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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
33/65

宿命

 暑さがいくらかしのぎやすくなった。

 薄い闇の訪れを喜ぶように(ひぐらし)が鳴く。

 その声に紛れるようにわが殿舎に女の泣き声が響く。


 私は手近な女房に小声で尋ねた。

「あやつはいったいどうしたというのだ」

 その女も声をひそめる。

「…………彼氏にふられたようです」


 乳母子の声がひときわ高まった。

「うわ――――ん、ダーリンのバカあっ!!」


 まったく。主人の前でプライベートな理由で泣くやつがあるか。

 マシになったとはいえ女の泣き声を風情というには向かない季節だ。いや、涼しくなったとしてもこやつの声に趣はないが。


「何故ふられたか理由はわかるか」

「はい。発端は源典侍です」


 なぜだか知らぬが最近彼女は若い殿上人に人気があり、わが下の女房たちのつき合う男たちも軒並み参じているらしい。しかしその誰もが一時的な関係性で、そのあとは和やかに別れていると聞いている。


「ですので、私たちは犬にでもかまれたと思って見逃すことにしていたのですが、あの方は相手を激しくお責めになって……」

「結果、その方は逆切れ」

「おまえなど弘徽殿の女御さまの乳母子でもなければ見向きもせぬわ、とひどいことをおっしゃってゴミくずのように捨てたのです」

 他の女房たちも話に加わる。


 私は薄い笑いを口元に浮かべた。

「ほう。その男の名を言え」


 それを聞いて鼻を鳴らす。大した才も持たぬ男がこの私の従者に手を出して捨てるとはいい度胸だ。


「すぐに父を呼べ」

「あの……わたしどもの色恋沙汰ごときであまり事を荒立てない方がよろしいのではないでしょうか」

 女房の一人が心配そうに私をいさめる。承知の上だ。


「いや。状況を考えずに自分の足元をすくうようなバカは父の配下にはいらぬ。何も別れるななどと言っているわけではない。適当に言葉をつくろって穏便に別れを切り出すか、ゆっくりと間をおいて遠ざかればいい。それすらできぬ男に先はない。何らかの才を示す男であったら多少は配慮するつもりはあったがその男は不要だ。どん底へ落してやる」

 女房たちが少し青ざめる。自分たちが仕える者が誰であるのか充分に自覚できたようだ。


「どうせすぐにあやつを丸め込もうとするだろうし、またあやつはあやつであっけなく受け入れそうだがそうはさせるな。けして近づけるな。もう少しマシな男をこの私が選んでやる」

 言い置いて、適当な相手を考慮した。


 世の中に女の理想にかなう相手などいない。

 主上でさえ他者に心を分けることがあるのだ。並の者などに期待できるわけがない。

 それでも、彼女のためにいくらかまともな相手を探してやりたい。


 今はいい。私もいるし、乳母子は親元も確かだ。

 だが、年を重ねれば親に頼れぬ日も来るであろうし、この私もいつまでも元気であるとは限るまい。

 佳人薄命などというから、私は儚く世を去ってしまうかもしれぬ。


 そうなった時、こやつの暮らしはどうなる。食べるにもこと欠く日が訪れるかもしれない。

 この愚かで先のことを考えぬ女をそんな目には合わせたくない。


 だから、年とって訪れが減ったとしても見捨てないで暮らしを守ってくれる男を見つけてやりたい。




 源典侍と音を合わせた後、伴奏に来ていた男を留めた。右大弁だ。風通しの良い孫廂に控えている。


 御簾と几帳越しに見るとなかなか容姿も整っている。何故だか顔を見ていると無性に腹が立ってくるが、特に理由もないことなのでそれを抑える。


「そなたの竜笛、なかなかのものであった」

 乳母子ではない女房を挟んで言葉を与える。右大弁は深々と頭を下げた。


「過分なお言葉ありがとうございます」

「ところで多少尋ねたいことがあるがよいか」

「どのようなことでありましょうとも」

「そうか。ならば直答を許す」


 直接、語りかけた。

「そなたは妻が一人いるそうだがどのような方か」

「幼い時から苦楽を共にした身内筋の者です。他に頼れるものもないので見捨てることができない相手です」

 ふむ。性根は悪くない。


「なかなか見上げたこころざしだな。さぞや素晴らしい北の方だと思うが、子はないと聞く」

 少し身を乗り出す。

「もう一人妻を迎えるつもりはないか。もしその気があるのならばこの弘徽殿の女御およびわが父右大臣がそなたのバックアップを受けあおうと思うが」


 右大弁は不思議な反応を見せた。

 その涼しげな眼を大きく見開いてまじまじと御簾越しにこちらを見つめ、やがて不敵ともいえる笑いを口元に浮かべた。


「…………それは、そちらの推す方とのおつきあいを勧めていただいているわけですね。どのような方でしょう」

 頭も悪くない。話が早い。


「うむ。私の腹心の女房だ。美貌とは言えぬが悪くもない姿をしている。家筋は確かで親元も健在だ」

 男はわずかに首を傾け、御簾の奥に目をあてている。


「いえ、そのことにこだわりはありません。親など誰にでもいますし、顔などついていればそれでいいです。ただ、その方はどのような楽が得意でどの程度弾きこなすことができるのでしょうか。あなた様の腹心というからには相当なものだと思ってもかまわないのでしょうか」


