練習
桐壷視点
「更衣さんは琵琶をお願いします」
帝の言葉に気軽に応える。
「いいとも。で、他の方は何をやる?」
「決めてあるのは弘徽殿さんだけです」
「そうか。何?」
「琵琶です」
「?!」
事情を説明されて息を呑む。何だそのミッション・インポッシブル。
「………弘徽殿が承知しないだろう」
「もう受けてくださいました」
「へ?」
信じられなかった。どう考えても彼女が承諾するとは思えない。
「あの日の弘徽殿さんはとても優しかったのです。こっちがちょっと見苦しい様を示してしまったのに」
「どんな?」
「言えませんよ。恥ずかしくって」
耳まで赤くなっている。
だいたいわかった。私たちは泣く子と帝には勝てない。その両方を兼ねるこいつにはあの弘徽殿さえ譲らざるを得なかったのだろう。
それが作為的なものだったらあいつも拒んだだろうが、帝の態度に裏はない。それがかえって孔明の罠となる。
「二の宮が戻ってしまって淋しいから、何とか気を紛らわせたくて」
「ありがとよ。そういえば一の宮はどんな感じの子なんだ?私は一度も見かけたことがないが」
急に帝が暗い顔をして下を向く。なんだ、何か変なこと聞いたっけ。
彼はしばらく陰鬱な表情で床を見つめていたがやがて口元にかすかな苦い笑みを浮かべた。
「…………最初の子だから生まれた時はすごく嬉しかったです」
「あたりまえだろ。赤子は可愛いぞ、どんな子でも」
この重々しい空気はなんだろう。次の子を産んだ私に遠慮しているのか。
「でもどんどん育つにつれて私は彼を見るのが恐くなりました」
「?」
「彼に必要なことは全てしてやりますが、思い出すだけて辛いときもあります」
「いったい………」
いつもは底抜けに明るい彼の顔に暗い影が宿る。
「なぜだよ?まだ小さいんだろ。何か悪さしても許してやれよ」
「彼は何も悪いことはしません。あの年にしちゃしなさすぎなほどのいい子なんです。ですが……」
しばらく彼の言葉を待った。
帝の声はほんのわずかに震えて聞こえた。
「………その顔は私にそっくりなんです」
なんだ、と軽く受けることはできなかった。深い考えなど無縁の彼の顔に、絶望と言えるほど凄惨な色が現れている。
「弘徽殿さんに似ていたらよかったんです。そうしたらもっとあの子を可愛がれた。小さい可愛い弘徽殿さん似の赤ちゃんを抱っこして内裏中をはしゃいで回ったでしょう。だけどあの子は私に似すぎている」
「おまえ、もしかして」
帝はうなずいた。
「そうです。私は自分のことが大嫌いなんです」
衝撃を受けてその品のいい顔をガン見する。ふざけている様子はない。
「よき帝であろうと努力しました。後見の弱さを盾に親政を行おうと頑張ってみました。そのたびに弘徽殿さんや右大臣に阻まれましたが本当はわかっていたのです。私にその才はないと」
淑景舎(桐壷)まで泣きに来た彼を思い出す。あの日はむきになって不満を訴えていた。
「先の帝の妃腹のご長子は東宮になっていません」
「もうすぐ兵部卿になられる方だな」
「そうです。東宮になられてもおかしくない立場の方なのですが、政治的に無理でした。思うのですよ。一歩違えば私が彼だったのかもしれないと」
左大臣に同腹の妹を嫁がせて関係を強化してはいるが、本来の外戚たる後見は今はこの帝にもない。あまたの女御・更衣が集ったのもかえってそのためだ。
「無能な私よりも彼がついた方が良かったかもしれませんね」
「そうとも限らねーよ。十四歳だっけ、先帝の息子。綺麗な顔だとは聞くけど賢いなんて聞いたこたぁねぇ」
むしろ噂じゃ頭と人柄は今一つ感があった。
「それでも器の小さな私なんかがこの立場にあるのは間違いなんじゃないかといつも考えてしまうのです」
何も考えていないわけじゃないんだ。
「だけどな、あんたが帝じゃなかったら、私たちは出会っていなかったんだよ」
心の裡で何度も繰り返した問答だ。もう私は結論が出ている。
「………そうですね」
「それに私はあんたが大好きだ。その愛しい相手をあんまりけなすと怒るぞ」
彼がはにかんだような笑顔を見せる。
「政のことだって私には全然わからないが、それぞれの人の話をちゃんと聞いてやればそれでいいんじゃないかな。あんたには確かに力はない。でもそれが大きな強みでもあるだろう。何も約束したり行動したりする必要はないんだから」
そもそも帝に直接話をできる人など限られている。聞いてやるだけならまずいことにはならないだろう。
「ありがとう、更衣さん。なんだか肩の荷を下ろしたような気がします」
「そう言ってくれると嬉しいぜ」
互いに微笑みあった。
後に私は悔やむこととなった。
人を離れ、それでも全てを捨てきれずに現世を覗きに来た時に、この時どうしてもっと忠告しなかったのかと後悔した。
