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源氏物語:零  作者: Salt
第一章
17/65

音の遊び

桐壷視点

 煌めく日の光。

 春の喜び。

 満開の梅の花。

 儚く消えていく淡雪。


「………こんなんじゃ全然ダメだ」

 気落ちしていると女房が慰めてくれる。

「素晴らしい音だと思いますがね。何がご不満なんですか」

「ご自分に厳しすぎっスよ。音に込めたイメージは何となく伝わりましたぜ」

「ああ、ずばり春ですね。いい季節ですし希望を感じさせるいい音です」

「そうなんだが、なんか違うんだよな」


 急に女御・更衣たちの攻撃が収まりだいぶ楽になった。吐き気はまだ治まらないが、琴の練習に差し障りはない。

 ただ、音の方向性が定まらない。


「春の音で始めることは決めたんだが、最後までこの雰囲気だけで進めるのもつまらねえ」

「季節に合わせとけばいいんじゃないっすか。今まさに春だし」

「その通りだ。その通りなんだよ。自分が何でそこにこだわっているのかもよくわからん」

 汲みたての井戸水を飲んで休憩する。すかさず女房が干した果物を出してくれる。


「実際のところ、共演者の状況でどうとでも変わりますから一人でさらっても限りがあるんじゃないでしょうか」

「それは大いにある」

 それと、どんなに予測しても風の匂い、気の流れは当日にならなければ定まらない。


「まあ、われわれはできることを頑張りましょう。調べてきやしたぜ、当日のメンバーを」

 一人が懐から紙屋紙を取り出して読みあげる。

「厳選された人たちですが特筆すべきはひちりきの伶人(楽人)ですな」

「前回の人とは違うのか」

「ええ。地下ですが、ただの地下(じげ)とはわけが違う。音一筋五十年でおぎゃあと生まれたその時からおもちゃ代わりに笛を渡され、乳の前にそれを吸って世を知ったという伶人の中の伶人、大内楽所の楽頭を務める男が自分の息子に先んじてまで養子として迎えた男が入ってます」

「へえ」

「音が劣るとなれば女御・更衣はもとより殿上人、更には公卿さえも相手にはせず、昔のことですがある大臣の音に気を損ねてめったに自らは現れなくなったとか」

「なんかすげえ」

「ここ十年ほどは後進の指導をもっぱらとしていたそうですが、弘徽殿の女御が入内した頃から白砂の端で聞き入る姿が目撃され、前回の遊びでよほどテンション↑だったらしく、今度は参加すると明言したそうです」

「緊張するじゃねーか」


 気軽な遊びのはずがなんだかえらく大仰なことになってきた。




 満開の梅の花は清涼殿の真向かいにはない。

 けれど廂に大壺が置かれ、左に白梅右に紅梅がいけられている。

 品のある梅の香りの中、蘇芳(すおう)汗衫(かざみ)の女童が二人でしずしずと紺地錦の袋を運んできた。

 前回と同じく帝の右に据えられた私が何だろうと顔を上げると、前にそっと置かれた。

 首を傾げているとそれが開かれる。

「………!!!!!」

 腰を抜かしそうになった。ストラディヴァリウスなんてまだぬるい。我が国の国宝中の国宝、天下の一品、和琴の王がそこにある。

 内心声にならない叫びをあげ、死にそうな顔で帝を見上げると、彼は満足そうに視線を返す。

「宇陀の法師です。名器として有名だけど見るのは初めてでしょう」

 ざけんなぁ――――っ。たかだか内輪の音の遊びになにを無茶やってんだよ――――っ!

「ぜひあなたに弾いてほしくて」

 小学校の徒競走にウサイン・ボルト呼ぶようなもんだぞぉおおおおっ!


 すでにへとへとになって琴軋(ことさき)を握る手も震えそうだ。

 しかも辺りの空気は重い。その上突き刺さる。

 おまけにはっと気づく。入内して何年もたちすでに子さえいる弘徽殿さえこの和琴には触れたことはないのだろうと。

 

 彼女はこちらに視線を向けない。背筋を伸ばして前を向いたままだ。

 ただ、うなじから肩の辺りに何とも言えない寂しさが漂っているように見える。


 逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。


 心の中で繰り返す。が、全力で逃げたい。

 お母ちゃ――――ん、帰っちゃダメっすかぁ――――っ!


 黄昏時の空の色は優しい。

 神々しい色合いがわずかに霞んで切ないほどの甘美さを見せる。

 行き交う鳥の影も朧に見えて、春の夕暮れの艶めかしさを際立たせる。

 (あやかし)さえ酔うほどの空の下で、人の思惑だけが苦く滲んでいく。


 調律の間、不安に蝕まれていた。

 だけど自ら音を一つ立てた瞬間に腹は決まった。


 もしここで一音だけ弾いてそのまま死んでも悔いがないほどの楽器じゃあないか。

 一生触れるどころか夢見ることさえ許されないほどの和琴だ。

 恐れ多いなんて当たり前だ。

 だからこの幸運に感謝してできるだけこいつの良さを引き出してやろう。

 それが傲慢だと笑うなら笑え。

 

