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源氏物語:零  作者: Salt
第一章
3/65

楽の音

桐壷視点

 帝付きの女房は、感情を見せずに言葉を伝える。


「月の冴えに音を添えるお遊びのほど、どうぞよろしくお運びください」


 こちらの女房もうやうやしく言葉を返す。


「ご丁寧なお誘い、ありがとうございます。晴れがましい場に気後れしておりますが、皆様方の伴奏に勤めさせていただきます」


 礼を通して相手は去った。

 とたんに私の女房は舌を出す。


「腕が鳴るぜ!」

「こら」


 私は彼女をたしなめる。


「つたない音ですが、と卑下するべきだろう」

「だってお方様は弁才天クラスじゃないスか。嫌味ですぜ」


 他の女房が口を出す。


「そんなときは自分の音がひどい、とすりかえて話すんだ。常識のないヤツだな」

「じゃ、リーダーが応待してくださいよ。それにあっしの琵琶(びわ)は結構なもんですぜ」

「自分で言うな。ま、仕方がない、ご苦労さん」


 彼女は褒美代わりに高杯(たかつき)を渡す。上に椿餅がのっている。


「あ、これを頬張っていたから出なかったんだな」

「はははっ。え―と、他の方々の腕前はどうなんだろう」

「一つくれたら調査結果を話しやすぜ」


 別の女房が、裾を引きながら現れた。


「おう。ま、食いねぇ」

「お方様は?」


 首を横に振る。


「私はいい」

「そうっスか。じゃ、遠慮なく。え―と麗景殿は人はいいけどは樂はいまひとつで」


 各々の下馬評が語られる。


「意外なことに一位は弘徽殿(こきでん)らしいっスよ」

「上手い女房がいるってだけじゃないのか」

「いや、本人もわりにやるらしい。ただ、他のやつにあまり合わせようとしないから、たとえ主上でも追従するしかないとか」

「それ、上手いというのか」

「音が大きいだけなんじゃ」

「なんにしろ、うちの更衣様にはかなわんだろう」


 集まってきた女房たちが口々に語るが、リーダー格だけが眉をひそめた。


「まずいな」

「ん?」


 怪訝な目を向ける同輩にはかまわず、彼女は私に向き直る。


「申し訳ありませんが、少し音を控えていただけませんか」

「他の方々にアピールする絶好の機会じゃないっスか」

「それがマズいわけよ。この間いきなり主上が来ただろう」


 突然のお渡りで驚いたが、結果として機嫌よく帰った。それ以来、連日お召しがある。


「だいぶ反感を持たれつつある。当初、親切だった他の局の女房が口を聞いてくれなくなった。嫌がらせが始まるのも時間の問題だ」

「いやがらせ?主上のお召しに対してのその行為は、彼の方の判断に不満を述べることにならないか」

「おめえ、身内にここに勤めた者がいねぇな」

「そんな甘い所じゃねえよ。うちのママンは昔の典侍(ないしのすけ)でさ、けっこういろいろ聞いたがな、表沙汰にならないだけで命を落とした方さえいるんだぜ」


 裳についた小腰(こごし)をいじりながら、彼女は再び私に向かう。


「お方様の楽の音が素晴らしいことは重々承知しております。けれど、念のために人並み程度の腕前に見せかけていただけるとありがたいのですが」

「わかった」


 私はうなずいた。

 不満を述べる他の女房を抑える。


「無理に目立とうとは思わない」

 彼女は安堵のため息をついた。




 磨かれた床を踏んで東面にたどり着いたが、裏を回り、台盤所(だいばんどころ)の端へ身を落ち着けた。(ひさし)御簾(みす)はしっかりとおろされているが、中の仕切りは可能な限り外してある。几帳(きちょう)で仕切ってはいるが、人が多いため形だけだ。当然他の方々の様子がわかる。


