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第一章 『五月雨よりも早く、零れ落ちる想い』

 プロローグで書かせてもらった一件から3年後の『現在』です。

 本来なら、五月雨(さみだれ)が街を濡らす季節まで、この心は静かにいでいるはずだった。

 二ヶ月後、あの人が二十歳(はたち)を迎えるその日まで、俺は「近所の弟分」という安全な器の中で、自分を殺して待てると思っていたんだ。

 けれど、春の嵐は予感もなく吹き荒れる。

 器に溜まっていたはずの熱は、季節を追い越し、俺の制御を離れて、あまりにも早くこぼれ落ちてしまった。

   ☆ ☆ ☆

 高校二年生、最初の朝。

 日向ひゅうが家のリビングには、トーストの焼ける匂いと、テレビから流れる代わり映えのしないニュースが漂っていた。

 俺は鏡の前で、ネクタイを締め直す。

 高校に入ってから、自分でも驚くほど体が成長した。中学の時とは明らかに違う、厚みの増した胸板と、鋭くなった眼差し。今の俺なら、あの人も少しは「男」として見てくれるんじゃないか。

 そんな根拠のない期待が、胸の奥で小さな熱を持っていた。

一颯いぶき、あんたまた背伸びた? 制服の袖、短くなってない?」

 母の夏美が、コーヒーを注ぎながら俺をジロリと見た。

「……別に。普通だろ」

 わざと短く答えて、俺は玄関へと向かった。

 中学までは近場の学校だったから自転車通学をしていたが、高校からは少しばかり遠くなった為、バスを乗って通うことになった。

 そして、その一番最初に乗るバス停は――雪城家のすぐ近くにある。

「今日、放課後は雪城さんのところだから。夕飯、少し遅くなる」

「あら、怜ちゃんのとこ? あんなに綺麗でいい子が先生なんて、ほんと一颯には勿体ないわねぇ」

 母の呑気な声を背中で聞き流し、俺は外に出た。春の朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。

 駅から離れたこの住宅街を通るバスは、本数が少ない。必然的に、同じ時間帯にバス停に立つ顔ぶれは固定される。

 案の定、いた。

 三軒隣、雪城家の門扉もんぴの少し先。

 電柱の影に、首元をタートルネックで完全にガードし、深く帽子を被った人物が立っている。

 怜さんだ。

 大学生の怜さんは、駅から電車に乗るためにこのバスを利用する。

 三年前のあの日から、俺の中で膨れ上がった正体不明の執着。俺はつとめて冷静に、足音を殺してその隣へと並んだ。

「……おはようございます、怜さん」

 低くなった自分の声を、これ以上ないくらいクールに響かせたつもりだった。怜さんはスマホから顔を上げ、帽子を少し持ち上げて俺を見上げる。

「ーーーーおっ、おはよう、一颯くん。……何や、今日からまた一段と大人っぽなったなぁ。制服、高二になったから新調したん?」

 怜さんが、ふっと目を細めて笑う。

 三年前と同じ、けれど三年前よりも少しだけ艶を帯びた、あの柔らかい関西弁。

「いえ、同じやつです。……体が大きくなっただけですよ」

「へぇ……。ほんまや、見上げるん疲れるくらい背伸びたなぁ」

 そう言って、怜さんはひょいと俺の隣に並び、あろうことか俺の腕に、自分の腕をぴたりと重ねて長さを比べ始めた。

「…………っ!」

 薄い制服の生地越しに、怜さんの体温が伝わってくる。春の冷たい空気が、一瞬で熱を帯びた。

「自分、もう『ええ子』やなくて『ええ男』やんか。これやったら、学校着いたら新学期早々モテまくって大変やろなぁ」

 からかうような視線。

 俺は動揺を悟られないよう、わざと視線をバスが来る方向へと逸らした。

「……別に、そんなんじゃないです」

 俺は動揺を悟られないよう、わざと視線をバスが来る方向へと逸らした。だが、怜さんは逃がしてくれない。俺の腕に重ねた自分の腕を解かないまま、さらに顔を覗き込んできた。

