弘徽殿(こきでん)登場
弘徽殿視点
「ずい分とご機嫌ですね」
広々とした右大臣邸の寝殿(メインの建物)で鼻歌交じりに漢書を開く私の横に、乳母子が座った。
「そりゃそうです。入内まであと少し。私が世を司る日が近づいてきたわけです」
「はぁ」
近日中に元服する春宮(皇太子)のもとへ行くことになっている。父は支度に大わらわだ。
「不安にはお思いにならないのですか」
「なぜ?」
不思議なことを言う。凡俗の女ならさもあろうが、今回嫁ぐのは私だ。 知性、美貌、楽の才。どれをとっても不足ははない。単身でも寵愛は深かろうが、更に後見の父は出世街道まっしぐら、その勢い欠けることなき右大臣である。
「おまけに私は春宮の添い臥しと決まっています。つまり公式にNo.1なのです」
一という数字は大好きだ。
乳母子は困ったような顔をした。
「あの、たとえば姫さまが春宮さまよりお年上であることとか、真名(漢字)などを平気でお読みになることとか」
彼女は開いた書物にちらり、と目をやる。
「年の差など全くかまいません」
強く言い切る。
「伝え聞く限り春宮はさして学に長けたお方ではない。そのようなことに熱を入れると体を壊す、などと信じていらっしゃる。ならば私が代わりに補佐してやらねばなりません。師として教えるには私が年上の方が都合がよろしい」
漢書を見せつけるように更に開く。
「真名も女人には不要なもの、と思われていますが、私は例外です」
胸を張った。
「なにせ私は中宮(皇后)を目指す身。この程度単なる基礎教養です」
「はぁ」
乳母子は言い足りなさそうだ。寛容な私は言葉を促した。
「春宮さまはやがて帝におなりになります。様々な女人が入内してくると思うと、私は姫さまが案じられてなりません」
「どんな女人が来ようとも、この私にかなうわけがないではないか」
まったく、この女は乳母より心配性だ。
「おまえ、もしかして内裏に行くのが嫌なの」
「いえ、そういうわけではありません」
「弘徽殿を賜ることになっているから、そう不自由ではないと思うけど」
「場所に不安を感じているわけではありませんわ」
同じ年のこの娘は、知性は足りぬが忠実に私に仕える。いつもは素直に従うが、今度ばかりは何か含むものがあるらしい。多分、新しい経験を前にして気後れしているのだろう。
励ましてやることにした。従者の心身の安定は主人の勤めだ。
「安心しなさい。三史五経をはじめ諸子百家、史記なども読みこなせる姫などそうはいない。どのような女がきたとしても恐るに足りず、です」
彼女はいっそう肩を落とした。そしてしばらく私を見つめると、ふいに我が手を握った。
「何があろうと、私は姫さまの味方です」
驚いていると、更に力を込めた。
「私が、お守りいたします」
思わず吹き出しそうになった。逆ならともかく、この非力な女が我が盾になろうと志すとは滑稽な夢想だ。
だが、その気持ちは嬉しかった。
「ありがとう。よろしく頼みます」
悲愴な顔で勢い込む彼女に笑いかけると、彼女も少し微笑んだ。
やがて入内の日が訪れた。
乳母子に手を引かれて立ち上がる。父が迎えにきた。
「おお、なんと美しい。吉祥天女かと思いましたぞ」
「それは誉めすぎですわ、お父さま」
せいぜい衣通姫といった程度である、と謙虚な私は考えた。
いや、もしかすると楊貴妃の域はいってるかもしれない。しかし、中宮となるはずの私は貴妃より上であろう。
「牛車の用意が整いました」
「女童、スタンバイOKです」
「お付きの殿上人も参上いたしております」
御簾(すだれ)が掲げられた。今まで紗(薄絹)で鎖されていたようであった世界が鮮明に私の前に広がる。ゆっくりと最初の一歩を踏み出す。
扇をかざしても降り注ぐ光はまぶしい。
静々と、私は進む。
まだ見ぬ春宮のために。
自分自身の栄光のために。