 冴えた音が響いた。

 あいつの天道たる道とは違ってもっと細いが、遠くまで通じる道が開かれた。

 私はただその道を行く。

 前には誰もいない。闇だ。


 そこへほんのりと灯りが灯る。

 優美な、やさしい色合い。梅の香を漂わせる光。

 あいつの筝だ。


 音はしどけなく絡み付き、情感豊かに和琴を誘う。

 心地よくて全てを任せたくなるがそれではあまりに流れすぎる。

 わざと冷たく、それを拒んでみせる。


 筝の音は嫋々と恨みを含んで悩ましい。

 けれど品位はみじんも落ちない。

 春怨――――艶やかな女の情。


 こんな手で来るとは思わなかった。

 前回と同じく陽の光や海や空の雄大さを想定していたがやっぱりこいつはハンパねえ。

 楽しくなってきやがった。


 音は描き出す。若く美しく艶めかしい女を。

 ならばこちらの道は決まる。

 若く美しくつれない男を夢想させる。

 冷たい光をまとった、蠱惑的で寂しい男を。


 女は怨ずる。男の不実を。

 男は惑わす。女の全てを。

 

 悲しみを帯びた優しい春の光。

 冬の名残を残した影の冷たさ。


 そこへひちりきが絶妙の律で導く。

 さすが名人、これだけ決まった音に加わって何の違和感もねえ。

 むしろ音の格が上がった。

 少し控えめな打物は前回にもいた伶人だな。

 おめえもうめえな。この域に来るまでに苦労したんだろうな。


 横笛が和琴を昂ぶらせ、筝を癒す。

 もしかしてこの間の殿上人か。あの、色目を読めたやつ。

 精進したなあ。あの時はちょっと技量が下だと思ったのに見違えるようだ。


 楽しくて、そして寂しい。

 私が参加できるのはたぶん今夜までだ。

 すぐに里に下がらなきゃならない。

 だから、腹の中の人、よく聴いておけ。

 今宵は人々がずっとその記憶に残す音の遊びだ。

 歌合せみたいに形は残らないけど、心ある人はずっと語り草にするだろうさ。



「すばらしかった。私は笙を担当していたのですが、あまりに凄くてやめて聞き入ってしまいました」

 帝が興奮した様子で語る。

 いつの間にか外にかがり火が赤く燃えているが少しも気づかなかった。

「どの人もみんな凄かったです。中でも、まず弘徽殿さん」

 彼女を評価するのは正しい。ただ、胸が痛い。他の女御たちに嫌がらせをされるよりよほど。

「あなたがあんなに優しい音を出してくれたのは初めてですね。素敵でした」

 心に針が突き刺さる。

「そして桐壷の更衣さん」

 ほい。

「凄かったです。いきなり和琴で心配だったけどその必要はありませんでしたね」

 いやいや。必死に練習したし。

「もっと聞きたくなったので何か一曲弾いてください」


 !!!!!!!!!!!!?!

 は、はあっ?


「せっかくの宇陀の法師です。どうぞご遠慮なく」

 おいっ、待てっ!ちょっと待てっ!

「何でもいいですよ。楽しみです」

 み――――か――――ど――――――――ッ!

 血を吐きそうになった。どんだけハードルあげるんだっ!

 その辺のOLにサスケオールスターズに加われって言うようなもんだぞっ。


「ではどうぞ」

 ではって!ではって!

 真っ青になって見返すが彼は優しい表情でこちらを見守っている。

 さすがの他の女御・更衣も今回ばかりは同情を禁じ得ないといった表情で見守る。

 例外は弘徽殿だ。まったく表情を出さず、こちらを向きもしない。


 さすがに立って逃げようかと思った。

 前代未聞だが致し方ない。

 だがそうしなかったのは帝のキラキラした目と、腹の中の温もりのせいだった。


 おまえが腹にいるとき母ちゃん思いっきり逃げて…なんて言えないよな。

 くそう、帝のバカ野郎っ!惚れた弱みをいいことに何させやがるんでいっ!


 やけになった私はまるで他の女御・更衣に挑戦するような曲を選んでしまった。

 想夫恋(そうふれん)


 月の光を私は招く。

 春の朧な優しい月はいつしか冴え冴えしい秋の月に変わる。

 この月は今まで見た月とは違う。

 たぶん、まだ見ぬ月。

 いや、見ることのできない月。

 私ではない誰かの見る月。

 そこに私はいない。

 だけど、どうか悲しまないで。

 私は決して不幸ではない。

 声も姿も生き方も、何も示してあげられないけれど。

 思い出してくれなくてもいい。

 ただ、月の夜には見上げて。

 できれば音を供えて。

 それが一番私にふさわしいから。



 最後まで終えて目を上げると、帝が派手に鼻をすすっている。

 驚いて見回すと辺り中、涙を流している。

 なんだ?どうした?いったい何が起こった。

 安定していそうな弘徽殿を見ると扇を顔の前に引き付けている。


 ?


 首を傾げていると帝が泣きながら声を出した。

「もう……とても…言葉にはできなくって………。更衣さん、何か望みのものを言ってください。何でも差し上げるから」

 その時私もかなり変になっていた。普段はもっと用心深く生きている。

「はい。望みが一つあります」

「言ってください…どんなことでも」

「弘徽殿の女御さまがこの宇陀の法師を奏でる音を聴きたいです」

 言葉は決して戻すことはできない。

 内裏が、世界が、静止した。


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