「……あ、もしかしてもう彼女とかおるん? 一颯くん、意外と隅に置けへんし」

「……っ、いませんよ、そんなの」

 食い気味に否定すると、怜さんは「あはは、元気やなぁ」と満足げに喉を鳴らした。三年前から何も変わらない。この人は、俺が必死に「男」を演じようとするほど、それを可愛い玩具おもちゃのように愛でてくる。

 ちょうどその時、アスファルトを震わせる低い音と共に、お目当てのバスが停留所に滑り込んできた。

 プシュー、という排気音。

 開いた扉から乗り込む際、怜さんは俺の背中をポンと叩いた。

「ほら、一颯くん、ぼーっとしてたら置いていかれるで」

 促されるままにステップを上がる。

 車内は、新学期初日ということもあって、近隣の高校に向かう生徒たちでそれなりに混み合っていた。だが運良く、後方の二人掛けの席が一つだけ空いている。

「一颯くん、座り。一颯くん、体大きいから立ってると邪魔やろ」

 そう言って、怜さんは俺を窓側の席へと押し込んだ。当然のように、怜さんはその隣――通路側の席に腰を下ろす。

 ――狭い。

 バスの座席は、高校二年生の俺の体格にはいささか窮屈すぎた。

 嫌でも左肩が怜さんの肩と触れ合う。

 怜さんは相変わらず深く帽子を被り、首元はタートルネックで守られている。なのに、隣から漂ってくるのは、春の湿り気を帯びた、あの甘い香水の匂い。

 エンジンの振動がシートを通じて伝わってくるたび、二人の距離が、数ミリ単位で揺れる。俺は前を向いたまま、膝の上に置いたカバンを握りしめる手に力を込めた。

「……怜さんは、大学、今日からですか」

 沈黙に耐えかねて、俺はなるべく低い、事務的なトーンで話しかけた。

「ん? ああ、自分は今日から。……あ、そうや。一颯くん、聞いてくれる?」

 怜さんが、座席の上で少しだけ体を俺の方へ傾けた。その際、帽子のつばが、俺の耳元をかすめる。

「自分、今度二十歳(はたち)になるやろ?……自分への誕生日プレゼント。一颯くん、何くれるんかなぁって」

「…………。俺が、ですか?」

「当たり前やん。自分ら、三年の付き合いやで?しかも、自分が二十歳になるっていう一生に一度の記念日なんやから。……まさか、『おめでとう』の一言で済ませるつもりやないよね?」

 怜さんが、悪戯いたずらっぽく俺の顔を覗き込む。至近距離で見つめるその瞳には、相変わらず性別を超越したような、吸い込まれそうな美しさがあった。

「……何がいいんですか。俺の小遣いで買える範囲なら、考えますけど」

「おっ、頼もしいなぁ。さすが『ええ男』は言うことが違うわ」

 怜さんは満足げに笑うと、今度はさらに声を潜めて、俺の耳元に唇を寄せた。

「……モノやなくて、時間でもええんやで?二十歳になった記念に、一颯くんと二人っきりで『大人』なこと、したろかなぁ……なんて」

「っ……!!」

 エンジンの振動とは違う震えが、俺の喉元までせり上がった。

「……そんな子供騙し、もう効きませんよ」

 俺はわざと視線を正面に固定したまま、これ以上ないほど冷ややかで、低い声を響かせた。心臓は今にも口から飛び出しそうなくらい跳ねているが、表情には一切出さない。ただの「近所の弟分」なら、今の言葉に顔を真っ赤にして狼狽えていただろう。だが、今の俺は高校二年生だ。これくらいの揶揄からかい、予測の範疇はんちゅうだ――。

(よし……。今のは完璧に返せたはずだ)

