休戦
弘徽殿視点
「手の者の申すには、体を損ねて伏せっておるとか。しょせん小者。自らの手に余る大役を与えられて怯えきっております」
毒を吐く乳母子を無視して別の女房に尋ねた。
「恐れ多くて琴にさえ触れていないのですか」
その女房は首を横に振る。
「もともと丈夫とはいえぬかの更衣ですが、楽に対する執着は生意気にも人並みを越え、気力を振り絞るように和琴に向かっておるようです。私もこっそり近くまで行ってみましたが、確かに鬼気迫る楽の音と言わざるを得ないでしょう」
「あんな女の音など大した…」
視線一つで乳母子を黙らせ、もう一人に尋ねる。
「こちらから手を出してはいませんね」
「はい。ですが他の方々においてはこちらの思惑を外れ、いい機会とみて接触を試みているようです」
「詳しく」
見据えて尋ねると少し目を伏せ、わずかに間を取った後に話を続けた。
「公に話題となったとしても決して嫌がらせなどとは言われません。むしろ社交の範囲内の事柄ですが、いかにも後宮的な……」
今度の遊びに例の更衣が和琴役として抜擢されたことは知られている。
「今まで見向きもしなかった女御さま方が意図的に遊びごとにお呼びになったり、更衣たちが前触れもなく親しげに淑景舎(桐壷)を訪問したり、体調を損ねているといっても許さずに会うことを強要しています」
「主上は?」
「更衣自身が練習のため訪れを控えたいと頼んでいるうえ、他の女御、更衣の里の者がうまく政を持ちかけて手離しません」
乳母子が割り込んできた。
「憔悴しきって青ざめた顔で、隙をつくように琴をさらうとか。こちらに逆らった報いを受けているわけですわ」
心地よさげに高笑いをしている。
「このままではこちらが何もせずとも音の遊びに出ることはかないませんわね」
「………女御さま」
女房の小さい声を聞いて我に帰ると、手に持った檜扇をへし折っていた。ばさり、と下に放るとすかさず別の女房がそれを回収して下がっていく。声など出す間に他の女房が新たなものを捧げ持ってきた。
その檜扇をばっ、と開いて顔を隠し、声だけで命じた。
「あの更衣に会う者は女御・更衣に関わらずすべて私を通すようにと伝えなさい」
「ど、どういうことですか」
「言った通りです」
呑み込みの悪い乳母子に不機嫌に応える。彼女は少し考えた後、ふいに顔を輝かせた。
「つまり、人手に任せず我々自身の手で正義の鉄槌を下せということですね」
「………愚か者」
冬の月でも凍りつくような声音に乳母子が固まる。
「主上自ら企画した音の遊びを、取るにも足りぬ女一人のことで危機に追い込んでどうするというのです」
「たかが更衣ひとり休んだところで…」
「今回の遊びは何故だか加わるものが少ないと聞いています。特に和琴は一人だと。今更他の者に違う楽器を命じることも無理でしょうし、私はいつでもどの楽器でもこなせますが、今回は主上から依頼のあった筝に専念したいので変えたくありません。あの者に続けさせるしかないでしょう」
思いもかけぬ私の言葉に彼女は唇を開いたり閉じたりしている。が、近くに控えていたやっと女童から脱したばかりの女房が不安そうに私を見た。
「ですがそうお命じになると、他の方々が女御さまのことを強引だと誤解してしまうと思います。みんな女御さまの御威勢は知っておりますから従うのは確かですけれど、陰で何を言うかわかりません」
私は少し微笑んだ。
「ありがとう。その気持ちは嬉しいです」
それからそのあどけない娘に言い聞かせた。
「主上以外の他者を気にするなどのいやしい真似は私にはできません。この弘徽殿を賜った者として恥じない生き方をしたいのです。人のそしりで道を変えるよりかは、いっそ不退転の鬼と化しましょう」
「女御さま………」
娘は目を潤ませた。
「わたしにはよくはわかりませんが、すごく……格好いいです」
いくらか気をよくしたところにまた乳母子が割り込む。
「それでもわたしは納得できません!!」
懲りないやつだ。ある意味感心する。
「納得いかなくてもけっこう。音の遊びが終わるその日まで……あの女を守りなさいっ!!」
威に打たれたか並み居る女たちがすべて頭を下げた。もちろん目の前でわが一喝を浴びた乳母子は倒れ伏すように土下座する。
周りの者は抑えた。
充分に琴をさらうこともできよう。
しかし……大和琴はなかなか手ごわいぞ。
どうする、更衣。
もう言い訳は聞かぬ。
おまえの技量、人生、魂、全て晒せ。
こちらも同じ分だけ晒してやる。
さあ、覚悟を決めよ。