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源氏物語:零  作者: Salt
第一章
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覇王出陣

弘徽殿視点

 音の遊びに同行できる女房はわずか数名だ。それでも各女君が連れてくるために清涼殿は人で埋まる。

 かさねの色も華やかに、付き従う女房は生ける飾りとなる。だからこそ、恥をさらさぬ者に限る。

 選りすぐった女房たちに、これだけはそうとは言えぬが長年の付き合いの乳母子を加えてすっくと立ち上がった。

 若すぎるために選にもれたあどけない女房が私に近寄り真剣なまなざしで見守ったが、ようよう声を絞り出す。

「どうか……ご武運を!」


「ちょっとあなた、ご武運ってのは変じゃない?」

 横でかみつく乳母子を制し、真っ向から見返すと「うむ」と一言つぶやいた。

 従者の意をくみ取ってやることも主人の務めだ。



 昼の御座の左隣は私の定位置である。右側は以前はそれなりに有力な女御が座を占めていたが、前回からはくだんの更衣の場となった。

 帝付きの女房に属する女童が、紺地錦の袋を抱えて現れ、それを彼女の前に据える。

 それが開かれたときに自分の胸が凍りつくのがわかった。


 宇陀の法師は宇多帝由来の和琴の名器でいつもは書司(ふんのつかさ)にしまわれている。

 行幸や重要な儀式などの他、まれには男たちの遊びに音を響かせることもあったが、女たちの楽に供されることはなかった。

 更衣の技量を測ることのできない帝は、せめて音の美しい楽器で飾ろうと思ったのだろう。

 一度でも間近に触れてみたいと思ったその琴が、ほんの少し手を伸ばせば届きそうな位置にあるが、それは永遠という刻よりも離れている。


 まっすぐに前を向いた。

 今宵私が弾くのは筝だ。

 和琴は関係がない。



 澄んだ音が響いた。やわらかな、煌めくような春の音。

 まだ少年のような清らかさ。


 そう思った瞬間に私の作る音は決まった。


 若いがすでに少女ではない女。

 少年の前に必ず現れる女。

 幻でありながらうつつでもある美しい女。

 誰でもないが全てでもある。

 紅梅の衣装で装い、梅花の香を漂わせるその影。


 更衣はすぐに理解した。

 春の日の少年は灼熱の夏を底に秘めて育ちゆく。

 紅や黄金に輝く秋に飾られた男は、凍る冬の月のような心を胸に、あくまで甘美く女を惑わす。


――――お慕いしておりますのに

 優艶なその恨み。閨怨の情。

――――もちろん、あなただけだ

 蠱惑的な嘘。つれない恋人。



 音楽で演じる寸劇。それを理解した少数の者が引き立てるように周りを彩る。

 特に、ひちりきで運ぶ律が凄い。少しも出過ぎず抑えた音色だが天性の格を備えている。音なしの滝とあだ名される伶人がいたが、まさにその男であろう。


 主上の笙の音が消えた。ただ聞き惚れているらしい。

 さもあろう。今宵この場は楽人として優れた者以外には荷が重い。

 正しくその曲を奏しながら、音のイメージをそれぞれ個のものとし、なおかつ合わせるなど並みの者にはできない。


 それでも幾人かは技量を見せる。伶人であれば当然だが際立つ横笛は殿上人だ。

 なかなかの才を持っているのだが育ちの良さにかまけて努力というものと無縁の男だった。ところが今宵は別人のように鍛え抜かれた音を聴かせる。


 はらり、と開いた梅の香が辺りに満ちる。

 楽の音と一つになって人を誘う。

 その中で、ありえないほど美しい男が私の筝の音で生まれた女をかき抱く。

 薄情な、憎い男。誰よりも愛しい男。

 白い蛇のように悩ましい女がその男に絡みつく。


 音の終わり際に、なぜか倒れた牛車が、夕暮れの白い花が、白い産着の高貴な美女が見えたような気がした。

 竜王に嫁ぐはずの女や山桜の下で駆ける少女の影もわずかに見えた。

 更に遠く山吹の花。橘。藤の花。鶯の羽風に揺れる青柳。


 楽の終わりはいつも寂しい。

 しかし今宵は絢爛たる音の乱舞にふさわしい夢を見ることができた。



 主上からお言葉を賜った。

 久しぶりに第一に、優しく。

 充分に満足して、大きな心で他者への言葉を聞いた。

 が、それは予想とはずれるものだった。


「もう一曲ですって……困ってますよ、あの女」

 背後から乳母子が嬉しそうな声を出したが無視した。


 しばし躊躇(ちゅうちょ)した更衣はその指先を和琴の王にあてると、静かに曲を生み出した。

 想夫恋だった。


 月の光が辺りに満ちる。

 最初は朧な春の月。

 そしてそれは次第に冴え冴えしい秋の月と変わる。

 更衣の本質はこの季節こそふさわしい。

 涼やかな音色。虫の声。野分めいた風の夕月夜。

 しめやかな女の声。丈高く茂った草むら。


 切なさが胸を締め付ける。

 慌てて扇を引き寄せて辺りを眺めると、みな涙を流している。

 帝などは鼻水まで垂らして泣いている。

 あっけにとられたが自分の頬に湿り気を感じた。

 だがこれは断じて涙などではないッ!

 ただの心の汗だッ!


 

 大泣きしながら主上は更衣に望みのものを尋ねた。

 まあこの状況ならさもありなん、と他人事として聞いていたら彼の更衣はとんでもないことを言い出した。


「弘徽殿の女御さまがこの宇陀の法師を奏でる音を聴きたいです」


 辺りの空気も凍ったが、私も扇をへし折りそうになった。

 こともあろうに更衣ごときがこの弘徽殿の挙動を左右しようとは!

 しかも自分は今回さんざんに和琴の練習をしたであろうに筝に染まった私にそれを望むのかっ。

 人前で笑いものにして嬲るつもりかっ!


「……罠だったのですね。おのれ更衣! 陰ながら守った女御さまのお気持ちも知らずっ」

 乳母子が小声で唸っている。


「弘徽殿さん……お願いできますか?」

 さすがに主上が困った声でこちらの様子をうかがう。

 重ねた衣の下が冷たい汗に濡れている。

 が、表面にはたぶん心の内は出ていないはずだ。


「………承知いたしました」

 

 幼いころ楽の手ほどきをしてくれたわが母は私に教え諭した。

「楽の遊びの際はたとえ相手が帝であろうとも媚びてはなりません。いえ、あなたが凡庸な才の持ち主ならばそうせざるを得ない時もありましょう。だが姫は天下に並ぶものもないほどの素質の主です。このまま腕を磨いていけばその音はまさに帝王のものと世が認めるはずです。決して引いてはなりませぬ」

 それから母は私を抱きしめ、

「とはいえ心優しく人一倍大人しいあなたのこと、時には辛いこともありましょう。その時はこの母を思い出しなさい。必ず共に闘いましょう」

 お母さま、私、逃げません。

 たとえ明け暮れ筝の琴に励んでここしばらく和琴に触れてさえいなかったとしても。

 この、弘徽殿の名にかけて逃げるものかっ。

 

 帝王に後退はない!あるのは前進制圧のみッ!

 

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