 内心でガッツポーズを作る。怜さんのペースを初めて崩せたかもしれないという、小さな勝利の予感。

 だが、隣からの反応は、予想に反して静かなものだった。

「……あ、そう。……そうやんな。もう、子供騙しやな。……ごめん」

 怜さんの声が、一瞬でトーンダウンした。

 いつもなら「あはは」と笑い飛ばすはずの人が、ふい、と顔をそむけてうつむく。帽子のつばで表情は見えないが、その肩がわずかに力なく落ちているように見えた。

「え……。あ、いや……」

 想定外の反応に、俺の「勝利宣言」は一瞬で霧散した。怜さんの、あんなに寂しそうな声は聞いたことがない。もしかして、この人なりに精一杯の歩み寄りを、俺が無下むげに踏みにじってしまったんだろうか。

「怜、さん……。すみません、そこまで言うつもりじゃ――」

 焦って、俺は思わず怜さんの肩に手を伸ばしかけた。その時。

「――なーんちゃって。一颯くん、ほんまに『ええ子』やなぁ!」

 パッと顔を上げた怜さんは、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべていた。寂しそうな空気なんて、欠片もない。

「っ……!!」

「あはは! 見てーや、今の自分の顔。必死に謝ろうとして、眉間にシワ寄せて。……ほんま、可愛い。全然『子供騙し』効いてるやんか。一颯くん、やっぱりまだまだやね」

 怜さんはお腹を抱えるようにして笑い、俺の太ももをパシパシと叩いた。

 ……まただ。

 また、この人の手のひらの上で、俺はあくせくと踊らされていた。

「……っ、笑いすぎです。……最低だ」

「ごめんごめん、あまりに反応が素直すぎて。……でも、嬉しいわぁ。そんなに心配してくれたんやね。一颯くん、自分のこと、大好きやんか」

 怜さんは笑いすぎたのか、少し潤んだ瞳で俺を見つめてきた。その距離、わずか数センチ。

 バスの走行音が、不意に遠のく。

   ☆ ☆ ☆

 走行音が変わり、バスが減速を始めた。

 前方に見えてきたのは、駅へと続く大きなロータリーの手前にある停留所。大学生の怜さんは、ここから電車に乗り換える。

「あ、自分、次で降りるわ」

 怜さんが停車ボタンを押した後、ひょいと立ち上がり、カバンを肩にかけ直した。さっきまでの悪戯っぽい笑みはどこへやら、今はもう「大学へ向かう大人」の顔に戻っている。その切り替えの早さに、俺は取り残されたような焦燥感を覚えた。

