兆し
桐壷視点
従兄のにーちゃんから届け物があった。苦労していると聞いたのか、絹に綾に生糸まで添えてあった。
「近衛の中将でいらっしゃる方ですか」
「ああ。うちのお父ちゃんの兄ちゃんの息子」
伯父である大臣はすでにない。うちの一族は短命なのだろうか。
「ありがたいっすね。いっそ後見をお願いしてみては」
「いや、それは無理だ」
親の七光りのない今、賭けてもいいが彼の位階はここから動かない。
自ら切り開いていく者もいるが、彼には不可能だ。
「どうしてですか」
「頭も悪くないし、楽の腕も確かだし書もうまいが、すっごく変人なんだ。おまけにけっこうなコミュ症」
「はあ、そりゃ大変すね」
「だな。とにかく礼を書いておこう」
「厨房の方にも海の幸が届いていました」
「あのにーちゃん、海好きだからなあ。遠駆けでもしたのかな」
「今日の夕餉は期待できそうですぜ」
「その前に綾と絹をおまえたちで分けてくれ」
固辞する彼女たちをなだめて何とか押しつけた。
織物がたくさんあるのはいいことだ。部屋が活気づく。縫い物や染物は彼女たちの局でやるが、それぞれが進み具合を競ったり、色を相談したり、女童に布の扱いを教えてやったりするのが耳に入る。
「みんなで真っ先に作りましたよ」
と、私にも桜襲の袿を用意してくれた。金糸で美しい刺繍の紋が入っている。
「今度のお集まりにちょうどよかった」
彼女たちの笑顔で気が和む。
音の遊びの期日も正式に決まった。帝の女房が使者として現れたが、その際に楽器が指定された。和琴だった。
「長くいらっしゃる方にこそふさわしいと思いますが」
困惑した女房が断りを入れるが通らない。
「主上の意向でございます」
押し切られた。
「確かにお方さまの和琴は絶品だけれど、他の女御さま方が納得しないだろう」
「今回は特に目立ちますぜ。和琴は一人だけだそうです」
調べ物の得意な女房が小腰をいじりながらやってきた。
「え、なんで?」
「人数が減ってるんだよ。前回、音外した更衣がいただろ。どうなったと思う?」
「さあ」
「次の日弘徽殿方の女房がやって来て優しく慰めたそうだ。他の手段で主上を癒して差し上げることに専念されたらいかがかと」
「こええ」
「何度かやらかした麗景殿の女御なぞ、自主規制して現れねえ。もともと控えめな方らしいが。前回もいなかっただろ」
「そういやそうだったな」
「噂を聞いてびびったチキンが何人か引いた。だから和琴はお方さまだけだ」
さすがに女房たちが不安そうだ。
「いや、うちの更衣さまならそれでもやってくださるとは思うがな、どんな卑怯な手を仕掛けてくることか」
腕を組んでいたリーダー格の女房が尋ねる。
「今回弘徽殿の担当する楽器はなんだ」
答える女房はわずかに首を傾けて視線を流した。
「筝の琴ですぜ」
他の者たちは驚愕の表情だ。
「合わねえ――――っ」
「あの女らしさの極みの嫋々たる音の楽器と弘徽殿?ないわー」
「ありゃあしどけなくかき鳴らすのがいいんだぜ。気合を見せる楽器じゃねえぞ」
「お方さまの透き通るような揺の音は天界を招くが弘徽殿は閻魔大王でも招くんじゃねえの」
なかなかかまびすしい。
「私は期待してるが」
口を挟む。
「前回の彼女の和琴はまさに音の帝だった。楽器が変わったからと言って臆する方ではないと思う」
女房たちは懐疑的だ。
「琵琶だったら向いてる気がしますがね」
「ああ、超絶技巧でこなしそう」
「だけど筝は雰囲気に合わないでしょう」
別の一人が少し考えてポン、と手を打つ。
「いや、けっこういいかも」
「ええ?」
「だって竹冠に争うじゃないか。闘争は得意そうだ」
全員が噴き出すが、すぐにリーダー格が私に向き直った。
「弘徽殿方に行って楽器を変えるように頼んできましょうか」
私は首を横に振った。
「主上の意向だ。よしておこう」
本音は違う。あれだけの音を出した彼女がどんな風に筝を奏でるか。和琴にどう絡むか。私自身がどうしても聞きたい。体中が音を求めてむずむずする。
「わかりました。気がお変わりになったらおっしゃってください」
引いてくれた。
和琴の練習のあと夕餉が運ばれてきた。
普段あまり食欲はない方だが、程よく疲れたあとの食事はさすがに嬉しい。魚もとても新鮮で……
「お方さまっ」
口元を抑えて膳を遠ざけた私に給仕する女房たちが驚いた。
「大丈夫、なんだか魚のにおいでちょっと気分が悪くなっただけだ」
「これ、この間の程じゃないですがいつものよりもずっと鮮度がいいですよ……って更衣さま!」
「あの、つまり……」
彼女たちは顔を見合わせた。
「おめでとうございます」
年若い女房が頭を下げた。
「ご懐妊だと思います」
みんなは一瞬固まった後、身を乗り出してきた。
「おめでとうございますっ!」
「やったぜ!一矢報いてやったぜっ」
「本当に本当におめでとうございます!」
リーダー格が凄味のある声を出した。
「騒ぐな!!」
全員をねめつける。
「他には絶対に知られてはならない。どんな目に合うかわかるな」
女房たちは水を打ったように静まった。
彼女は私に祝いの言葉を述べ、その後に続けた。
「すぐに里に下がられた方がいいと思います」
「いやだ!」
咄嗟に拒否してしまった。
「今度の遊びに出るまでは絶対に嫌だ」
あいつの音が聞けないなんて耐えられない。
「しかし……」
「頼む。今回だけだ。それだけでいい」
彼女はひどく青ざめていた。それでも変わらない私の意志についにうなずいた。
「わかりました……なんとかします」
他の女房たちも真剣な面持ちだ。
「ただ、やはり弘徽殿に行って楽器は変えていただきます。いいですね」
さすがに拒むことはできなかった。
予想するべきだったのに考えてもいなかった。
それがどんな運命を招くかわからない。
赤子に対する実感もない。
今はただ、音が聞きたい。
あいつの奏でるあの音が、無性に。