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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
34/65

恋の奴

桐壺視点

 他の顰蹙を買うことがわかっていても、前触れがあると心が躍る。

 あいつが、この長い距離を自分のためだけにわたってやってくるんだ。胸がときめかないわけがない。


 道沿いの殿舎の主が、いやはっきり言って内裏中が恨んでいることは知っているし、申し訳ないと思っている。

 それでも気持ちが浮き立つ。有頂天になっちまう。


 世界中の悪意と比べてもこいつの笑顔はまだ重い。

 なのに今日はご機嫌斜めだ。彼らしくもなく仏頂面だ。


「……どした?」

 尋ねると、恨めしそうな顔で私を見る。


 帝はだいぶ躊躇して、それからひどく真剣な表情で私の手を両手で包んだ。


「……私のこと、捨てないでください」

「?」

 逆ならわかるがどういうことだ。


「いったいどうした? 私があんたを捨てるわけがないだろう」

「本当ですか? 絶対ですか?」

「あたりまえだろ。なにつまんねーこと言ってるんだよ」

 笑いかけると瞳が潤む。袖をあててそれをぬぐってやる。


「おまえ、泣き虫だな」

「だって…………」


 彼は身をかがめ、まだ濡れた瞳を私の肩にあてた。

 温もりがやわらかく浸み込んでいく。

 そのまま動かずにいた。


 蜩が鳴く。



 夜が更けたころ、ようやっと彼の言葉を汲みとることができた。


「…………だって更衣さん、モテるんだもの」

「なんのことだよ」

 思い当たることがなくて首を傾げたが、どうにか女房の言ってたことを思い出した。


「もしかして、右大弁のことか」

「そうです。あなたが特に興味を示していないことは知っているのですけれど、辛くって」


 噴き出した。彼は情熱を注ぐ楽に関わりのある人物に敬意を表しているにすぎない。


「私にとっては笑い事じゃないんですよ」

 拗ねた様子で帝が口を尖らせる。すごく可愛い。


「ああ、もう。誰にも会わせず唐櫃(からびつ)の中に閉じ込めてしまいたい」

「逆にあんたをそうしたいけどな。恋の奴はつかみかかるんだよ」

「穂積皇子の歌ですね。恋心は収められない。だからこそ不安なんです」

「右大弁は私のところだけに来てるわけじゃない。弘徽殿にも行っている」

「…………私の大事な妻二人のもとに。許せませんね」


 本気とも冗談ともつかぬ口調で言って、額に落ちる髪を掻き上げた。

 その様が思いの外に艶があって、私は押し黙ってしまう。

 理性を飛ばすひと時よりも、苦い感情を大人の良識の中に潜ませて閉じ込めるこんな際の方がエロい。

 だけどその言葉は、私の胸にも毒を注ぐ。


 こいつは、あの(ひと)のことをどう思っているんだろう。

 時には最大の(エネミー)

 またある時は寛容な保護者。

 賢明なる師。優しい姉。最強の覇者。

 …………そして、最初の女。


「ぐはぁ……っ」

「ど、どうしたんですか、更衣さんっ!人を呼びましょうか!医師と薬師は……」

「いや、いい。色々考えていたら自分で自分を刺してるような気分になっただけだ」

 きょとんとする彼の背中をポンポンと叩き、なだめる。


「時代と、システムを恨むぜ……納得したつもりだったんだがな」

 どうも修行が足りない。自分の情を抑えきれない時がある。特に、彼女に関しては。



 彼の寝息をそのままにして、こっそり妻戸をくぐってみた。

 誰もいない深夜の淑景舎。焔を揺らす松明。照り返す白砂。

 紫紺の色に染まる空。音のない夜。ジェラシー。

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