第9話
退院して家に帰った。
コロナ禍だったから、人とも会わず、ひっそりと退院した。拍手も花束もない。あっさりした帰り道。でも僕にとっては、それが何よりのご褒美だった。
やっと家族のもとに帰れる。
娘とは一か月以上、会えていなかった。
家に帰って、一番「詰んだ」のは感覚だった。
リハビリ入院中、僕は最年少だった。
周りはもっと年上で、比べる相手が違ったのかもしれない。だから勝手に思っていた。
「これくらいならできる」って。
できなかった。
居間の床に、普通に座れない。
“座る”ができない。
半分倒れ込むみたいにして、ようやく座る。
そのあとが、もっと駄目だった。
何かにつかまらないと立てない。
立つって、こんなに難しかったっけ。
“当たり前”だった動作が、急に別の国の言葉みたいになっている。
階段は、ゆっくりなら上がれる。
でも手すりがないと辛い。
そして、階段は降りられない。
手すりにつかまっても、体が半身の体勢になる。
一歩ずつ。
ただそれを繰り返す。
上がるより、降りるほうが怖い。体が勝手に「やめろ」って言ってくる。
何度も、何度も。
感覚を戻すみたいに、同じ動きを繰り返した。
繰り返すしか、戻し方が分からなかった。
理容師なのに。
仕事に戻りたいのに。
その前に、床に座って立つだけで息が切れる。
でも思った。
ここからだ。
あの時、先生に「三分の一」の話を聞いても、僕は絶対に復帰するって決めた。
なら、階段も。床も。感覚も。
一個ずつ、取り戻すしかない。
自分が“三分の一”に残れたことに感謝した。
そして、きっと仕事に戻れると誓った。
家の中で、できるようになった最初の一つ。
それは、宣言通り——娘を抱っこすることだった。
左半身はうまく動かない。
だから、ほぼ右半身だけだった。
それでも、持ち上げられた。
娘は照れるように笑った。
その笑い方を見た瞬間、思った。
やっぱり宝物だ。
妻も笑っていた。
二人が笑っているのを見ると、安心できた。
帰ってきたんだって。
今までは不安な時間しかなかった。
病院の天井を見ていた時間。
歩行機で、ゆっくり進んでいた時間。
階段を半身で降りていた時間。
全部が、ここに繋がっていた気がした。
これからの糧になる気がした。
まだ不安がなくなったわけじゃない。
それでも、また頑張れる。
妻と娘の顔を見るだけで、そう思えた。
帰ってきた、じゃなくて——帰ってこられた、だった