 プシュー、という音と共に扉が開く。

 怜さんはステップを降りる直前、通路側に座る俺の方へくるりと振り返った。

「一颯くん」

 不意に名前を呼ばれ、俺は背筋を伸ばした。

 怜さんは帽子のつばを少し上げ、俺の耳元へ顔を寄せる。バスの乗客たちの視線なんて、まるで見えていないかのような大胆な距離。

 鼻を掠める、あの甘い香り。

「……今日からまた放課後、一緒に帰れるの楽しみにしてるで」

「…………っ!!」

 怜さんが降りた後、一気に静まり返った(ように俺には感じられた)車内に揺られること十数分。高校の最寄りのバス停で、俺は逃げるように車外へと飛び出した。

 アスファルトに足を下ろすと、ようやく現実の温度が戻ってくる。だが、脳裏にはまだ、耳元を揺らしたあの甘い関西弁がこびりついて離れない。

「――よっ、一颯! お前、何ボーッとしてんだよ。降りる時、足元ふらついてたぞ」

 背後からいきなり肩を叩かれ、俺の心臓は今日何度目かの跳ね上がりを見せた。振り返ると、そこには中学からの腐れ縁である上条翼が、ニカッと白い歯を見せて立っていた。

「……なんだ、翼か。驚かすなよ」

「驚く方がおかしいだろ。……っていうかお前、新学期早々、なんでそんなに疲れ果てた顔してんだ? まだ一限も始まってねーぞ」

 翼は呆れたように俺の顔を覗き込んできた。こいつは中学の頃から俺の私生活に遠慮なく首を突っ込んでくる。そして、必然的にあの人の存在も知っている。

「……別に、疲れてない。ただ、少し寝不足なだけだ」

「嘘つけ。どうせまた、さっきまでバスで、ずーっと一緒だったんだろ?雪城さんと。……相変わらず、お前ら二人の距離感はバグってんなぁ」

「バグって……、そんなんじゃない」

 翼は俺の肩に腕を回し、歩き出しながらニヤニヤと笑った。

「いや、バグってるって。端から見てみろよ。高二のイケメンが、バスの一番後ろで二十歳前の美人に耳元で囁かれて、顔真っ赤にして突っ伏してるんだぞ? 周りの女子、みんな『あの人誰!?』って顔で見てたわ」

「……見てたのかよ」

「おう、俺は一つ前のドアから乗ってたからな。声をかけようと思ったけど、あまりの密室空間に、お邪魔虫は退散しましたーって感じだわ。で、今度は何て言われたんだ? また『ええ子やね』か?」

 翼の言葉に、俺は返答にきゅうした。

 今朝の別れ際。耳元で囁かれた『一緒に帰れるの楽しみにしてるで』と言われたなんて、こいつに言えるわけがない。

「……なんでもない。ただの世間話だ」

「ふーん? その割には、お前の制服から雪城さんの香水の匂いがプンプンすんだけど。……お前、この匂い染み付いたまま教室入るつもりか?女子全員、卒倒そっとうするぞ」

 翼に言われて、俺はハッとして自分の肩のあたりを嗅いだ。……かすかに、けれど確実に。あの人が隣に座っていた痕跡が、春の湿り気と共に俺の生地に残っていた。

「っ……、これ、どうにかして消せないか」

「無理だろ、それ。……まぁ、新学期の挨拶代わりに『春休みの内に彼女できました』ってアピールには最高なんじゃねーの?」

「彼女じゃないって言ってるだろ!」

 声を荒らげる俺を見て、翼は「はいはい、わかってるよ」と軽くいなした。校門をくぐると、新しいクラスを確認するために人だかりができていた。

 喧騒けんそうの中で、女子生徒たちの視線がこちらに向くのがわかる。

 自分では気づいていないが、今の俺は、あの人に翻弄まどわされている動揺を隠そうとするあまり、いつもより余計に表情を険しく、大人びさせていた。

「(見て、日向くんだ。やっぱりカッコいいね……)」

「(でも、なんか今日、いつもより怖くない? 誰か怒らせたのかな)」

 周囲の囁きすら、今の俺には遠い雑音に過ぎなかった。頭の中にあるのは、あと数時間後に訪れる「放課後」という名の再戦のことだけだ。

「あ、あった! 一颯、お前今年も俺と同じだ。こりゃ完全に腐れ縁だな!」

 翼が満足げに俺を振り返る。俺は「……またかよ」と短く毒づきながら、翼が指差す二組の名簿に視線を走らせた。

「結構、去年と同じやつも居るみたいだな」

 俺は名簿めいぼを上からなぞりながら、無機質に言葉を返した。

「そうみたいだな。お、白石もいるじゃねえか。これで中学からずっと一緒かよ」

 翼が名簿の一点を指差す。

 白石小春。中学からの同級生で、去年も同じクラスだった。おとなしくて可愛い系として男子の間で人気があるが、俺にとっては「よく知っているクラスメイト」の一人だ。

「白石……。ああ、」

 その名を頭の中で反芻はんすうしようとした、その時だった。

「――ちょいちょい、日向ひゅうが! 今、完全に私のこと忘れてたよね!?」

 背後からいきなり右肩を掴まれ、抗議の声を浴びせられた。振り返ると、そこには頬をぷくっと膨らませて俺を見上げている白石小春がいた。春の日差しを浴びて、彼女の少し茶色い髪がふわふわと揺れている。

