第14話
退院から三か月が過ぎた。
まだ体が慣れないまま、必死に毎日を回していた。
そんな中で、コロナ禍はある意味では“幸運”だったのかもしれない。
まだ世界中が疑心暗鬼だった頃で、理容業も影響を受け、お客さんの数が減っていた。
忙しさが減ることが、救いになる。そんな皮肉がある。僕はその皮肉に、助けられていた。
「なんとかやれている」
その状態を、必死で維持していた。
でも現実は、仕事だけじゃない。
リハビリもしなくてはいけない。疲れ切った体に鞭を打って、必死に動かす。
昼に行けなくなった散歩は、夜にした。
店を閉めて、へとへとになった体を引きずるように外へ出る。
歩くのが回復のためだと分かっているから、やめられなかった。
半年以内に回復しておかないと、それ以降の回復は難しいらしい。
どこまで正確な話かは分からない。でも当時の僕には、それが“期限”に聞こえた。
だから、どんなに疲れていても動かした。
必死だった。
今にして思えば、結果的にこの無理が良かったと思う。
根性論の昭和世代だからかもしれない。
無理をすれば、体が無理に慣れてくる——そんな実感が、少しずつ出てきた。
もちろん、無理のしすぎは危ない。分かっている。
でも当時の僕には、「止まったら終わる」みたいな感覚があった。
そんな中の十二月末。
一年で一番忙しい時期に、父が入院した。
父はもともと高血圧で、腎臓も悪かった。
主治医からドクターストップがかかった。
検査をすると、腎臓より心臓のほうが悪かった。
心拍数が一分間に三十回を切っていた。
このまま放置すれば、いつ止まってもおかしくない——そう言われた。
即入院。即手術。
父の心臓に、ペースメーカーが取り付けられた。
退院は年明け。
正直、思った。
——一人でできるのか。
でも、やるしかないのは分かっていた。
ここで止めたら、店が止まる。家が止まる。
やるしかない、という言葉の中に、選択肢はない。
僕はひたすら回した。
それ以外、考えられなかった。
頭が痛いなんて言えない。
ご飯だって食べられない時もあった。
体がついてこないのに、予約は来る。年末は待ってくれない。
一時間仕事して一時間休憩、なんて無理だった。
三時間仕事して一時間休憩に変更した。
“休憩を予定に入れる”という僕の作戦が、現実に踏みつぶされていく。
仕事が終わって、倒れ込むように寝ることがざらになった。
倒れたほうが楽かな、なんて思ったりもした。
自分が倒れた経験があるから、その考えの危うさも分かっている。分かっているのに、ふっと浮かぶ。疲れが限界に近い時、頭は平気でそういう囁きをする。
やっぱりこういう時は、家族の顔が出てくる。
娘。妻。父。
顔が浮かぶと、気力が戻る。戻ってしまう。
僕は気力を奮い立たせて、またハサミを持った。
僕が入院していた頃より、少しコロナの対応が改善していて、父の面会時間が少し緩くなった。
でも僕は車の運転ができない。だから妻に行ってもらうことにした。
申し訳ない思いがいっぱいだった。
僕の通院も、娘の習い事も、買い物も、運転も。
さらに父の面会まで。
妻の負担の上に、僕は立っている。そう感じるほど、胸が苦しくなる時があった。
それでも年は終わっていく。
そんなこんなで、激動の二〇二一年が終わる。
なんとか乗り切った。
父が退院して、家と店は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
そして僕は思った。
二〇二二年は、いい年にしたい。