 私は少し口を開けて男を眺めた。だがすぐにわれにかえって横の女房に乳母子のことを尋ねる。


「あやつは何が得意なのだ」

「いえ、これと言って際立ったものは。麗景殿の方よりかはお上手ですが、特筆すべき腕前は持ち合わせておりません」

 聞こえたのであろう。私が口を挟む前に右大弁の声が響いた。


「申し訳ありませんが、ただいま私は楽のためだけに生きております。音を競い合えない方はご遠慮させていただきます」


 小づくりで端正な美貌が強い意志を漲らせている。穏やかな声だが込めた決意は固い。

 立場が上の私はねじ伏せることも可能だった。しかし、そんな手段は取らなかった。

 相手の反応は思ったものとは違い、この私に逆らった。けれどなぜか不快ではなかった。

 軽やかな淡青の几帳の深い切れ込みから見える男の顔は緊張のあまり少し青ざめている。

 それでも引かなかった。名にしに負う弘徽殿の女御の前でそうできる男はそうはいまい。

 わが身内でさえ私の意志を優先する。


「ふむ。実に残念だ」

 軽く笑ってそう言うと明らかにほっとして息を吐いた。

「…………申し訳ありません」

「近頃はだいぶ精進したな。以前からすると見違えるようだ」

「あなた様と……桐壷の更衣のおかげです」

「どういうことだ」


 尋ねると今度はほんの少し顔を赤くした。


「…………ご存知のように私は、血筋的にはそう劣ったものではありませんが先の望みの薄い立場におりました。そのことで世を拗ね、しかし出家するにはあまりに未練があり過ぎ、浅ましく見苦しい生き方をしておりました。唯一の慰めは音の遊びだけでしたが、それさえも努力を怠り、ほんのささやかな才のみに頼って見苦しい様を示していました」

 右大弁は自嘲するかのように口元を歪めた。


「ご存知のように大内にはあの名人たる伶人がおります。子供のころから何度も聞いたあの者の音は至上の楽の音とも思え夢の中でさえ聞くほどですが、あまりに自分自身とはかけ離れていて近寄れるとさえ思えませんでした」

 彼はまた強いまなざしで御簾の奥をみつめる。


「しかしあなたが入内なさって内裏にあのすばらしい爪音が響くようになると私は追いつめられたような気がしました。神仏からその使命を下された天才は一人だけかと思いきや他にもいることを知ったからです。修練を怠ることの理由にしていたことを奪われたような気がいたしました。それでも私は悪あがきをしておのれの役割から逃げようとしていました」

 才に驕るだけの怠惰な日々。放棄した努力。死んだように生きる毎日。

「ですが神か、あるいは仏はそれを許さなかった。あの桐壷の更衣が入内してきて初めて音の遊びが行われた時、私は心底恥じ入りました。死ぬほど後悔しました。あなたと彼女の二人の遊びに加わることを許されていながらすっかり鈍ったなまくらな音を響かせることになったからです。荘厳なあなたの音ときらめく彼女の音。まったく違った二つの音がまるで前世からの定めのように惹かれあい絡み合い競い合うさまを聞いた時、私は初めて自分が何のために世に生まれたかを知ったのです」

 迷いのない声がまっすぐに私に届く。


「もはや出来不出来は関係ありません。磨いて、磨き抜いて血を吐きながらも努力してそうしてやっとあなた方の足元に音を供える資格ができると、それだけのために生きているのです。私は、今は死人ではありません」


 澄んだ瞳には力があった。迷いはもうそこにはない。厳粛な決意とともに軽やかな歓びがあった。


「あなた様とあの更衣に感謝しております。心からの敬意を捧げさせてください。今、私には他の方の入る隙間はありません。あなた方と音だけです」


 夏の終わりの暑さをしばし忘れた。こんなに情熱あふれる断りは初めて聞いた。

 苦笑してそれを受け入れた。



「今大人気の右大弁をもう少しで夫に持つことができそうだったと聞いたらあの人大騒ぎをしますよ」

「悔しがるだけだから黙っていなさい」

 少し柔らかく女房に応える。

「第一自業自得です。もう少し楽の修練を積んでおけば目があったのかもしれぬのに」


 女房も邪気のない笑顔で答える。

「それは無理ですわ。わたしどもの中で最も楽に長けたものが、毎日どんなに修練を積んでも女御さまたちの域にはたどり着きませんわ」

「右大弁はやる気ではないですか」

「あの人はそう定められた方。わたしたちは違います」

 彼とは違った澄んだ瞳が私を見つめる。

「私たちのさだめは、女御さまにひたすらお仕えすることです」

 追従ではない意志がそこにあった。私は答えずほんの少しだけ彼女に微笑んだ。


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