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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
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桐壷視点

 目覚めるとまだこの世にいることに安堵する。

 眠りは異界に通じる。そこはほの明るく苦しみのない世界だ。

 誰にとってもそうなのか、私だけが行くべき場所なのかはわからない。


 辛くはないので、地獄ではないのだろう。

 しかし、極楽だとも思えない。


 まあ、全ての女御(にょうご)更衣(こうい)の憎悪の的であり、殿上人(てんじょうびと)たちの悩みのもとたる私が極楽なんかに行けると思う方が間違いだ。


 死は薄衣一枚へだてた世界だ。

 そしてそこは優しく私を差し招く。


 だけどまだいけない。いや、いかない。

 強く意志を持たなければ、いつの間にかあちらにさ迷い込む。


 皇子を生んだ直後がそうだった。

 あの時は帰れないかと思った。

 ほの明るい世界をさまよって、自分が自分であることさえ忘れそうになった時、かすかな楽の音が聞こえた。


 淋しげで美しい音。高雅な苦しみ。

 最も高い格を備えた楽の音。(きん)(こと)

 今では学ぶ者さえめったにいないその響きが、か細い道を作っていた。


 邪を払い魔を退ける弓弦(ゆづる)にも似た音。

 そこに雪のようにこぼれる白い花。

 それが萩であることには気づいていた。


 私はあの時死ぬはずだった。

 思いだけを残してこの世を去ることが必然だった。


 だが偶然、道が通された。

 清らかな琴の音と白萩によって作られていた。


 渡るべきではなかったのかもしれない。

 戻るべきではなかったのかもしれない。

 自分というものを全て捨てて忘れてしまうべきだったのかもしれない。


 だが、その道に変わっていくささやかな音は私に、捨てるべき執着を思い出させた。

 光を含んだ美しい音。

 その音が好きな私。私の好きな帝。生まれたはずの帝の子。


 夢中でその道を渡った。

 渡る端から道は崩れて小さな白い花は氷雨と変わった。

 私は道を渡り切り、目覚めることができた。


 ……弘徽殿(こきでん)前栽(せんざい)(植え込み)に萩の花が植えられていることを聞いたのは後の話だ。



「最近は長くお休みですね」


 寄ってきた女房に小声で答える。


「だらけていけねえ。なんか変わったことは?」

「皇子さまが脱走されて大変でしたよ」


 捕獲された犯人は離れた位置で乳母にあやされている。体を起こした私に気づいたのかすごい勢いで這いずってきた。

 速くてびっくりする。そろそろまた里に戻さなければならない。


 膝に抱いて揺すると目を閉じてうとうとする。もう、けっこう重い。

 それでも完全に眠るまでそうしていた。

 眠り込むとすぐに乳母が私から受け取る。

 そのまま抱いて(ひさし)の端に行き、置かれた(しとね)(平安座布団)に寝かせている。


「どこまで行っていた? 」

殿舎(でんしゃ)から抜けて麗景殿(れいけいでん)まで。まだよかったスよ。あの方は穏やかな女御さまですから」


 囁き声の会話に別の女房が加わる。


「本当、肝冷やしました。この前ちょっと殿舎から人けがなくなった時に何者かが皇子さまだけの部屋に入った気配がありましたから」

「閉めたはずの妻戸が開いていたっす。ぞっとしました」


「驚くな、そりゃ。だが……今はこの子は大丈夫だ」


 東宮の地位を望まない限りは何者も手を出すことはできない。強く守られた存在だ。


「確かにこれだけ可愛けりゃ悪意も持てませんぜ」


 それだけではない。目覚めると思いだせないが、私はその理由を知っている。


「それにしても麗景殿はいい方ですね。とげとげしない女御なんて久しぶりに見ました」

「帝にお仕えする方の中では一番おっとりしてるな。だがああ見えてけっこう鋭いし、身を守るすべも持っていらっしゃる。他の方々に対しても必要とあれば反撃できる賢い方だ」


 乳母に気を向けながらこっそり会話するが彼女は息子と一緒にうたた寝を始めた。

 すると女房の一人が近寄って二の宮と乳母にそっと袿をかけてやる。


「あの女御さまもですが仕える女房も穏やかな人が多くないですか」


 リーダー格の女房がそれに答えた。


「仕える方に影響されるもんだ。新参で割とぎすぎすした人があそこに入ったのを見たが、二月ぐらい後に見かけたらすっかり温厚な女房に変わっていた」

「なるほど。じゃああっしなんかも以前より美しくなってませんかね」


 何人かが噴き出す。


「顔は無理って。雰囲気だけだぜ」

「雰囲気だけでもお方さまに似るんならありがたいけどな」

「どこの部屋もそうでしょうかね」

「わりにそうかな。例外はあるが」


 女房の一人が首を傾げる。


「例外ってどこですかね。知ってる限りではだいたいそうなってる気がしやすが」


 リーダー格がにやりと笑った。


「似ようたって無理なとこがあるだろう」

 一人がぽん、と膝を打った。



「確かに。いやあえて言えばプライドが高いってのが共通点かな」


 気づいた女房が大いにうなずく。


「衣装が豪華ってのもあるけどそら仕える人が似ようったって無理だわ」

「何者も足元にさえ寄れない方のことだな」

「寄ったら蹴られるぜ、絶対に」


 われわれは唯一無二の存在を思い浮かべた。


「部屋の者が敬意を向けているのは知っているが、あの人たちも真似ようとは思わんだろうな」

「野生の獅子かなんかを見て凄いと思ってもやたらに近づこうとはせんだろう」

「嵐とか雷とか自然災害に最も近い女性というか」

「もの凄く孤高の方だな。誰も近寄れないんだから」


 そのことをたぶん受け入れている。

 だからこそあの音に濁りはない。


 かすかに琴の琴の音が響いた気がした。

 もちろんその音は実際にはなく、女房たちの囁きだけが流れている。

 普段の強く鮮やかな音の下の淋しく美しくか細い音。

 闇の眷属(けんぞく)は近寄ることもできぬ音。

 

 人の声の中で、私はそっと目を閉じて幻のような音を探した。 


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