 おとなしく控えていると、他を圧するほどきらびやかな女房の一群れが現れた。

 その中心に立つ女。豪華な衣装を身に着けているが、その全てを引き剥いだとしてもやはり圧倒的な存在であるとしか思えない鉄壁の美女。弘徽殿。

 並みの背丈なのだが、その何倍にも見える。そしてその周りに「征伐」だとか、「殲滅(せんめつ)」「撃破」などの文字が浮かんでいるようにも思える。そしてその字は重なって溶け合い、「覇者」の一言を造りだす。

 挑もうとさえ思えない徹底した力。大したもんだ。

 彼女はこちらに目もくれず、昼の御座の左横の(しとね)に座を定めた。

 

 感心していると、帝が現れた。

 他と同様に頭を下げる。

 彼はそれを上げさせ、しばらくキョロキョロしていたが私を見つけうれしそうに微笑んだ。


「更衣さん、こっち、こっち」


 おい馬鹿っ。手招くなっ。

 首を横に振り、必死にうつむいていると彼の命を受けた直属の女房がやってきて誘う。私の女房が慌てて断りを入れるが許されない。彼の右隣に場所を移される。

 先にそこにいた女御と、その女房たちの恨めしそうな目。

 おまえってヤツは本当に馬鹿だなっ。

 こんな男に惚れた身の不幸を周囲の視線によって思い知りながら、

でもあの何も考えていない笑顔はやっぱり可愛いぞ、この野郎、とにやけた表情を中にしまいこむ。

 その間弘徽殿は眉一つ動かさない。ただ、周りの女房たちが不満げに何か囁いている。


 それぞれに仕える女童(めのわらわ)が、楽器の位置を変える。

 その女御の所の子が、うちの嬢ちゃんの汗衫(かざみ)の裾を踏みつけた。

 転んでしまう、と青くなった。だがこの子は賢かった。愛らしい微笑を浮かべて「ごめんなさい、裾の扱いを間違ってしまいました」と頭を下げた。

 白けた顔でその子は足をどける。うちの嬢ちゃんはもう一人の女童と勝者の余裕で筝の琴を運んだ。

 ほっとした。が、たぶん事態はさらに悪くなった。

 無数の視線が針のように突き刺さる。


 だが、音合わせが始まったとき、私はその全てを忘れた。

 ひときわ強く、美しいその音。

 何者にも類さない、唯一の楽の音。


 弘徽殿は和琴を前にしていた。

 比類のない音は、それから響いていた。

 私は、夢見心地でその音を追った。


 天界の音だ。心でつぶやく。

 迦陵頻伽(かりょうびんが)を思わせる。

 

 正式に曲が始まる。

 御簾の外の孫廂(まごびさし)からは殿上人の奏す音。(きざはし)より下の白砂の上からは地下の楽人たちの音。

 横笛が鳴り、ひちりきが重なる。打物(うちもの)が的確に調子をとる。そこへ、主役の音が冴えわたる。

 他のやつに合わせない? 当たり前だろう。音の世界で帝は彼女だ。全てを組み敷いて取り込み、季節も月も音に溶かして、ただ君臨し支配する。


 比類ない音だった。一片の卑しさも持たない王者の楽の音。

 全てを制す者のみが持つ威と、孤独。

 引き込まれた。彼女の時空に。

 私は時を忘れ、場を忘れ、主上さえ忘れてその音に酔った。

 

 その領域に異変が起こった。

 私とは違う更衣の一人が音を外したのだ。

 考えるより速く指が動いていた。いくつかの音を加えての軌道修正。私はただ、世界を壊したくなかったのだ。


 目立つな。冷めた部分が私に告げる。なのに指先は自然に弦を操り、音が戻った後もそこから抜けることができない。

 体の要求によく似た欲望。ごく微かな音で密かに支える手も選べたはずなのに、

自分の音で彼女に対峙したくて仕方がない。


 ―――ままよ


 覚悟を決めて音で挑んだ。和琴に絡む(そう)の音。

 ただし、よほど耳のあるやつしか気づかない程ささやかに。

 彼女の視線がわずかに動いた気がした。


 

