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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
35/65

開始

桐壷視点

「それではこれでわたくしの仕事納めとさせていただきます。今まで拙い音にお付き合いくださいましてありがとうございました」

 淑景舎の廂で源典侍が頭を下げる。髪も膚も艶やかで初めて来た時とは別人のようだ。初秋の気配と同じようにさわやかな声だ。


「こちらこそ。楽しい日々を送らせていただきました。また機会がありましたら是非ともお手合わせをお願いしたいと思っています」


 互いに微笑みながら別れた。

 彼女の姿が消えてしばらくすると、女房たちが気を抜いた。


「遊びは明日なのになんかもう終えたような気分だな」

「あっちもそうだろ。長い夏だった」

「しかし…………燃料はたくわえた感じだよな」

「彼女、あと十年は戦えるな」

「いや、二十年はいく気だと見た」

「そりゃ無茶な」


 寂しさもあった。自分の技術だけを好きなように磨き上げるのではなく人に合わせ、人を導くのは大変な作業だ。

 それを何とかやりおおせた私たちは、ただの更衣と女官としての仲ではなくもっと深いところを共有した戦友のような間柄になっていたような気がする。

 それも今宵が最後だ。


 明日、私は別の相手と相まみえる。気が昂ぶってしょうがない。

 夜の気配は床に流れる黒髪を冷やすのに、体も心も熱がこもる。

 空にはまだ満ち足りぬ銀の月。手を伸ばしても届かない。

 それでも私は握った(ばち)で月を差し招く。

 ひとすじの風が灯影を揺らした。




 あちらこちらの殿舎から女たちが静かに渡ってくる。

 それぞれの女房を守りにつけて、美々しい衣装で武装して。

 女童に持たせた楽器は闘いのための武具だ。


 今回私は呼ばれる前に昼の御座の右を占めた。

 女たちが針のような視線とささやきを向けているのを感じる。


 それでもいい。あの、音の帝に対峙する女が卑下していても始まらねえ。

 悪意だろうが軽蔑だろうが好きなもんを選べ。かまわん。


 弘徽殿は最後に現れた。

 絢爛たる花のような衣装の女房たちの中で、埋もれることなく他者を圧倒する覇気。

 他の誰にも追従を許さぬ帝王たるにふさわしい唯一の女。

 夕暮れのほのかな光の中、一人だけ真昼を従えたように輝いて見える。


「みなさーん、揃いましたね。今回は参加者が多くて嬉しいです。いっしょに楽しみましょうね」


 凍りついた気配を帝があっさり打ち破る。まったく、こいつときたら。気が抜けるじゃねえか。

 弘徽殿も同じだったのだろう。すっと伸びていた首筋がほんのわずかに下がった。


「今日は弘徽殿さんと桐壷の更衣さんの二人に琵琶を合わせてもらいます。こんなの初めてでしょう。私が考えたんですよ」

 そこ、威張るとこじゃねーよ。心の裡で突っ込むが、弘徽殿も同様に突っ込んでいる気がする。


「他のみなさんの楽も大変期待しています。音を楽しまさせていただくために今回私は担当しません。聞き手に専念させてもらいます。それではみなさん、健闘を祈ります。グッドラック!」


 いくらか緩んだ気配の中、竜笛が道を開いた。右大弁だ。

 常人ならまずは華やかさを選びそうなその初めの音を、故意に抑えたあたりに気品と知性を感じる。

 あくまでこれは女楽だ。男たちは伴奏にすぎない。


 例の名人のひちりきが流れを作る。

 まるで日常の一部が音であるかのように気軽な響き。しかしそれは並みの俗なものは含まない。

 仙人の飄逸(ひょういつ)。雲と霞を喰らう人の軽い遊び。

 そこに至るまでの険しい道を感じさせない自然な音。


 今回和琴は二人の女御が交代で担当する。

 さすがによく練習しているが特筆すべきものはない。

 筝は更衣二人が合わせている。なかなかのものだ。


 さて、琵琶のパートだ。

 いきなり白刃がきらめく。最初からクライマックスだ。

 ぴったりとついていく。


 源典侍の音は素晴らしかったが、弘徽殿の音はさらに上を行く。

 ドーピング効果じゃ得られない基礎を固めた深みが輪郭を作り、誰も近づけぬ孤高の魂が中で燃えている。

 その焔の強さとまぶしさに逃げたくもなるが、そうはいかない。


 待ちかねたぜ。

 とことんやろーぜ。


 曲はのっけから大曲だ。

 急雨のごとく疾走させてささめごとのように潜める。

 他の楽を映えさせて自らも輝く。

 それを完ぺきに音の大きさも速さも一致させてまるで一人の人間が弾いているように聞かせる。


「凄い……完全に一致した」

 帝の声さえ聞こえる。いや全ての音がクリアーに聞こえている。

 今、針の音さえ聞き逃さない。


 玉盤に大粒の真珠と小粒の真珠を落としたかのような音の錯綜。

 完全な計算とそれを裏切る他者の音に合わせた修正と、今この時自分の核から生まれ出でるシャウトのどれもを込めて少しも引かない。

 それでも、一音たりともずらさない。


 あいつの刃が突きつけられる。

 それをかわさずこちらも突きつける。


 合わされた刃に火花が散る。

 飛び退る。

 同時に。それぞれの方向に。


 本気だ。こっちを()る気で向かい合っている。

 それがたまらなく嬉しい。


 花の影で滑らかにさえずる鶯を気取れば、そのあと微かにむせび泣く泉の流れに身を変える。

 氷下に阻まれたかのように音を途絶えさせて他のパートに譲る。

 これも、計画通り。

 

 この時、声無きは声有るに勝る。


 沈黙が、憂いと恨みを高める。

 必要な間だ。


 突然、銀の(かめ)が割れて水がほとばしるように音を疾走(はし)らせる。

 あるいは、武装した騎乗の武者が刀や槍を振るうみたいに。


 源典侍と合わせていた時は、いつもあいつの音を探っていた。

 だが今日はそうはしない。私は好きなようにやる。

 音に興じて暴走だってする。


 だけど疑いもしない。

 音は一音も外れない。


 この死合、おまえを一方的に勝たせたりはしない。

 弱小の更衣の、死にかけた女の、そして死すべき女の意地を見せてやる。


――――受けて立つ


 帝王の答えが聞こえたような気がした。

途中、白居易の「琵琶行」を一部使っています。

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