第3話
救急車は、すぐには出発しなかった。
まずは問診だった。名前、年齢、いまの症状。さっき電話で話したのと同じ内容を、もう一度繰り返す。僕は普通に答えた。普通に答えられてしまうのが、逆に不思議なくらいだった。
救急車の中は、意外と何ともなかった。
あの圧縮されるような痛みは、少しずつ引いてきていた。
だから僕は思っていた。
家に帰って、妻に怒られて、「なんでもなくてよかったね」って笑い話になる。そうなってほしかった。そうであってほしかった。
血圧を測った。
数字が出た。
「230」
その瞬間、隊員さんの顔がギョッと変わったのを覚えている。
僕の方が平気な顔をしていて、隊員さんの方が動揺している。その構図が、妙に現実味を持って胸に刺さった。
健康診断でも、せいぜい140くらいだ。
(それでも高いけど)
それが一気に230。数字を見た瞬間、いよいよ自分の体の違和感に嘘が言えなくなってきた。
でも僕は、平気な顔を作ろうとした。
娘の前で「歩いて行けます」って言った時みたいに。
「今は……だいぶ痛み、収まってきました」
たぶん、声もなるべく軽くした。
だけど、その場の空気は軽くならなかった。隊員さんの表情だけで、僕の中の何かが冷えた。
「寝ててください。ストレッチャーに」
言われるまま横になる。
救急車の天井が近い。白い板みたいな天井が、目の前にぴたりと張り付いている。体は横になっているのに、気持ちは落ち着く場所を見つけられない。
隊員さんはすぐ、どこかに電話をかけた。医者だと思った。
言葉は全部は聞き取れない。専門用語も混ざっている。でも、声の速さだけは分かった。急いでいる声だった。確認ではなく、連絡の声だった。
救急車は、そのまま病院に急行した。
景色は見えない。横になっているから窓の外はほとんど見えない。けれどスピードだけが伝わってきた。揺れの細かさ、カーブの角度、止まらない感じ。
僕はまた、軽い声を作った。
妻を心配させたくなかったから。
「結構早いね」
救急車の中でも、サイレンは結構な大きさで響いていた。
その音が、僕の言葉だけを置き去りにしていく。軽くしたつもりの声が、どこにも着地しない。
「笑い話にしよう」って願いが、口の中で音もなく潰れた。
この辺から記憶が曖昧だ。
たぶん先生と看護師さんが二人、目の前にいた。光が明るくて、声がして、体が動かされて——でも、そこから先が抜け落ちている。現実なのに、映像が飛ぶ。
覚えているのは、ICUで寝ていたこと。
そして、先生の声。
「今は出血が止まってるので、明日の朝一番で手術します」
その言い方が妙に落ち着いていて、余計に怖かった。
落ち着いて言えるほど、よくあることなのか。落ち着いて言えるほど、準備が整っているのか。どちらにしても、「軽い話じゃない」だけは伝わった。
僕は聞いた。
「……くも膜下ですか?」
先生ははっきり言った。
「くも膜下出血です」
その瞬間、頭の中に一つだけ浮かんだ。
家族。
娘の顔が浮かんで、消えなくなった。




