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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
30/65

秘曲

弘徽殿視点

 蝉の声が響いている。わが殿舎は広々としているがさすがに暑く感じる。

 女房たちも軽い色合いの生絹を控えめに重ねているが、さすがに唐衣はつけている。

 私は小袿をさらりと着ていた。


 眠くなるような午後、典侍を待ちかねていると先に乳母子がにじり寄ってくる。


「桐壷の方から音の質を上げたいのならば源典侍をとにかく誉めろ、と言ってきました」

 私は無言で乳母子を見返した。実は内心困惑していた。


 他の女房たちも口々に勧めてくる。

「わたしたちも頑張って誉めます。ですが女御さまご本人がお言葉をお与えになる方がずっと効果が見込めます」

「たとえばこのわたしなど女御さまにお褒めの言葉を賜ったのなら、生涯の誇りといたします」

 それでも無言の私に乳母子が問う。


「やはりお心を偽ることはお辛いのですか」

「そうではありません」

 偽ることは苦手だが、この場合は悪いことではないので苦痛ではない。


「ただ私は、褒められることには慣れていますが誉めることには慣れていないので、なんと言えばいいのか思いつかないのです」

 普段から磨き抜かれた弘徽殿の母屋は床板さえも鏡のようになっている。私がうつむくことなどそれほど多くはないが、今その床に自分の影が映っていることがわかる。


「それではご自分が普段お誉めになられていることを基にして何かおっしゃればよろしいのではないでしょうか」

 乳母子が気軽に決めつける。しかし……。


「いらっしゃったようですわ」

 知らせに来た言葉を受けて、女房が何人か迎えに立ち上がる。今日は琵琶の袋を抱えた女童を一人伴っている。

 私の前にもう一つの茵が敷かれる。そしてそこへ典侍が招かれた。


 女童は袋から琵琶を出すとそれぞれの前に据え、自分は行儀よく孫廂まで下がった。

 典侍は遠慮して床に座ったがしいて茵に座らせる。


「先日は拙い技量を晒すことになり申し訳ありませんでした。必死に修練を積んでは見ましたが、どうしても女御さまのお耳にかなう域まではたどり着けず、ぜひお役目をご辞退させていただきたいと……」


 断られても困る。私はとっさに顔を上げ、盛りを過ぎた女を真っ向から見た。

 特に誉めるべきことは見つからないがなんとかせねばならない。


「…………美しい(棒)」


 内心自分でも驚いた。たぶんさっきの乳母子の言葉に影響されたのだと思う。この私の全てが褒められるべき要素だが、中でも特によく言われることの一つがつい出てしまった。


 典侍はぽかん、と口を開けた。

 それはそうだろう。唐突過ぎるし言葉に心がこもっていない。周りの女房たちも言葉の不自然さに呆然としている。


 源典侍はかつては美しかったのだろうと思う。その名残もあるが、今はこの時代では初老とされる四十を越えている。もはや美をたたえるにふさわしい姿ではない。しかし私は続けた。


「正直あなたが女御・更衣の一人でなかったことを心の底から安堵している。もしそうであったならばこの私は心休まる時はなかったであろう。いや、今でも不安ではある。典侍は特に主上の身近でお世話をする仕事。このように美しい方が傍にいたならお心が揺らぐこともあるに違いない。源典侍、お願いだからその魅力を主上に向けないでほしい。近くに接して初めて知ったその美貌に私は正直恐怖している(棒)」


 …………何を言っているのだ私は。

 ごまかそうとして盛大に外している。話を盛るにもほどがあろう。昇天ペガサスMIX盛り程度のレベルではなくなっている。

 恥ずかしくなってしまって再びうつむく。やはり慣れないことはするべきではない。普段はそれなりに有能な女房たちも固まってしまってフォローもない。


「………まあ」

 源典侍が声を出した。私はとても顔を上げられない。


「女御さまがそのようなことをお考えになっていらっしゃったとは。わかりますわ、かつては宮廷一の美女として世を騒がせたこのわたくしへの恐怖は。いえ、常々主上の熱い視線を感じていたのも事実ですし、恐れ多いことですがそろそろお応えするべきではないかと考えておりました。しかし、強面を持ってなる女御さまがまるで少女のようにこのわたくしに怯える様を見て惻隠の情に捕われました。よござんす。そろそろ帝も頃合いかと思いましたが、女御さまとの友情に免じてあきらめることにいたします」


