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くも膜下出血で倒れた理容師が、復帰して小説を書き始めた話  作者: antomopapa


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8/12

第8話



休憩のとき、自販機でコーヒーを買った。

病院の自販機の前で、財布を出して、ボタンを押して、落ちてくる音を聞く。そういう“普通”が、少しうれしかった。

コーヒーを取った、その瞬間——

身体が起こせなくなった。

倒れた。

近くの人に起こしてもらった。

恥ずかしい、とかじゃない。

怖かった。

さっきまで「歩ける」って思ってたのに。

次の瞬間には床にいる。

自分の体が、いつ裏切るか分からない。そう思うと、足元の世界が急に不安定になる。

先が見えなかった。

このまま、いつまでここにいるんだろう。

店はどうなる。家はどうなる。

“治す”だけじゃなく、“生活を守る”ことが頭に重くのしかかった。

僕は先生に聞いた。

「どれくらい、かかりますか」

先生ははっきり答えなかった。

でも代わりに、現実が動いた。

三日後、リハビリ専門の病院に転院することになった。

「まだ帰るんじゃないんだ」

そう思った。

退院は、まだ先。

でも、前に進むしかない。


転院。

新しい病院に入った瞬間に分かった。

年齢層が高い。かなり高い。

たぶん僕が最年少だった。

場違い、ってこういう感じかもしれない。

同じリハビリをしているのに、自分だけ別の時間軸にいるみたいだった。

でも、落ち込んでいる暇はなかった。

リハビリの量が、前の病院の三倍になった。

きつい。

体が追いつかない。

でも、むしろありがたかった。

やることがあるって、救いだ。

痛みや不安を考える暇がないほうが、僕には向いていた。動けば、少しだけ「前に進んでる」と思えるから。

リハビリ師さんに聞かれて、僕は目標を宣言した。

「娘を抱っこできるようになりたいです」

娘は小学校五年生。一人っ子。

反抗期もなかった。いつも笑ってる。

その娘を、ちゃんと抱っこしたかった。

抱っこって、ただ持ち上げることじゃない。家族に戻る実感だ。父親として戻る実感だ。

とにかくリハビリに励んだ。

毎日、同じことを繰り返す。

できないことを、できるようにする。

それしかなかった。

……でも一向に、退院の話が来ない。

僕は先生に聞いた。

「いつ頃、退院できますか」

返ってきたのは、思っていたより重い言葉だった。

「半年は入院しないと、まともに動けないよ」

半年。

半年も無収入は、さすがに無理だ。

現実は、僕の体の回復を待ってくれない。

入院が長引けば、店が止まる。家計が止まる。家族の生活が止まる。自営業の“止まれなさ”が、ここで全部押し寄せた。

僕は必死に先生を説得した。

お願いというより、交渉だった。

店のこと。家のこと。現実のこと。

できる限りのことはやる。通院もする。家でもリハビリを続ける。だから——帰らせてほしい。

そして何とか、二週間で退院できることになった。

通院と、家でのリハビリに切り替える。

無理してるのは分かってた。

でも僕には、戻る場所があった。

帰る。

家に。店に。家族のところに。



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