和琴
桐壷視点
その女御に挨拶を述べ、艶やかな床を静かに下った。
桐壷の敷地にたどり着いたとたんに力が抜け、付き添った女房たちを慌てさせた。
「大丈夫ですか!」
「ああ」
にやりと笑って体を起こし、何とか茵にたどり着く。身を横たえていると彼女たちが唐衣や表着を脱がしてくれ、ふわりと小袿をかけられた。
「真っ向から来られる方がマシだな」
「それもキツいと思うっすよ」
強引に呼び立てられて歌会に参加させられ、矢継ぎ早にお題を与えられた。和歌は苦手でもないのでそれをこなすと、今度は長時間放置された。こっそり帰ろうとすると引き止められる。
「穏やかな口調でさんざん嫌味なこと言われましたね」
「神経が磨り減ったよ。ああ……いらない」
食事など咽喉を通らない。
「無理にでも一口、二口は召し上がった方が」
「確実に戻す。かえってひどいことになる」
「お顔の色が悪いですぜ。あたしゃ心配で夜も眠れません」
「寝てくれ。これからもっと酷くなる。おまえたちだけが頼りなのだから、自分の身をいたわってくれ」
笑いかけると相手も少し微笑んだ。
「お気持ちはありがたいのですが、主人はただいま伏せっておりまして……」
「あら、同じ更衣どうし気になさらなくていいのよ。まあ、起きてらっしゃるじゃない!」
響き渡る声に何事かと顔を上げると、とある更衣が強引に入り込んでくるところだった。困惑する私の女房を振り切って目の前に座り込む。
「この度はおめでとうございます。和琴を担当なさるんですってね。同じ更衣として鼻が高いわあ。これはほんのささやかなお祝いの品ですのよ」
どう合わせればこんな悪趣味なにおいになるのかと尋ねたくなるほどの香に、下手くそな組緒の心葉を添えたものが渡される。吐き気を抑えて礼を言った。
夜が更けるまで更衣はねばり、女房たちの視線をものともしなかった。私は限界までそれに付き合い、限界を超えても表面には出さなかった。
「本当にお名残惜しいわあ。今度はぜひ私の方にも遊びにいらして。絶対よ。待ってますから」
瞳に凍りつく光を宿しながら、にこやかに言葉を繰り出すその更衣に対して振るえる刃はやはり微笑だけだ。
「ええ、楽しみにしていますわ」
心からのものに見えるはずの邪気のない笑み。実はけっこう偽るのは得意だ。
相手は少し鼻白み、皮肉のわからぬ愚か者と嘲る目をそのまま見せた。
なんでもいい、さっさと帰れ。
それでも、表情を変えずに見送った。
「…………こたえる」
脇息を枕のようにして身を任せて息をついでいると、女房の一人が提子を捧げ持って現れた。
「チィ――――ッス。ま、一杯どうですか」
酒は腹の子に障るので断ろうとしたが、彼女のいたずらっぽい瞳を見て害のあることはすまいと土器を受け取った。湯気の立つ液体が注がれる。
恐る恐る顔を近づけるとさわやかな香りがする。口に含むとほんのりと甘酸っぱい。
「これは……?」
「湯に柑子の汁を絞り蜜で甘みをつけました。これなら咽喉を通るでしょ」
じんわりと体が温まる。さっぱりとしていて美味しい。だいぶ体が解けてきた。
「もしよかったらこれも」
漆の椀にほんの少し何かが入っている。白くてぷるぷるしている。
「粉熟ですよ」
米や他の穀物の粉をゆでたものに甘葛を混ぜてこね、竹の筒の中に入れて固めたものだが、普通よりゆるく作ってある。
匙を取ると、先の蜜とは違った甘みが口の中に広がる。
何口か食べることができた。
「ほっとしました」
彼女たちのおかげで自分は生きることができるんだと感じる。
このまま甘えてくつろいでいたいが、わずかな矜持がそれを許してくれない。
「和琴を」
「ずーっと無意味なおつきあいでお疲れでしょうに。今宵は休まれてはいかがですか」
そうもいかない。一日離れればそれだけ指が衰える。
並みの遊びじゃない。あいつのいる遊びだ。あの、音の帝が私の音を聞く。
「すまないが用意してくれ」
愛用の琴が据え置かれた。
楽の音はいい。全て忘れられる。今の状況も、面倒事も。
いや、そうでもないか。喜びも悲しみも怒りも切なさもある意味増幅される。
けれどそれは別の形に変えられ、影をまとい、あるいは光をまとう。
心の闇さえ魔の魅力を持ち、蠱惑的な微笑で誘いかける。
私は楽器の奏でる音が好きだ。