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源氏物語:零  作者: Salt
第一章
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弘徽殿視点

 例の更衣(こうい)は里へ戻った。音の遊びに根を詰め過ぎて調子を崩したらしい。

 たわいのないことだ。その程度の体力でいざという時に主上をお守りすることができるのか。やはり格下のものは心構えさえ劣っている。

 この私を見るがいい。日ごろの鍛錬(たんれん)により風邪一つひかぬ。


「先ほど、手の者が参りました」


 乳母子(めのとご)がいつになく沈んだ顔で現れた。


「ほう。何か変わったことでも」


 付け加える。


「たいして興味はありませんが」


 口を開こうとした彼女は少し悩んで唇を閉ざし、それからまた開きかけ、そのまま止めた。


「ええい、じれったい! さっさと語りなさいっ」


 促すと、彼女は目をそらして床を見つめながら答えた。


「…………更衣が懐妊したようです」

「よく眠っているのですか。そんなことをいちいち報告しなくともよろしい」

「快眠ではありません。懐妊です」

「休まず出てきたのですね」

「それは皆勤です」

「怪しい人物」

「怪人です」

「心を改める」

「改心です」

「海の神様」

「海神………っていつまで続けるのですか?」

「やかましいっ」


 私は扇をほうり投げた。女房の一人が見事な守備を見せてはっし、と受け止める。


「人が逃避しようと必死なのに古くから勤めるおまえが何故わからぬっ!!」


 彼女はうなだれたまま身を震わす。


「申し訳ございません。手を尽くしたつもりでおりましたが不充分でした」


 涙声で続ける。


「知力の限りを使って嫌がらせをしましたが、まだまだ努力が足りませんでした」


 泣き濡れる彼女がさすがに可哀相になる。


「いえ……おまえの頭ではそれが限界であろう。無理なことは求めていません」


 温かな慰めの言葉でも彼女の涙は止まらない。


「本当にすみません。心根の優しすぎるこのわたしは、たったあの程度の天誅しか与えることができませんでした」


 …………駄目だ、こいつ。早く何とかしないと。



 更衣が懐妊したからと言って私の暮らしは何も変わらない。

 季節の美に彩られ、女房たちはかしずき、人々は平伏する。

 唯一の変化は主上の様子だ。


弘徽殿(こきでん)さん、弘徽殿さん」


 暇を持て余しているのか以前よりも頻繁に訪れがある。しかし、あまり楽しい会話にはならない。


「やはり出産って大変なのでか」

「命をかけての行為です」

「一の宮をお生みになった時はどうでしたか」

「辛さに身が裂けるかと思いました」


 主上は優しく私の手を取った。


「大変な思いをさせてしまったのですね。申し訳ありませんでした」


 頬が熱くなり下を向く。


「………いえ、主上の御子を生むことは全ての女の誉れです」


 彼は顔を輝かせた。


「そうでしょうか。彼女もそう思ってくれるかな」


 思わず顔を上げると彼の目は私を見ていない。遠く二条の方を眺めている。


「弘徽殿さんでもそんなに辛かったのなら、体の弱いあの人はどんなに辛いことか。ああ、代われるものなら代わってあげたい」


 ………でもとはなんだ、でもとはっ!


「………主上にそうまで思われて、彼女もさぞや名誉なことでしょう」

「そうかなあ。そうだといいなあ。だけど心配です。あの方に万が一のことがあったらどうしようと、政さえうわの空になってしまいます。こんな事じゃ、帝としてマズいですよね」


 その通りだっ。


「………叱ってください、弘徽殿さん」


 そういってこちらを見つめる瞳は涼しくて、愛らしいだけではなく急に男としての魅力さえ備わってきたように見えて、私は感情をぶつけることができない。結局は自分を偽って、綺麗ごとのみを口にしてしまう。


「いえ。自分の子の出産が不安なのは当然です」


 親のことから子のことにすり替えたことだけにわずかな本音が滲む。

 ほんのしばらく前なら、怒涛のごとくあの女を罵倒することができただろうに、今の私はそうすることができない。


「やっぱりあなたが一番頼りになります。他の方々はみんな遠まわしにちくちく彼女のことを責めるのです。あなたは怒っていらした時も正直でしたが、きっとそのうちにはわかってくれると思っていました」


 陰一つない明るい笑顔。悪意などは無縁の育ちだ。女たちの痛みもたぶんわからない。もちろん私の心などわからない。

 それがわかるような男だったとして、同じように私は心を寄せたのだろうか。

 優しい嘘の得意な男に、心の底から恋することができただろうか。

 わからない。彼はそんな男ではなく、それでいて私の気持ちを根こそぎ奪っていく。


「主上のご期待は荷が重すぎますわ」

「いいえ、あなたに限ってそんなことはありませんよ。あなたはなんだってお分かりになるのだから」


 皮肉ではないのだろう。ただ言葉の持つ毒に気づきはしないのだろう。

 一体化するべき相手ではなく、敬意を払うべき他者とみなされていることが時には辛い。

 不実なのではなく、無自覚な罪はよりいっそう心をえぐる。


「あ、いけない。更衣さんに文を書かなければ。紙と筆を少し貸していただけますか」

「…………かまいませんが、毎日送っていらっしゃるのですか」

「ええ。一日五回ほど」


 ………メッカの拝礼かいっ。

 内心の突っ込みもむなしく彼は筆をとって恋敵に文をしたためる。

 それでも、帰れとは言えない。

 帰っては欲しくない。

 理解ある女のふりで私は心を閉じ込めた。

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