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くも膜下出血で倒れた理容師が、復帰して小説を書き始めた話  作者: antomopapa


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第10話 



退院して、最初に切ったのは父の髪だった。

長くこの仕事をしている。

左手がうまく動かなくても、切ること自体は問題なかった。

修行時代、理容師の先輩から習ったことの中に「左手の使い方」がある。

くしの角度。

顔剃りのときの皮膚の引っ張り方。

力のいらない作業の作り方。

そういう“手順”というより、“身体の使い方”みたいなもの。

やってみたら、問題なくできた。

体が覚えてるって、こういうことなんだと思った。

カット。

シャンプー。

顔剃り。

ドライヤーとセット。

一通り、確認した。

左半身の不便さ、動きづらさ、力の入りにくさはある。

でも「大丈夫だ」と思った。

……問題は、そこじゃなかった。

髪を切るとき、頭の中に出す“イメージ”がある。

展開図みたいなやつだ。仕上がりの形、流れ、ボリューム。見えない部分を頭の中で組み立てて、手を動かす。

あれを出そうとすると、頭痛が来る。

想像力を働かせると、拒否反応みたいに頭痛がする。

頭の整理が追いつかない感じ。

いつもなら自然に回っていたものが、回らない。

話しながら切るのも、頭痛が伴う。

会話をしながら切るって、こんなに脳を使ってたんだって初めて知った。

雑談をして、相手の反応を見て、手元の長さを見て、次の工程を考えて——それを同時にやっていた。今まで当たり前に。

それに、長い時間立っていられない。

足が疲れるとか、そういう単純な話じゃなくて、体のほうが先に「やめろ」って言う。

立っているだけで、全身が仕事をしている。健康な時は気づかなかった“消費”が、急に見えるようになる。

今まで普通だと思っていたことが、こんなにもパワーがいるのか。

健康な体との違いに、戸惑いがすごかった。

切れるのに、追いつかない。

できるのに、同じようにはできない。

それでも僕は思った。

ここから、また作り直すしかない。

リハビリのために、散歩にも毎日行った。

退院して初めて、一人で外に出る。

あの時は「一人で歩ける」ことが、嬉しくて、誇らしくて、少し怖かった。

気が付くと、左半身に怪我をしていた。

擦り傷。

真っ直ぐ歩けなくて、壁にこすりながら歩いていたらしい。

自分では“普通に歩いてるつもり”なのに、体は少しずつずれていく。そのずれに、自分が気づけない。

それからしばらくは、娘と歩いた。

話しながら歩いていると、左にずれる。

娘に「こっち」って修正されながら、歩いた。

小学生の娘に、歩き方を直される。父親としては情けない。だけど——

娘は心配だったかもしれない。

でも、お父さんは嬉しかったよ。

一緒に歩ける。

笑って、話しながら歩ける。

それだけで、「戻ってきた」がまた少しだけ増えた気がした。



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