リスクマネジメント
桐壷視点
寝過ごした。気が付くと日が高くなっていた。
青くなって飛び起きて慌てて退出しようとすると、温かい手が伸びてきた。
「離せ」
「どこに行くのですか」
「帰るんだよ」
「帰さない」
抗おうとしたが男の力は強い。たとえそれがひ弱な帝であっても。
「仕事は」
「休みました」
「なんてぇこった……」
最悪だ。
落ち込んでいるのにこいつは嬉しそうだ。
「大好きな人と迎える朝って最高ですね」
「こっちは寝てたのに」
「あなたの温もりがずっと傍にあるのですよ。こんなに幸せな朝は他にありません」
断言された。
しばらく押し問答をしたが腹を決めた。夜にこっそりと帰ることにする。
そう告げるとこいつは枕を放り投げて喜んだ。
おい、先祖伝来の屏風に傷でもつけたらどうする気だ。
まったく、子供みたいだ。
品のいい綺麗な顔立ちで、身に着けなければならないことはどれも普通程度には押さえている。
なのに中身はひどく幼い。
それだけ恵まれた立場なのだ。
おっとりと育てられ、他者の悪意を知らず、表面だけの善意と強面の裏側の真情の違いに気づかない。
なのに、と言うかだからか。そんなことは関係なくこっちが惚れてるからなのか。
くそ、むちゃくちゃ可愛い。自分もうちの女房もえらい目に合ってるのにこれっぽっちも憎めない。
むしろ、守ってやりたい。
この何も考えてない笑顔をずっとこのまま保存したい。
「なに見てるんですか」
「おまえの顔」
「あなたの方が美しいのに」
「んなこたねーよ」
抱きついて押さえ込むと逆に羽交い絞めにされた。
しばらくじゃれあっていると耳もとに囁かれる。
「死ぬときまでも一緒ですよ」
月並みな言葉だと思うのに、胸の奥までしみこんでいく。
甘美くてふわふわした、およそ私に似合わない心地に連れ込まれる。まだ寒いのにな。
帰り際に思いついたように「梅が満開になったらまた楽の遊びを行いましょう」と誘われた。
思いっきり賛成して浮き立った気分で場を下がった。
あいつと別れたとたんに状況を思い出して赤くなる。女房たちは一様にニヤニヤしている。
「お安くないっすね」
「迎えに来てまだだと帰されたのは初めてですわ」
「弘徽殿と藤壺はいいなあ、控え室あるから」
「まあ、念のため近くにいましたがね」
「こいつ、ナンパされてました!」
「ありゃ違う!元から知ってるやつで…」
「ほぉ、あとでよく聞かせてもらおうじゃねェか」
小声で会話しながら下がっていく。そういえば袿はどうなったかと心配になって目をやる。
彼女たちが失ったのは袿の中でも最も華やかな表着だ。
季節ごとに必要なので替えがあるのか心配だった。
視線に気づいたのか例の三人がさりげなく衣装を強調する。
「ちょうど里が用意してくれたものが届きました」
初めに脱いだ年若い女房が言い出すと他の二人も追従する。
「四季通用の定番モノがあったので」
「うちは姉妹が多いので、近くにいる者に借りました」
ほっとすると同時に新たな不安が巻き起こる。帰りにも仕掛けられているのではないかと。
「ご心配なく。朝のうちに見測らって弘徽殿側の女房がうろついてましたが、
お方さま、パネエ。まさかの居続けであきらめました」
「しかし……またやられたら」
経済戦では全く勝てる気がしない。
「更衣さま、下、下」
女房の一人が高欄の下を示すと、白砂の上をおばちゃん二人が歩いており、
こっちに向けて親指を立てた。
「うちのひすまし洗浄部隊っす」
扇の影で笑ってしまった。
「弘徽殿ではこんな係まで美少女そろえてますがね」
「いいじゃないか。人の嫌がる大変な仕事を引き受けてくださってるんだ」
あとでおばちゃんたちに水菓子でも届けさせよう。
桐壷に戻ってくつろいでいると、リーダー格の女房が人払いをしてくれた。
「お休みになりますか」
「いや」
けっこう寝たし。それに彼女は言いたいことがあるらしい。
まっすぐにこちらを見つめる。
「弘徽殿方と通じている者がいると思います」
「………」
彼女は年若い女房の名を挙げた。
「思えば袿を投げる決断も妙に早かった。いくらでも金があるのでしょう」
私も彼女を見返した。
「………違う」
「でも帝のもとに向かう刻限は知られていました。汚物を抱えて長くは待てないでしょう」
「彼女は裏切ったわけではない。私が頼んだんだ」
驚く女房に語りかける。
「弘徽殿方の女房が取り込もうと画策するのは想像がついた。
相手も推察できた。彼女の父の兄弟がもともと右大臣側に仕えていたからだ」
「………」
「まさかこんな手で来るとは彼女も私も考えなかったが、何らかの攻撃は来ると思っていた。
むしろそれを受けることであちら側の気をなだめ、
先方の得ることのできる情報を管理しようと考えていた。
私が矢面に立つつもりだったのにこんなことになってしまって申し訳なかった」
静かに頭を下げた。
「私が病みついて帝が来た時に弘徽殿を呼んだのも彼女だ。
充分に予想がついたので帝に動きがあった瞬間動くように命じていた。
彼女は私の意志によって動いていたにすぎない。
怒っているならそれはすべて私に向けてほしい。
先に話すことができなくて悪かった。だけどこのことを知る者は最小限に留めたかった」
女房は黙っている。苦い気分で呟いた。
「もし、どうしても私が許せないのなら」
「まさか!」
リーダー格は否定した。
「そうじゃありませんよ。意外に自分は妬み深いんだな、と考えていただけです」
にやりと笑う。
「彼女を断罪しようとしたその元は、このわたしより先に袿を投げたことにあるんです。
わたしは誰よりも先にそれをやりたかったんです」
女房は私の前に跪いた。
「何もいりません。ただあなたにお仕えすること自体がわたしの……わたしたちの喜びです」
泣きたくはなかった。だが抑えられなかった。
「辛いことは多いし私は勝手だぞ。恋に捕われて暴走するぞ」
報いてやれることは少ない。
「本望ですよ。並み居るやんごとなき方々に、一泡吹かせてやろうじゃないですか」
そういって涙をぬぐってくれた。
「……あなたがそう望むのなら」
あの時、年若い女房もまっすぐに私を見つめた。
「命じてください。それがわたしの……そしてみんなの喜びです」
恋は罪深い。