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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
28/65

琵琶

弘徽殿視点

 お召しがあって上に侍ると主上はにこにこと機嫌がよさそうだ。

「あのね、いいことを思いついたんですよ」

 掌中の珠たる二の宮が、更衣の里に戻ったので気落ちしていると予想していたが外れた。


「何をですか」

「音の遊びを。もうだいぶ女楽はしていませんね」


 男たちの遊びは行事に合わせてあるし、私と主上や主上とあの更衣が個人的に合わせて遊ぶことはたびたびある。

 右大臣家に親しい殿上人たちと弘徽殿で遊ぶことさえあるのだが、女御・更衣が集うことは長くなかった。

 思い出してみるとあの更衣が二度ほど出た後は企画されていない。


「そうですね」

「久しぶりにいかがですか」

「悪くはないと思います。少々暑いですが」

 涼を求めて里へ下っている女御などもいる季節だ。


「じゃ、決まりですね」

「はい、承知致しました」


 主上はにっこりと笑うと私の手を取った。

「約束ですよ、絶対ですよ」

「え、ええ」

 なぜこうも執拗に念を押すのだろう。不思議に思いながら尋ねた。


「今回私はなんの楽器を担当すればよろしいでしょう」

「決めてあります……琵琶をお願いします」

 苦手な楽器などないが、特に得意としている。

「喜んで承ります」

「ありがとう、弘徽殿さん。安心しました」


 いまだ手を離さずそのいたずらっぽい瞳も真向かいからあてられている。

 胸がドキドキしてきた。

 気をそらそうとつい、別のことを尋ねた。


「他の方は何を担当なさるんですか」

「他の人はまだ決めていませんが桐壷の更衣さんは決まっています」

 ドキドキが痛みに変わる。私は自分からその手を外した。


「…………それはなんでしょうか」

 主上は澄んだ美しい瞳を輝かせた。

「琵琶です!! 」


 その美しい瞳の底を探るが何もわからない。


「曲によって琵琶の弾き手を変えるのですね。どちらが先に弾くのですか」

「違います」

「主奏者と伴奏者に分けるのですね」

 当然私が主に違いない。


「違います」

「…………」

 いったいどういうことなのだろうか。


「今回は二人でぴったりと合わせて合奏していただこうと思っているんですよ」

 困惑して見返すと主上は嬉しそうに立ち上がって袖を返してわずかに舞った。

「すっごくいい手段でしょう。これで弘徽殿さんと更衣さんも楽を通してもっと親しくなれるし。あなたもハッピー、私もハッピー、彼女もハッピー、まさにWinWinの関係です」

 ……私にとって、うーんうーんの関係だ。


「あの、主上」

「何でしょう、弘徽殿さん」

「琵琶は筝とは違い撥を使ってかき鳴らします。同じ曲をシンクロさせて引くのは至難の技かと」

「大丈夫ですよ。二人とも超絶技巧を持った楽の達人じゃないですか。どうにかなります」

 なるわけがない。

 私は眉をひそめた。


「お断りします」

 冷たく拒むと幸せそうだった主上の表情が変わった。

「なぜですか」

「まず第一に私や更衣の腕をもってしても、今までの水準を保つ出来にはならないであろうということ。そしてもう一つ、桐壷の更衣と親しくなりたいとは思っていないことです」


 この天然にはわからないだろうが、後宮は女たちの戦場なのだ。後見たる父から後方支援は受けても、われわれは生身の体で闘わなければならない。

 遊びごとなどを共にしても、それは形を変えたバトルだ。


「ですから、その案は無駄なことだと……」


 言葉を止めた。私を見つめる主上の目がふいに潤みだし、目じりに涙が浮かんでくる。

 彼は顔を押さえると後ろを向いた。必死に抑制しようとしている。

 が、低い嗚咽が抑えきれない。


 私は震える彼の背を見た。

 この日の本の国を一人で支えるにはあまりに細すぎる少年のような背中だった。


「…………ごめんなさい、勝手に一人で盛り上がってしまって。そうですよね、それぞれみなさんお心の内は違うんだし迷惑ですよね………」


 強圧的な態度で命じられたら、意地でもはねのけて見せるのに。


「困らせてしまってごめんなさい。私が考えなしでした……」

 彼は私にあまり涙を見せたがらない。袖で抑えるさまさえ見せたくないらしく、振り返らずに謝った。


「いつも私が馬鹿なんです。弘徽殿さんはいつだって正しいのについ勝手なことを考えて、それを無理に通そうとして………」

「…………主上」


 私はその細い背にそっと手をかけた。

 びくり、と肩が揺れる。


「…………お受けします」

「本当ですか!」

 まだ涙の残る瞳が再び輝いた。

 うなずくとふいに抱きしめられた。


「ありがとう! ごめんなさい! ありがとう!!」

 しがみつくような腕の力は強い。

 私もそっと力を込めた。



 無言で早足で弘徽殿に戻ると人払いをした。

 そして思いっきり円座(わろうだ)をぶん投げた。

 それは美しい弧を描いて廂を越え孫廂も越え前栽の向こうまで飛んだ。


「…………飛距離が出ました」

「やかましいっっ!!」

 乳母子にくってかかる。


「それがどうしたというのかっ!!この私が投げれば室伏越えなどたやすいことですっっ」

「よくわかりました。拾ってきますので少々お待ちください」

 女童まで下がらせたので彼女が自分で取りに行った。


「それで、どうなさったのですか」

「どうもこうもありません!」

 怒りつつも、身近に仕えるこの女が事情を知らないことは気の毒なので親切心から話してやる。

 語っているうちにさらに昂ぶってきた。


「ええい! 更衣め。主上の心をたぶらかすとはまったくもってけしからぬ! 」

 レザアマシオウ!(戦いのアート)とばかりにポーズをとると乳母子がなだめようとする。

「確かに更衣は懲らしめるべきだとは思いますが、主上のお申し出をお受けになったのですね」

「主上のお心を捨て置くほど私は鬼ではありませんっ」

「もちろんです。それでどうなさるのですか? お受けになるのでしたら音を合わせて練習することが必要ですね。あの女をこちらに呼びますか? 」


「まさかっ!! この神聖なる弘徽殿に穢れを持ち込むとでも思うのかっ」

「いえ皆目思いません。ですがそれではアウェイである桐壷まで出向くのでしょうか? 」

「私がそんなバカなことをするはずがないであろうっ!! 」

 誰が行くかっ!!


「それではどういたしましょう。一度も合わせずに音の遊びの日を迎えることはさすがに無謀だと思いますが」

「そんなわけがないでしょう!いかに私が天才であろうとも凡人たるあの女に足を引っ張られて大変なことになります!! 」


 乳母子は目を白黒させた。

 私も息を吸いなおして気を落ち着かせる。


「……主上から練習の方法は自由でよいとの言質を取っています」

「しかし、呼ばず行かずでは練習のしようもないでしょうに」

「そこで私は考えました」

「何をでございますか」


 私は大声で人を呼んだ。

「誰かある! すぐに源典侍を呼んで参れ! 」

 乳母子はあっけにとられて呆けたように私を見つめている。

 私は彼女ににやりと笑いかけた。


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