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源氏物語:零  作者: Salt
第一章
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弘徽殿視点

「毎夜お会いしたいのですけれど、なんだか忙しいことも多くて。それで間が空いてしまうと申し訳なくてかえって近寄り難くて」

「そんなこと気になさらなくてもいいのに」

 優しい顔立ちの主上がしょんぼりすると、雨に濡れた子犬のように可憐に見える。

 彼を見ると灯りを点したように心の奥が温かくなる。

「いえ、ご迷惑ばかりかけてしまって。……でもそのついでにもう一つだけいいですか?」

 少し潤んだ瞳が私を見つめる。

「おっしゃって……どんなことでも」

 私自身の声だと思えぬほど甘い声が(そそのか)す。

 彼はちょっと困った顔でうつむき、少し躊躇(ちゅうちょ)してからつぶやいた。 


「あの…今度の楽の遊びの時、桐壷の更衣さんに多少配慮してあげてほしいんです」

 胸の中の温もりが急速に冷えて、先の尖った氷柱(つらら)に変わる。

「それは、あの更衣がそう言っているのですか」

 ひた、と見据えて尋ねると慌てたように首を振った。

「いいえ。ですが更衣さんは音の遊びはまだ二回目だし、和琴を人前で弾くのは初めてだから、手加減してあげないと可哀相だと思います」


 痛みは刃のように私を切り裂くが、それを露わにするのは趣味に合わない。

 微笑んで見せた。なぜか主上が後ろにずり下がったが足でもしびれたのだろうか。


「………お断りします」

「どうして?あなたの実力ならたわいもないことでしょう」

 不安そうな彼は切なくなるほど愛らしく、自分自身をすべて捨てて意に従ってやりたくなる。だけどそんなわけにはいかない。

「主上はあの更衣を誤解していますわ」

「そんなことはありませんよ」

「彼女は他者の配慮など必要としません」

 自分の腕一つで充分に戦える女だ。

「芯は強いけれど体の弱い方で心配なんです」

「更衣自身がそれを望まないと思いますのよ」

「だから、こっそりお守りしたいのです」


 切り裂かれた体がバラバラになってその上更に粉と砕かれていく。


「主上は女性に優しくていらっしゃる。それはとてもいいことですわ」

 震えるな、私の声。

「ですが楽の音には調和というものがありまして、一人が手を抜くと全体の質も下がってしまうのです」

 こぼれるな、涙。

「配慮との言葉が音を合わせるといった意味でしたらもちろん言われるまでもなく………」

「……もういいです」

 決して激昂するわけではなく、ただ失望の色を浮かべる。

「勝手なことを言ってすみませんでした」

 目に見えない高い壁が彼と私の間にそそり立つ。


「そう言えばあなたは私の政も通してくれることはありませんね」

「それが理にかなうものならばいつでも……」

「ええ、私はあなたほど賢くはないので、そんな日は永遠に来ないのでしょう」

「それは違います」

「慰めてくれなくても結構です。ごめんなさい、少し疲れたので一人にしていただけないでしょうか。また必ずお呼びしますので」

「……………はい」



 上の局に控えていた女房たちとそのまま弘徽殿に戻った。扇は便利だ。色々と隠せる。

 いつもの(しとね)に腰を落ち着けると、食事の支度を命じた。

「この時間にですか。お珍しいですね」

「姫飯でしたら炊き上がるまでにしばらくお待たせすることになりますが」

「いえ……湯づけで構いません」

 すぐに高杯(たかつき)懸盤(かけばん)を捧げ持った女房が給仕する。

 うるし塗りの椀を取り上げ、用意された湯づけをいただく。そうすることでしか気が晴らせないと思ったが、そうしたところで晴れるわけではない。

 それでも………米!食べずにはいられないッ!



 運ばせた筝を前にしてしばらく気を落ち着けようとした。

 いつもなら、楽器を前にするとどんな気持ちも静かになる。

 風や雲や月や花が主体で、私はそれを際立たせる影のつもりだった。

 だけど今宵はただの影にはなれない。


 覚悟を決めて指を走らせる。

 

 しどけない音を響かせるはずのその楽器から強い音が響いた。

 不思議だ。私は今弱っているのに。

 荒れ狂う波を宿らせる深い海。

 凍てつく水面を照らす月の影。

 闇が空を覆いそれを光が払う。

 まぶしい色が辺りに満ちる。


 季節は変わるし花も散る。

 空模様さえ日によって変わる。

 それを私は自然だけの持つ特権だと思っていた。

 だけど違う。人だってその一部。

 変わることもあるしちはやぶる神と化すこともある。


 怒りも悲しみも音に託した。

 全てを秘めてそれでも余るほどに楽の音は豊かだ。

 私は音に酔い、音を作り、音に溶けた。


 気づいてみると深夜だ。

 さすがに女房たちに気の毒をした、と見渡すと一人として欠けることなく控えている。


「騒がせましたね。休んでよろしい」

「いえ、恐ろしいほどの音でした。体はここにありながら、魂は異界に彷徨いました」

「神域というものを初めて知りました」

 口々に言い立てるがおもねっている様子はない。

 熱に浮かされたように音に捕われている。


「もはや女御さまの音は現世のものではありません」

「普段でも他の追従を許しませんが、今宵の音は菩薩さえ跪くでしょう」

「それはあまりに大げさな」

 苦笑して彼女たちを下がらせた。


 今宵の音は砕けた魂の叫びかもしれない。

 私自身の一番大事なものと引き換えに、つかの間宿った夢かもしれない。

 だとすればあの更衣は、何と引き換えにどんな音を出すのだろう。

 

 名残惜しげに筝を撫でた。

 楽器は、人と違って私を見限ることはない。

 苦い笑いが口元に浮かんだ。



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