主従
弘徽殿視点
「そんなに可愛らしい皇子さまなの?」
大殿油を近づけて漢書を読んでいると、女房たちが小声で噂を語っているのが聞こえる。
「そりゃあ、もう。さすがにあれは憎めないわ」
「厳めしいもののふだって微笑んじゃうクラス」
「親の仇だって頬が緩んじゃいそう」
「ほら、あの方が局にこもっちゃったでしょう」
乳母子の名があげられる。そういえばさっきから姿が見えない。
「殺る気満々で桐壷に忍んだのよ。更衣と大半の女房は夜の御殿の方に行っていて人が少なかったから」
さすがに血の気が引いた。忠義を尽くすとはいえ、そこまでは求めていない。
立ち上がりかけたが女房の声音の調子に気づいてそれをやめた。
「二、三人連れて行って気を惹いて、その隙に桐壷にこっそり上り込んだらしいの。で、いたんだって、その赤子」
「どうなさったの? まさか本当に手を……」
不安そうな女房の声を語る者が抑える。
「ううん。そのまま帰ってきて『可愛いは正義』って一言つぶやいて引きこもっちゃったわ」
ほっとした。が、すぐに怒りなのか悲しみなのか心配なのかよくわからぬ感情に支配される。
書を置いて立ち上がった。
すぐに幾人かの女房が近寄ってくるが拒んだ。
「よい。裏に行くだけです。そのままいなさい」
「ですが、大事なお方を一人で………」
きっ、と睨むとそのまま凍りついたように静止する。
「私の言葉に逆らうことを許しません」
床に這いつくばり許しを請うその女房に生返事を返して母屋の外に出た。
この殿舎に入って長いが女房たちの局を尋ねたことはなかった。
それでも彼女たちの会話で誰がどの場所にいるかは頭に入っている。
乳母子の部屋の間で少し躊躇した。心を決めて戸に手をかけた時、ふいにそこが開いた。
「…………女御さま」
「何ごとです、その恰好は」
長い髪を耳ばさみにして更にひもでくくっている。それだけならいいが袴の裾もくくり上げ、唐衣どころか小袿さえ着ていない。さらに言えば、四角い布を三角に折ってその両端を耳もとで縛り鼻と口を隠している。
予想もできぬ私の出現に彼女は焦った。
「はあ」
「なにゆえその格好ですか」
「いえ、その……」
「答えなさい。どう見ても賊としか思えぬ」
乳母子の露出した部分は青くなった。
「こ、コスプレです」
「この弘徽殿に居住する者が何故にそんな珍妙な仮装などするのかっ!!」
叱りつけると乳母子の瞳が潤んできた。
「申し訳ありません……」
涙がしたたり落ちる。相当に滑稽な図である。
私は寛大にも落ち着くのを待ってやった。
乳母子はしばらく涙を落とし、それから頭を下げた。
「どうしても、どうしても赤子を殺めることができませんでした。ならば発想を転換して更衣自身を排除すればよいと……」
「愚か者っ!!」
低く、ドスの聞いた声が出た。
「この私がそんなことを望んでいると思うのかっ! そこまであさましい女だと見くびるかっ!!」
乳母子は必死に首を横に振る。
「いいえ。姫さまがそんな卑俗な心をお持ちでないことはよく存じております」
訴えるようにこちらを見つめる。
「ですが、ですがどうしてもお役にたちたかった。この身は帝の妃を殺めた大罪人と遇されようが、姫さまの憂いを少しでも払えるのならそれでもよいと思いました」
浅い女の浅い考え。それなのになぜ私の頬はそんな女と同じように濡れるのだろう。
「おまえはバカですっ」
「はい」
「ただのバカではない、大馬鹿です!」
「はい」
「内裏一のバカ、日本一のバカ、宇宙一のバカです!」
「………はい」
彼女の目を見つめた。彼女も私を見た。
「だけどそのバカのいない暮らしを私が送れると思うのかっ!バカもいい加減にしなさいっっ!!!」
乳母子はやはり間抜けな格好のままで滝のように涙を流している。実に見苦しい。
「すぐに仮装をやめなさい。そして二度と人の命を殺めようなどと考えるな!」
耳ばさみの髪を元に戻し、袴の裾をほどき、手早く局に戻って唐衣を身に着けてきた。
私は黙って手を差し出した。彼女は震える手でそれを取った。
「戻ります」
「はい」
廊は長く薄暗かった。。
けれど乳母子の手は温かく、母屋までの道のりがもっと長くてもたぶん不愉快ではなかったと思う。
私は無言のままその道を歩いた。