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源氏物語:零  作者: Salt
第二章
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疼痛

桐壷視点

「見てください、こんなに美しい子が他にいるでしょうか」

 すっかり親バカとなった帝は息子を抱いて自慢する。

「本当になんとお美しい御子でしょう」

「このような方には初めてお目にかかりました」


 人々は満更お追従だけでもない表情で誉めてくれる。

 実際、私も目が曇ってるかもしれないがすごくきれいな赤子に見える。


「本当ですよ。うちの子なんかと較べるのも申し訳ないですが、天と地の差ですわ。同じ年なのに」

 息子の乳母で五条あたりに住む人がにっこりと笑った。

「あら、うちの子なんか女の子ですのにそうなのよ。本当にこの宮さまは素晴らしいわ」

 彼女と代わって帰り支度をしていたもう一人の乳母が名残惜しそうに息子を覗き込む。


 どんな容姿だって私には大事な息子だ。小さくて温かくて柔らかい。人に慣れたのか、誰に抱かれても機嫌よくキャッキャッと笑っている。

 だけど私には特に嬉しそうな顔をしてくれるような気がする。


 乳母が赤子を抱えて散歩に向かう。幾人かの女房がそれに従う。御簾越しに、陽の光を浴びる彼を見送った。



 ふう、と隣にいた女房が気を抜いた。

「若宮はむっちゃ可愛くて見ていて幸せですが言葉に気をつけなきゃならんのだけが大変ですね」

「あったりまえだろう」

 リーダー格がどやしつけた。

「二の宮さまにはどんな傷もつけたくないだろ。俗っぽい言葉はうつるんだ。否が応でも気をつけろ」

「へえへえ」

 他の女房も会話に加わる。

「あっしもねえ、最初自分がこうなるとは思ってなかったスよ。しかし、今やこっちの方が地になっちまって戻すのがイヤっスよ」

「なんかもともとのしゃべりだった時はな~んか自分でも見え張ってたって気がするんですよ。衣装がどうのこうの家柄がどうのこうの、人と比べて威張ったり落ち込んだり。そんなん取っ払っちまうとえらいすがすがしいって学びました」


 二人の乳母はどちらもいい人だが、彼女たちの前ではみんな言葉に気をつけている。

 今までは殿舎の外や来客の時だけ気を配ればよかったから少し肩がこるらしい。


「その点お方さまはオンオフ切り替え早いっスねえ」

「ああ。慣れだな」

「御心の内はけっこう凛々しくて、あっしらはそれが好きですが表面はどっからどう見ても儚げな麗人ですよね」

「凄くごまかしてるからな。見た目と内面は一致するとは限らないさ」

「じゃあ、あの弘徽殿も内側は乙女だったりして」

「ねえって。それだけはねえって」

「怒ると背中に鬼の面が浮き上がるとか、いろんな伝説のある女だぜ」

「物の怪に悩まされていたある女御が、丑寅の方角に弘徽殿の書いた字を飾ったところ、ぴたりと怪異が収まったとか」

「まじないの類さえ信じないそうだけど、そりゃそうだわな。あやかしにさえ避けられそうだ」

「考えてもみねえ、自分が妖怪だったしてもあのお方の前には現れんだろう。いきなり存在自体を叱られそうで怖いぞ」

「内裏最強の女って噂は嘘じゃあないからなあ」


 なかなか騒がしい。

 でも私は、彼女の内面においては思うところがある。


 出産前の音の遊びで見かけた彼女の指先の震え。

 全く変わりのなかった表情。

 そしてその時の見事な和琴の音の響き。


 揺れを決して見せないようにしているが、不動の心を持っているわけではないと思う。

 それどころか今笑い話にされたことが真実で、強固な鎧の下に感じやすい乙女心が震えているのではないかとさえ考えてしまう。

 女房たちが腹を抱えるだろうから口には出さないが。


 私の立場は完全に彼女の敵だ。

 その敵から同情されるほど不愉快なことはないだろう。

 そして私は上から彼女を見下ろすほど安定した立場ではない。

 後見もなく、たった一人子をもうけただけの弱者だ。

 帝の気持ちは今は私に向けられているが、いつまでそれが続くかはわからない。


 彼が他の女に微笑みかける図を想像して血の気が引いた。


 何せ帝は内裏一空気の読めない男だ。何の悪意もなくその様を見せつけるに違いない。

 弘徽殿の立場は想像上の私の位置だ。


 私は人に不利益を与えている。

 しかしいつかは他者がその立場につくかもしれない。


 今までの私なら仕方がないとあきらめることができたかもしれない。

 因果応報と苦く笑い、帝を思って泣いただろう。


 だが、もうそんな贅沢は許されない。

 私には守るべきものがある。



「二の宮を私は………」

「絶対に言うな。そして無理だからあきらめてくれ」

 お召があって夜の御殿に二人だけの時に彼が囁きかけるのを止めた。

「え、でも更衣さん」

「頼むから。私はどうでもいい。だがこの子を危険な目に合わせるのだけはやめてくれ」


「まさか」

 全く邪気のない笑顔。

「みんな二の宮を愛してますよ。誰もがすっごく可愛いって言ってくれます。その通りですが」

「それは本当だろうよ。だが、それとこれとは別だ」

 育ちのいいこいつは人の暗い想いなど知らない。善意を持ったままで自分を嫌悪しながらも通す悪の道筋など考えることもできない。

 おかわいそうと涙を流しながら、それでも幼子の細い首に手をかける下の立場の恐ろしさと悲しさなどわからない。


 おまえはそれでいい。私はそのバカで清らかなところが大好きだ。

 だが息子の命は守らなければならない。

 その上、後見がないわけだからこいつの愛情もキープしなければならない。


 気持ちが悪い。

 純粋に、まっすぐに本当に大好きなのに、感情に功利的なものが付随する。

 気づかなければいい。だが私は自分の立場に無自覚ではいられない。


 帝の愛にすがらねばならないか細い立場。

 そんなことに関係なく私はこいつを愛した。

 なのに今はその立場が私を縛る。

 感情の大河に一筋の濁りが混ざる。


 弘徽殿がうらやましい。

 自分の愛情に毛ほども後ろ暗いものを混ぜずにすむ彼女の立場がうらやましい。

 誇りだけを身に着けて隠すもののない彼女の心がうらやましい。


「どうしたんですか、更衣さん。なんだか少し辛そうに見えるけど」

「んなわけねえだろ。あんたもいるし子供もいる。女房たちはみないいやつだ。恵まれてるよ」

 ごまかしのための言葉。薄汚い。


「とにかく、さっき言いかけたことは絶対に口に出さないでくれ」

 帝はこくん、とうなずいた。

「でも、あきらめたわけじゃないですよ」

「なるべく早くあきらめてくれ」

 強気に告げると相手が微笑む。大好きな笑顔。

 こいつが帝じゃなくって、私も更衣じゃなければよかったのに。


 胸の奥の疼痛は今までのものとは違った。

 しこりのようなものを含んで、それはいつまでも消えなかった。



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