第7話
リハビリ中、こんなことがあった。
病棟のベッドで、スマホを落とした。
ベッドの縁から、床へ。
「あ、やっちゃった」くらいの軽い気持ちで、僕は拾おうとした。
拾えた。
——取れた。
それだけなら、たぶん小さな成功体験だった。
でも、戻れなくなった。
変な話だけど、本当に戻れなかった。
体が固まる。起き上がれない。腹筋も背筋も、僕のものなのに僕の指示を聞かない。
どうにもならない。
焦るほど、余計に動かない。
ナースコールに手が届かない。
あれは、目の前にあるのに遠い。普段は何も考えず押せるのに、その日は“世界で一番押せないボタン”に見えた。
同じ病室の人に頼んだ。
ナースコールを押してもらった。
——けど、間に合わなかった。
僕はベッドから落ちた。
落ちた瞬間のことは、正直あまり覚えていない。
覚えているのは、「やばい」という音のない叫びと、次に来たバタバタした空気だけだ。車いすでそのままMRIを撮りに行った。
大事には至らなかった。
それが、まず一番よかった。
でもその代わり、病院が家族に連絡したり、家族から確認の連絡が来たり、看護師さんに怒られたり、散々だった。
僕自身も、散々だった。体も心も、ぐちゃぐちゃになった。
情けないとか、恥ずかしいとか、そういう感情は後から来る。
その時はただ、「助かった」が先に来る。
助かった。生きてる。大事になってない。
それだけで、胸の奥がひとつ落ち着いた。
リハビリは、ドラマみたいに一気に良くならない。
昨日できなかったことが、今日もできない。
できないことが続くと、何かが削れていく。自分の中の“当たり前”が、少しずつ剥がれる感じがする。
でも、たまにできる。
指が少し動く。
足が少し動く。
それだけで、その日は勝ちだと思うしかなかった。勝ちにしないと、明日が続かない。
僕は決めてた。
絶対に復帰する。
家族のところに戻る。店に戻る。
口で言うのは簡単だけど、体がついてこない。
だから毎日、同じ決意をし直した。
“決意”って、一回決めれば終わりじゃない。できない日が来るたびに、また決め直さないといけない。
三週間以上。
長かった。
でも、あの三週間がなかったら、たぶん今の僕はいない。
散々だった。
だけど、生きてた。
リハビリはまだ続いた。
一般病棟に移ったからって、何かが急に変わるわけじゃない。
それでも少しずつ動けるようになった。
歩行機を使えば、歩けるようになった。
「歩ける」と言っても、昔の歩けるじゃない。
歩行機に体を預けて、ゆっくり、ゆっくり。
それでも、前に進めるだけで嬉しかった。前に進めることが、嬉しかった。
でも僕は焦っていた。
少しでも早く家に帰らないと、って。
自営業だから。
入院中、家の収入はゼロだ。
病室で天井を見ながら、店のことが頭から離れなかった。




