閑話2 大狼、苦悩する
あの日、人の子を拾い家族に迎えて、早二月。
子供は、思った以上に弱り果てていたようで、満足に食事も取れない始末だった。
無理やり食わせようとしても、吐いて戻してしまう。
日に日に弱っていく子供に、ほとほと困り果てた。
このままでは死んでしまう。
どうしたものかと思案して、はたと気が付いた。
たしか、人は生で物を食わないのだったか?
肉も火を通さねば食べない、変わった種族だったと思う。
ダメで元々と、火精に命じ肉を焼く。
するとどうだ、力なく横たわっていた子供がムクリと起き出したではないか!
程よく焼けたのを確認すると、再び火精に命じて火を消す。
子供は待ってましたとばかりに、肉へと貪りついた。
熱いだろうに、そんな事も気にせず貪っていた。
涙を流して貪っていた。
我の考えは間違いではなかった。
ならば、肉だけでは人は生きられぬはずだ。
巣穴を出て、人が生でも食べられる木の実を探す。
この森は肥沃な森だ。
木の実も果実も豊富にある。
特に労力もかけずに、果実も木の実も集まった。
風精に命じ、果実を運ぶ。
子供の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
さらに月日は流れる。
我が子らも随分大きくなった。
人の子もまた大きくなった。
しかし、悲しいかな、我が子らとは違い、人は大きくなっても毛も牙も生えて来ぬ。
変わりに、獣の毛皮で作った衣服を与えた。
これは、我が一族が受け継ぐある技能によって作ったものだ。
まだ子らに教えるには早いが、いずれ教える時がくるだろう。
獣と違う、人の子は、幾つもの不自由を抱えながら他の子らと同じように森で生きた。
時はたち、子らにも狩りを仕込む時期が来る。
しかし、やはり不安は人の子よ。
牙もなく爪もない人の子に、果たして狩りができようものか?
それ以前に、1つの懸念があった。
これはそれを確認する為にも、必要な行為だった。
兄弟たちと共に、小さな野兎を追い掛ける人の子。
子らは連携して、巧みに獲物を追い詰める。
ほとんど本能に従って動く子らに引き換え、人の子の動きは鈍い。
それでもなんとか追い詰めて、いざ捕獲となった時それは起こった。
突然人の子が立ち止まり、顔には苦悩の色が見える。
手は宙を掻き、視線は彷徨う。
その隙に、追い詰められた獲物は逃げようとするが、横から我が子にぱくりと捕獲された。
その光景を見て、さらに苦悩するように顔を歪める人の子。
やはり、我の懸念は当たってしまった。
この子は優しすぎる。
命を奪う事を忌避している。
なんと言う事か。
この自然の中で、殺せぬものは淘汰される。
生きるための糧を得られぬ我が子。
殺さなければ殺される、喰らわなければ喰らわれる。
その自然の摂理に反している愛し子。
今はまだいい、子供で我も兄弟もいる。
だが、独り立ちした時、この子に待っているのは死の運命だ。
それを解っていて、放り出す事などできない。
なんとかしなければ、なんとか。
その日から、我の苦悩の日々は始まった。
度々、子らを狩りに連れ出すものの、やはり人の子は獲物を捕まえられない。
無い牙の変わりに、人の武器を作って渡してみたが、結果は変わらなかった。
子らのじゃれ合いが、激しくなっただけだった。
これは荒療治が必要か。
そう感じていた。
そんなある日の事だ。
長く降り続いた雨が止み、久しぶりに日の光が森を照らした頃。
それは森に迷いこんできた。
ゴブリンと呼ばれる、薄汚い妖魔。
人は魔物などと呼んでいるそれが、我が守護するこの森に土足で入り込んだのだ。
すぐさま狩り殺そうと動きかけ、ふと思いついた。
アレの相手を人の子にさせよう。
日々兄弟たちと戯れ、その動きは他の兄弟たちと遜色無い。
ゴブリン程度に遅れはとるまいと思うて人の子に命じたのだ。
しかし、そうは言うものの心配な事は心配なのだ。
なんといっても人は脆弱な生き物だ。
あの子は妙な守りをもっているが、それとて万能ではあるまい。
こっそり後を着ける事にした。
他の子らも気になるのか、同じように着けていた。
隠れて遠巻きにして見る。
コブリンと対峙してから、子の動きが明らかにおかしい事に気が付いた。
動きが悪い、それ所ではない。
いつもの動きがまるで出来ていない、手にした武器も振りが弱い。
力ないへろへろの振りでは、あの程度のゴブリンすら殺せまい。
冷や冷やハラハラしながら子の戦いを見続けた。
度々、毛の逆立つ時があった。
ある意味、拷問のような時間だった。
ひやりとした場面はあったものの、我が子は泥まみれになりながら勝利した。
ゴブリンの首に剣を叩きつけて、ゴブリンは力なく地に伏せた。
その姿を呆然と見つめる我が子が、ポロリと一滴涙を流した。
胸が張り裂けそうなほど、後悔と苦悩を抱えながら、それでもこれはあの子の為だと
自身に言い聞かせる。
叫びだしたい衝動を堪えて巣穴へと踵を返した。
後は子らに任せよう。
我はただ、巣穴にて子らが帰りを優しく迎え入れよう。
その日は人の子を囲むように、皆で固まって眠むりについた。
眠りながら、すすり泣く我が子を抱きしめて。
許せ、我が子よ。
これも偏に、母の愛。
お前が一人でも生きていけるように、いずれ来るであろう別れの日の為。
母はお前を鍛えよう。
優しすぎる子のために。
だから我が子よ、許しておくれ。
非情を強いる、母を許しておくれ。
我はこの後も、人の子に魔物狩りを強いる事となる。
全ては我が子の為と信じて…。
母の苦悩の日々は続く。