日の光
桐壷視点
「………承知いたしました」
凍りつく内裏に響いた声に感情の濁りはなかった。だが冷ややかで、少しそっけない。
私の前の宇陀の法師が弘徽殿のもとへ運ばれる。彼女は筝の爪を外し、琴軋を握るとしばし息を整えた。
微塵も表情に乱れはない。が、指先が震えているのを見てしまった。
………………!
もしかしてひどいことをしてしまったのだろうか。
内裏での遊びも当分無縁だと思って、彼女の音が聞きたくて、変にハイだったこともあって願いをそのまま口にしたが、もしかして追いつめてしまったのだろうか。
絶対に揺らぐことのないそびえたつ山に見える彼女は、やわらかな生身を持った女でもあるのだ。
ぴん、と張りつめた空気の中、彼女はなかなか動かなかった。
周りの人間が一人の琴によってすべて涙したという異常な状況の中、別の楽器を担当していた女に無理に人前で和琴を強要する。
そのことの意味がようやくわかってきて、こちらの体も震えだした。なんてことをしてしまったんだ。
声を上げてこの状況を変えようとした時、光が溢れた。
まぶしい。一瞬目を閉じた。
けれどその光は視覚ではなく聴覚によってもたらされていた。
辺りを包む絢爛たる光の渦。
黄金に輝く世界。
それはかがり火や釣り灯篭の光ではない。
中空に座す日輪の光が全てのものをあまねく照らし出している。
闇が払われ光が満ちる。
私は腹の子に話しかけていた。
――――ごらん、おまえが生まれる世は辛いこともいっぱいあるが、こんな素晴らしいものだってあるんだぜ
体中に光を浴びる。髪に、膚に、腹の中に浸み込んでいく。
心地よさと興奮が同時に沸き立ち、私は静められ、そして奮い立つ。
音の中にあまりに溶け込み、光の眩さに捕われていた私は、その音の形に気づくことが遅れた。
………これは!?
弘徽殿はあまりに凄い。
あまりに凄すぎてそこにシビれたり憧れたりするほかはない。
他の者は絶対にやらない。私だってどうしてもという状況に陥らなければやらない。
だが彼女は、覇道をただ行くあの女だけはやってくれる!!
なんだか状況がよく思い出せないが、私の弾いた琴の音に内裏の空気は一つに染まった。
深い悲しみ。春の月を遠く離れた秋の月が招かれた。
憑坐となった曲は想夫恋。
そして今、この光を招いてる形代はまさしく同じ想夫恋だ。
彼女以外の誰が同じ曲など選ぶだろう。
そんな不利な選択は誰だってしない。
けれど彼女だけはあえて選ぶ。
退かぬ!媚びぬ!!省みぬ!!!
帝王は決して逃走などしない。
規矩正しく一音もないがしろにせずに奏しているのに、私の音とは全く違う。
青い空のもと輝きわたる日の光。
どこまでも遠く続くまっすぐな道。
たぶん私はその道をたどれない。けれど想いだけは添わせることができる。
光を浴び続けた私は羨望と憧憬を胸に曲の終わりにたどり着くしかなかった。
光が煌びやかであっただけ、消えた後には寂寥が残る。
弘徽殿は黙って琴軋を置いた。
「………弘徽殿さんも凄かったです!感動しました」
主上が素直な感想を述べる。尊敬のまなざしがそのまま彼女に向けられる。
「何か、望みのものはありますか?できるだけかなえて差し上げたいのですが」
無邪気な笑み。誰かを傷つけるつもりなどまったくない笑い。
それなのにまるで矢が突き刺さったように感じる。
「………最後にもう一曲、皆様方にお手合わせ願えますか」
きわめて穏健な要望。帝に是非はない。
宇陀の法師は私のもとに返された。
結びの一曲は気の張らない、なじみのあるものだった。
今度はひちりきの伶人が優しく温かい音色で人々を導いた。
その夜の遊びはそれで終わった。