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くも膜下出血で倒れた理容師が、復帰して小説を書き始めた話  作者: antomopapa


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9/12

第9話



退院して家に帰った。

コロナ禍だったから、人とも会わず、ひっそりと退院した。拍手も花束もない。あっさりした帰り道。でも僕にとっては、それが何よりのご褒美だった。

やっと家族のもとに帰れる。

娘とは一か月以上、会えていなかった。

家に帰って、一番「詰んだ」のは感覚だった。

リハビリ入院中、僕は最年少だった。

周りはもっと年上で、比べる相手が違ったのかもしれない。だから勝手に思っていた。

「これくらいならできる」って。

できなかった。

居間の床に、普通に座れない。

“座る”ができない。

半分倒れ込むみたいにして、ようやく座る。

そのあとが、もっと駄目だった。

何かにつかまらないと立てない。

立つって、こんなに難しかったっけ。

“当たり前”だった動作が、急に別の国の言葉みたいになっている。

階段は、ゆっくりなら上がれる。

でも手すりがないと辛い。

そして、階段は降りられない。

手すりにつかまっても、体が半身の体勢になる。

一歩ずつ。

ただそれを繰り返す。

上がるより、降りるほうが怖い。体が勝手に「やめろ」って言ってくる。

何度も、何度も。

感覚を戻すみたいに、同じ動きを繰り返した。

繰り返すしか、戻し方が分からなかった。

理容師なのに。

仕事に戻りたいのに。

その前に、床に座って立つだけで息が切れる。

でも思った。

ここからだ。

あの時、先生に「三分の一」の話を聞いても、僕は絶対に復帰するって決めた。

なら、階段も。床も。感覚も。

一個ずつ、取り戻すしかない。

自分が“三分の一”に残れたことに感謝した。

そして、きっと仕事に戻れると誓った。

家の中で、できるようになった最初の一つ。

それは、宣言通り——娘を抱っこすることだった。

左半身はうまく動かない。

だから、ほぼ右半身だけだった。

それでも、持ち上げられた。

娘は照れるように笑った。

その笑い方を見た瞬間、思った。

やっぱり宝物だ。

妻も笑っていた。

二人が笑っているのを見ると、安心できた。

帰ってきたんだって。

今までは不安な時間しかなかった。

病院の天井を見ていた時間。

歩行機で、ゆっくり進んでいた時間。

階段を半身で降りていた時間。

全部が、ここに繋がっていた気がした。

これからの糧になる気がした。

まだ不安がなくなったわけじゃない。

それでも、また頑張れる。

妻と娘の顔を見るだけで、そう思えた。


帰ってきた、じゃなくて——帰ってこられた、だった

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