しかし私はまだちゃんと生きている最中で先のことは知る由もなかった。
「で、どうするんですか。練習に弘徽殿に行くんですか?」
「こんな事例は聞いたことはないですけど土産物かなんか用意した方がいいっすよね」
「さりげなく、いやげものを用意しましょう」
「ああ、以前もらった悪趣味な香が捨てられずに残ってるからあれを押しつけようぜ」
「よせ、おかたさまの趣味を疑われる。納涼に、とか言って妖怪かなんかの絵を用意しよう」
「そっちの方がひどいですぜ」
女房たちが話し合っていると来客があった。
帝付きの女官の源典侍だ。かつては華やかな美女であったであろう方だが、今は年相応の様子になっている。しかし色恋沙汰を捨てたわけではなくたまに艶聞を聞くことがある。
典侍は琵琶を持参していた。
「これが牧馬、そしてこれが無名でございます」
いずれも劣らぬ琵琶の名器だ。感心して眺め入る。
「練習のうちから使用して当日までにお慣れください」
「お心遣いありがとうございます」
礼を言いながら疑問も浮かぶ。片方は私が弾くものだろうがなぜ両方持ってきたのだろう。当然弘徽殿が先に選ぶのではないだろうか。
「あちらの女御さまはすでに選ばれました。玄象をお弾きになるそうです」
牧馬と対にして語られる名器だ。だから当然それを選ぶのが筋だろう。
ではなぜ、わざわざ無名まで運んできたのだろうか。
「それでは、つたない腕ではありますがお手合わせをお願いします」
かしこまって無名の琵琶を抱く源典侍を見てぎょっとする。
「ええ、どういうことでしょう」
彼女も驚いて私を見上げる。
「あら、お聞き及びではありませんか」
話を聞いて目が点になった。
音の遊びの当日まで、私と弘徽殿は音を合わせることはないそうだ。
代わりに源典侍が二人の音を写して合わせることになっている。
「いえ、わたくしも僭越な上にとてもとても伝えきれないと思ったものですから、何度もお断りしたのですが許していただけず……」
「確かに無理のある話ですね。あなたの腕はすばらしいと聞いておりますが他者の音を写すことは、どんな名人にとっても並大抵のことではないでしょう」
「そうです。わたくしも気が重くて」
源典侍は暗い顔でうつむいた。
それでも、決められてしまったからには仕方がない。
私たちは合奏を始めた。
典侍は素晴らしい腕を持っている。が、弘徽殿の音とはやはり違う。
「あの、その辺りは女御さまはもう少し力強くお弾きになりませんでした?」
「そうだったかもしれません……」
「思うに掻撥はもう少し速いのではないかと」
「そんな気がしてきました……」
彼女の音はだんだん鈍ってきた。
私は焦った。このままでは練習にならない。
どうしよう、と悩んでいた時に女房の一人が何の気なしにつぶやいた。
「それにしても源典侍さんはいつも若々しくていらっしゃいますね」
途端に音が冴え冴えとした。
別の女房がその言葉を受ける。
「ええ。うらやましいですわ。ご衣裳の趣味もよろしくて」
萎縮していた指使いが滑らかになった。
「いまだ殿方にモテモテですってね。あやかりたいものですわ」
信じられないほど音の調子が上がった。さっきとまるで別人だ。
これだ。この方は誉めらて伸びるタイプなんだ!
一通り合わせて、次の期日を決めて源典侍は帰っていった。
私はすぐに女房たちを集めた。
「いいか、あの方は誉め言葉に非常に弱い。弱いがどんどん楽の腕は上がる。今度から弾き始めたらとにかく誉めろ」
「あっしもそう思いました。実際、モテ関係口にしたら弾きっぷりがパネエことになりました」
「だろ。源典侍は実に素直な方だ」
みんながちょっと脱力する。
「そちら関係が特にキーワードか」
「いやいやいや。いくら恋バナが多少あるとはいえ現役は退いた予備役だろ」
「しかし本人はそうは思っていないぜ」
「ちと厚かましくはないか」
「それで機嫌がよくなるんならいくらでも誉めるぜ、あたしゃあ」
勝手なことを言い合っていると一人が私に尋ねた。
「このこと、弘徽殿の方に教えてやりますか」
「その方がいいだろうな」
あっちが本気で当日まで直に合わせないつもりなら、できるだけ典侍を持ち上げるしかない。それだって、あいつの域には届かないとは思うが可能な限り底上げをする。
こんな強引な手まで使って、弘徽殿は無茶なヤツだ。
そうまでして私と合わせたくないのだろうか。
だが、胸の内に別の答えもちらつく。
ぬるい練習なんていらない。
当日現場で、あの戦場で本気の遊びをしよう。
私は飢えている。
もう長い間あいつの音を食っていない。
勝負しようぜ、弘徽殿。
死線を乗り越えた女の凄まじさを見せてやるから。
磨いておけよ、あんたの音を。
食らい尽くしてやるから。