第8話
休憩のとき、自販機でコーヒーを買った。
病院の自販機の前で、財布を出して、ボタンを押して、落ちてくる音を聞く。そういう“普通”が、少しうれしかった。
コーヒーを取った、その瞬間——
身体が起こせなくなった。
倒れた。
近くの人に起こしてもらった。
恥ずかしい、とかじゃない。
怖かった。
さっきまで「歩ける」って思ってたのに。
次の瞬間には床にいる。
自分の体が、いつ裏切るか分からない。そう思うと、足元の世界が急に不安定になる。
先が見えなかった。
このまま、いつまでここにいるんだろう。
店はどうなる。家はどうなる。
“治す”だけじゃなく、“生活を守る”ことが頭に重くのしかかった。
僕は先生に聞いた。
「どれくらい、かかりますか」
先生ははっきり答えなかった。
でも代わりに、現実が動いた。
三日後、リハビリ専門の病院に転院することになった。
「まだ帰るんじゃないんだ」
そう思った。
退院は、まだ先。
でも、前に進むしかない。
転院。
新しい病院に入った瞬間に分かった。
年齢層が高い。かなり高い。
たぶん僕が最年少だった。
場違い、ってこういう感じかもしれない。
同じリハビリをしているのに、自分だけ別の時間軸にいるみたいだった。
でも、落ち込んでいる暇はなかった。
リハビリの量が、前の病院の三倍になった。
きつい。
体が追いつかない。
でも、むしろありがたかった。
やることがあるって、救いだ。
痛みや不安を考える暇がないほうが、僕には向いていた。動けば、少しだけ「前に進んでる」と思えるから。
リハビリ師さんに聞かれて、僕は目標を宣言した。
「娘を抱っこできるようになりたいです」
娘は小学校五年生。一人っ子。
反抗期もなかった。いつも笑ってる。
その娘を、ちゃんと抱っこしたかった。
抱っこって、ただ持ち上げることじゃない。家族に戻る実感だ。父親として戻る実感だ。
とにかくリハビリに励んだ。
毎日、同じことを繰り返す。
できないことを、できるようにする。
それしかなかった。
……でも一向に、退院の話が来ない。
僕は先生に聞いた。
「いつ頃、退院できますか」
返ってきたのは、思っていたより重い言葉だった。
「半年は入院しないと、まともに動けないよ」
半年。
半年も無収入は、さすがに無理だ。
現実は、僕の体の回復を待ってくれない。
入院が長引けば、店が止まる。家計が止まる。家族の生活が止まる。自営業の“止まれなさ”が、ここで全部押し寄せた。
僕は必死に先生を説得した。
お願いというより、交渉だった。
店のこと。家のこと。現実のこと。
できる限りのことはやる。通院もする。家でもリハビリを続ける。だから——帰らせてほしい。
そして何とか、二週間で退院できることになった。
通院と、家でのリハビリに切り替える。
無理してるのは分かってた。
でも僕には、戻る場所があった。
帰る。
家に。店に。家族のところに。




