第2話
あの日の朝、僕は自分が死にかけるなんて思っていなかった。
いつもの一日だった。父と店に立って、いつものように仕事をして、いつものように一日が終わる。理容師の二代目。大げさな事件なんて、うちの店には似合わない。そう思っていた。
——もっと言えば、僕が理容師を目指したのは、ある意味で自然なことだった。
母は僕が小学校の頃に病気で亡くなっている。父は一人で、僕と姉を育ててくれた。家のことも、仕事のことも、全部を背負ってきた父の背中が、僕にとっての「大人」の形だった。だから僕が父の仕事を継ぐように理容師を目指したのも、特別な決意というより、流れの中にあった選択だった。
夕食を終えて、しばらくしてからだった。
お腹が痛くなってトイレに行った。よくあることだ。いつも通りに済ませて、いつも通りに出て——そういう流れのはずだった。
それは予兆もなく来た。
脳みそが突然、半分に圧縮されたみたいな痛み。
「頭痛」という言葉では足りない。頭の中の空気が一瞬で潰されて、内側から破裂しそうになる感じ。思考より先に体が反応して、僕は一瞬、死んだかと思った。
だからまず、意識を確かめた。
今、自分は“いる”のか。
次に、体が動くか確かめた。腕、足、指。
動く。
そっと立ち上がってみる。
立てる。
生きている。動ける。立てる。
その事実が、逆に怖かった。これだけ痛いのに、体はいつも通りのふりをする。いつも通りに見えるものほど、信じていいのか分からなくなる。
トイレを出て、居間に行った。
けれど座っていられなかった。横になった。滝みたいな油汗が止まらない。背中も、首も、手のひらも、濡れていく。息を吸うだけで精一杯で、体が勝手に「危ない」と言っているみたいだった。
その時、妻は普通にテレビを見ていた。
僕がこんなことになっているなんて思っていない。いつもの夜の延長。いつもの家の景色。
それが、逆に怖かった。自分だけが別の世界に落ちたみたいで、誰もそのことに気づいていない。
「ちょっと病院行っていい?」
そう言うと、妻はようやくこちらを見て、慌てた。
「どうしたの? 大丈夫?」
妻は病院に行く準備をし始めた。
でも、娘の顔を見た瞬間、僕の中で何かが決まった。
救急車を呼ぼう。
そしてもし、なんともなかったら——笑い話にしよう。
自分で電話して、救急車を呼んだ。
第一声はこうだった。
「頭がすごく痛い。テレビで見た、くも膜下出血みたいな痛みです」
そう言えたのは、昔見た報道が頭に残っていたからだ。
歌手で俳優もしている人がくも膜下出血になった、というニュース。そこで「こういう症状だったら気をつけてください」と説明されていたあの感じに、今の痛みが似ていた。まさか自分が、と思いながらも、口が勝手にそう言った。
住所を伝えている間も、汗だけが止まらなかった。
電話を置いて、僕は二階の居間で横になった。一階が店だから、階段を上がるだけで精一杯だった。たかが階段が、いつもよりずっと遠い。
妻が急いで電話している声が聞こえた。
——父に、ではなかった。父は別の家に暮らしている。こういう時に連絡を入れるべき相手が誰か、妻は一瞬で判断しないといけなかった。気を使わせてしまったと思う。だから妻はまず、実家の義母を呼んだ。
娘にも話していたのを覚えている。
「自分たちがいなくても、すぐお婆ちゃんが来るから」
その言葉が、当たり前のはずなのに、妙に胸に刺さった。家の段取りが“非常事態の段取り”に変わっていく音がした。
玄関のチャイムが鳴った。
その瞬間、僕の中でふっと思った。
——これは、いよいよやばいかもしれない。
救急隊の人が来て、「ストレッチャー持ってきますね」と言った。
娘が見ている。心配させたくない。だから僕は言ってしまった。
「歩いて行けます」
本当は、歩いていいのかなんて分からなかった。
でも僕は立ち上がって、歩いて、救急車に乗った。
自分が何をしに行くのか、まだ分かっていなかった。
ただ、いつもの家の玄関から、いつものじゃない夜へ移っていく——そんな感覚だけが、やけに鮮明だった。




