 それに応えて右大弁の横笛が響く。

 音なしの滝たる名人のひちりきがそれに加わる。


 和琴の女御よりかは筝を請け負う更衣たちの方が響きがよい。

 この二人はふくよかなものと細いもので対照的な外観だ。


 さて。琵琶の番だ。

 弦として張られた絹糸が誘うように光る。

 玄象は充分に気を高ぶらせている。


 (ばち)を振るえばまったく同様に更衣の手が動く。

 完全に重なり合い一つに聞こえる。

 それでもその音は全然違うものだ。


 白銀の刃を相手ののど元に突きつける。

 こしゃくにも更衣はさらりと受ける。


 刃を重ねたまま横走りに移動し、そのまま二人身をかわす。


 さすが彼女の弾く琵琶は牧馬、疾走を得意とする。

 しかし私の玄象も地を揺るがして疾駆する。


 初秋だ。

 右大弁の横笛が風となり、名人が音で作った桔梗(ききょう)を揺らす。

 名も知れぬ伶人の打物が拍子をとる。


 秋の景色を背景に私たちは切っ先を青眼に構える。


 感嘆の思いがあった。

 もちろんこの弱小の更衣にではないッ。

 違うから。全然違いますっ。

 私のそれは源典侍に向けられている。


 よくもここまで音を伝えた。

 暑い夏だった。

 一音一音きっちりと合わせて更衣のもとに向けると、きっちりと抑えたうえで別の音の提案がある。その是非を決め、更に進める。


 音の質が上がってからは典侍が私や更衣を導くことさえあった。

 彼女の存在がなければこの流れはなかったであろう。


 万感の思いを込めて太刀のように撥を振るう。

 敵の刃に隙はない。


 殺意を込めた鋭い一撃。

 かわさず受けて音を走らす。

 沈黙さえも無音の闘い。

 その後のほとばしりのための間だ。


 思う存分やり合った。

 秋の野の中の二人の武人。それが私たちの姿だ。


 だがそれを解さぬ者もいる。

 曲の途中で交代した女御も無難としか言えぬ音だったがそれは構わぬ。

 しかし二人の更衣の細い方が、後半いきなり打って出た。


 相当に鍛錬を積んだのであろう。突然に派手な技巧を見せた。

 私は眉をひそめた。


 興にまかせて技を見せることは私にもある。

 だがそれは周りの技量を把握し、季節を呑みこんだうえ曲の流れを違和感なく戻せる自信のある場合だけだ。

 ふさわしくない曲に素人が唐突にエビ反りハイジャンプを加えても困る。

 

 もちろんこの場の大抵のものは瞬時に合わせたが、和琴ともう一つの筝が追尾できなかった。


 ほんの少し二つの音が途切れたが、すぐに必死についてくる。

 ひちりきが優しくそれを助ける。


 わずかに不安を残して大曲が終わった。

 

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