 言うなれば、彼女の音は空。

 どこまでも広く澄み渡る。

 私はだから風になる。雲の一つも揺らしてやろう。

 あるいは、その音は海。

 千尋の深さで全てを包む。

 ならば私は魚になろう。波の最中で跳ねてやろう。


 そんな気持ちで絡んだら、やはりこいつは一筋縄ではいかない。月並みな感慨など軽く蹴散らす。甘さを捨ててほんのわずかに低めの音で、嘲笑うように色彩を変える。

 こちらも色を消し無彩の音を響かせる。


 ふいに紅蓮の炎が上がる。

 予想していた。間髪をいれずについて行く。

 けれど周囲の人々はたぶん、理解していない。

 ほんの少しいつもと調子が違うとしか気づかないだろう。

 そう思った瞬間、打物が絶妙に律をあわせた。

 名も知れぬ地下の伶人(楽士)。しかしこいつは判っている。

 あと、技量はいささか劣るが横笛を奏でる殿上人の一人。

 こいつは音の色味を読むことができる。

 わずか数名。それだけが競い合う音の闘い。

 ファンキーだ。そして超絶高度なセッション。帝さえ知ることができない。

 我を忘れて、音の世界に興じた。


 楽の終わりが訪れた。

 うつし世に戻るのが辛くて、思わず弘徽殿の方をじかに見てしまった。

 あいつも同じ心持ちだったらしい。共感をこめた視線をこちらに流し、ふいに気づいて思いっきり渋い表情を作り、つんと顔をそらした。

 なんだかこいつもけっこう可愛い。


「お方様」


 私の女房が小声で囁く。殊勝気にうつむいて見せるがいまさら遅い。


「なんだかいつもと違った感じでしたね」


 にこやかに帝が語る。そのくらいは判るらしい。


「桐壷の更衣さんが加わったからかな―。これからは必ず参加してくださいね」


 再び視線が針になって降り注ぐ。


「更衣さんの音は他の人と違う。優しくって強かった」


 バカの一言、火に油。おまけにそのセリフは弘徽殿に言ってやるべきだぞ。

なのにこいつの信じきった、嬉しそうな顔はどんどん胸に入り込んでくる。


「このあと付き合って下さいね。他の方々にはまた、ご挨拶に伺います。それでは」


 決定的な一言。お母ちゃん、ワタクシ、無事里に下れるとは思えません。

 うちの女房以外の全ての女が瞳に焔を宿した。弘徽殿はこちらを見ず、というより存在さえ認識しない顔で毅然と膝立ちした。

 (きぬ)()れの音が遠ざかる。少し残念だ。

 あんたは私のことを憎むだろう。だけどこっちはそんなことはできない。あの音の創り手を嫌うことなどできるものか。

 他の女御方が露骨にこちらに不愉快そうな視線を当ててくるが、そんなものはどうでもいい。

 悪いが、他の方々は眼中にない。



 私の心を捉えるもう一人が、子兎が跳ねるような勢いで寄ってきた。全く、こいつは。


「会いたかった」


 文句を言いたかった。だが、無邪気なこの笑顔。

 私は私の選択でここにいる。それは他の誰のせいでもない。帝のせいですらない。どうしても嫌なら、どんな手でも使えるのだ。

 こいつの傍にいたい。それは紛れもない真実。


 言葉に出さずに目だけに気持ちを込めた。同じだよ。おまえと。

 差し出される手にそっと触れた。温かい。案のじょう私は自分から握り締めた。

 なぜ、こんな厄介なバカに惚れるんだ。ああ、私もバカだからか。

 じゃあ、おまえも苦労するぞ。私はそう単純なバカじゃないからな。

 覚悟をしろ、と目で言うと、こいつは黙って瞳を閉じた。

 自分の意思で口付ける。

 安泰な人生?ほどほどの栄誉?いらねえよ、そんな生き方。

 欲しいものはおまえと、あいつの音楽。


 先刻の音がよみがえる。鮮やかで華麗な奇跡の音が。

 それを背景に立ち上がった。傍らにぴたり、とこいつの温度。

 夜の御殿は妙に遠い。

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