 …………主上を食う気満々だったのか。それと強面とはなんだ、強面とは。

 内心相当にむっとしたが、頭を下げて礼を言う。かなりの努力が必要だった。



 不機嫌なまま玄象の琵琶を抱えた。私の選んだものは火事の際人手を借りずに自分で逃げたりするとの伝説を持つ名器である。素晴らしい音を出す。

 源典侍は無明を抱いている。これも伝えを持つ名器だ。私はこの琵琶に多少の縁があったので最初こちらにしようかと迷ったが、玄象に呼ばれたような気がしてあきらめた。


 合奏すべき曲は大曲が一つだ。しかし念のため小曲も二曲ほど合わせている。

 今回は最初から大曲を奏することにした。


 かき鳴らすと同時に典侍の音も鳴った。

 腰を抜かしそうになった。前回の遠慮がちな音とはまるで違う。堂々として強く、深い。華やかさだけではなく渋い色合いも含む。

 深山の奥の林の中で青苔の上にさっと夕陽が光を送る光景がまぶたに浮かぶ。


 若い女には出せない音だ。だが心の裡が年老いた女にも出せはしないだろう。

 雅の中に飄逸(ひょういつ)な味がある。私の音が海、更衣の音がきらめきながら流れる川ならば、この音は神秘と俗とを併せ持つ深い緑の沼だ。


 前回、私は正直気落ちしていた。源典侍ほどの名人でもこの程度の技量なら自分が思うような合奏は一生できはしないだろうと。

 しかしそれは間違いだった。彼女はまだ自分の実力を出し切っていなかったのだ。

 いや、もしかすると今は普段の実力以上の音を響かせているのかもしれない。


 蝉の声がいつしか止んだ。蝉さえ聞き惚れている。

 典侍の撥捌きはいよいよ神がかって素晴らしく、この私、この内裏一と自負するこの弘徽殿の女御が時たま追われるのではなく追う立場に追いやられるほどの冴えを見せる。

 更衣の前にこの女と闘っている気分で音を合わせた。



「素晴らしい。これほどの腕とは知らなかった。母の手ほどきの後についた私の琴の師匠はまさに名人というべき方であったがその方に肉薄するものを感じました」

「お役にたてたようでしたら幸いです」

 源典侍は品よく答えた。


 曲を終えるとまた蝉が鳴き始めた。その声を聞いているうちに私は昔のことを思い出した。

 源典侍の顔を見てそのことを口にした。


「短いものですが秘曲中の秘曲というべきものを知っています。私はこの曲を永遠に胸の奥にだけ閉じ込めておくつもりでした。ですがあなたという素晴らしい奏者を得て世に出すと心に決めました」

「はて、それはいかなるものでしょう」

「蝉丸の手によるものだと伝え聞く」


 蝉丸。生まれも知られず生まれた年も不明な謎の隠者。管弦をよくし和歌の才にも長けている。とある親王の雑色だったという人もあればある帝の落し種と伝える者もいる。逢坂の関の辺りに庵を設けているらしいが、会うことのできる者は少ない。


「私の琴の師匠は早くに亡くなったが大変に才のある殿上人だった。その方は彼の蝉丸なる隠者に出会いこの一曲を与えられたといっていた」


 同じ秘曲でも「流泉」「啄木」は後の世に伝えるべき者がいれば残すと言ったそうだ。わが師匠は「白露」という曲を託されたが、これは不思議な曲だった。

 音の調子が優雅さを欠く程に速い。当然弾きこなすのは至難の業である。通常の楽に似た曲はなく件の隠者がおのれのために作ったものらしい。


「亡くなる前にわが邸を訪れて奏してくれた。楽才を持つ子のいない方で弟子あった私に残してくれたのだ」

 師匠はそれからしばらくして亡くなった。


 私は琵琶を取り上げるとその曲を弾き始めた。

 典侍はしばらく撥の位置を眺めながら聞いていたが、途中から目を閉じて音だけを楽しみ始めた。

 他の女房たちは不思議そうな顔をしている。通常の曲とあまりにも異なるこの曲は並みの者にはわからない。

 撥を置くと彼女はそっと手をたたいた。


「素晴らしい曲であり、素晴らしい演奏でした」

「うむ」

「ただ、この曲がわかる者は少ないでしょう」

「確かに。しかしあなたにはわかると思いました」

 これは世辞ではない。

「この曲が奇妙なのは他にもあるのです。途中の節の部分ですが、もう一つの音があります」


 再び奏でた。さっきは高く鳴らした部分が音の運び自体は似ているが、低い音だ。そんな箇所がいくつかある。


「これは先ほどの演奏と同時に弾くものなのだそうです。うまく合わせると違っている部分がえも言えぬ風情を出すそうです」

「それはそれは。でもだいぶ難しい演奏ですね。ただでさえ速すぎて撥の運びが難しいのに」


「………でも、あなたならできます」


 私は彼女を見つめた。


「この曲を合わせることはあきらめていました。しかしあなたという才を得てどうしても試してみたくなりました。ほんの一節ずつお教えするのでお願いできませんか」

 源典侍は袖を振った。

「いえ、とても。買いかぶり過ぎですわ」

 視線を外さずに彼女に告げる。


「美しいあなたは音さえも美しい」


 典侍の顔が紅潮した。


「…………お受けします」

 にっこりと笑いかけた。

「さすが、美貌で有能な方は決意さえも潔く綺麗です」


 源典侍はにんまりと微笑みを返した。

 蝉の声がまた、激しくなった。


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