「……白石か。いや、……悪い」

 反射的に謝罪が口をついて出ると、白石は呆れたように肩をすくめた。

「認めるんかい!! せめて『そんなことないよー』とか言って否定してよ。一応、一年の時は隣の席だった時期もあったんだよ?てか同中!!」

「あはは、まぁしょうがないだろ。一颯いぶきだし」

 翼が助け舟を出すように、ニヤニヤしながら俺の肩に腕を回してくる。俺は「……うるさい」とだけ返して、白石の追及から逃げるように校舎へと歩き出した。

 周囲の連中は、俺たち三人が親しげに話しているのを見て「やっぱりあのメンツか」というような視線を送ってくる。だが、俺の意識の半分は、まだバスの中にある。

 怜さんの、あの吐息のような囁き。

 それから、俺の制服に染み付いた、あの人を証明するような甘い匂い。俺が雪城さんのことを話しているのは、中学からの親友である翼だけだ。白石には、俺の母さんがただの「近所のお姉さん」に家庭教師を頼んでいる、程度にしか伝わっていないはずだ。

「ねぇ、日向。聞いてる?」

 歩調を合わせて横に並んだ白石が、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。

「……なんだよ」

「今日、学校終わったらみんなでカフェ行かない? ほら、駅前に新しくできたところ。クラス替えのお祝いってことでさ!」

 白石の誘いに、俺の足がわずかに止まる。

 普通なら、ここで快諾しょうだくして新しいクラスのスタートを祝うのが「正解」なんだろう。

 けれど、今日の俺には、そんな余裕なんて欠片かけらもなかった。

「……悪い。今日は先約があるんだ」

「えー、また雪城さんのところ? 日向、本当に真面目だよね。新学期初日からお勉強なんて」

 白石は「残念」と言いながらも、どこか楽しげに笑っている。その曇りのない笑顔に、俺は少しだけ罪悪感に似たものを覚えながら、早足で二組の教室へと向かった。

 教室に着いてからと言うもの、新学期初日にやる事と言えば担任の挨拶、次の日からの初回授業の予定の確認、そして簡単清掃などと簡単なことだけだった。

   ☆ ☆ ☆

「簡単清掃って、本当に楽でいいよな。明日もこれならいいのにな」

 上条は自分の机の周辺のほこりを拾う。

「そればっかりはお前に同感だ」

「だよなー、直ぐに帰れるから楽だし…。あ、でもお前今日は早帰りって雪城さんに伝えてあるのか?」

「あ、」

 思わず声が漏れた。

 そうだ。怜さんには今朝のバスで「放課後楽しみにしてる」とは言われたが、具体的な時間の約束まではしていない。新学期初日がこんなに早く終わるなんて、あの人は計算に入れていただろうか。

「……忘れてた。適当に駅内で時間を潰してから行くか、それとも――」

「それとも、お前から大学の方に行って『来ちゃいました』って甘えるか、だろ?」

 翼がニヤニヤしているので、俺は頭を叩いた。

「……イテっ!」

 翼の軽い揶揄からかいをいなし、俺は手早く清掃を済ませた。教室の隅では、白石たちが「この後どうする?」とまだ楽しげに話している。一瞬だけ白石と目が合ったが、俺は小さく手を挙げて挨拶を済ませると、逃げるように教室を飛び出した。

『今日、新学期だったから午前中で終わった。駅で時間潰してる』

 送信ボタンを押してから、スマホをポケットにねじ込む。

 ガタゴトと揺れるバスの窓に映る自分の顔は、相変わらずどこか余裕がない。駅に着くと、俺は吸い込まれるように駅ビル内のカフェへと向かった。新学期初日を謳歌おうかする他校の生徒や、ノートパソコンを広げるビジネスマンたちで賑わう店内。俺は一番端の、目立たないカウンター席を確保した。

 アイスコーヒーのストローを回しながら、ポケットの中でスマホが震えるのを待つ。

 数分後。

 短い振動と共に、画面に通知が表示された。

『ほんま? 一颯くん、行動早いなぁ。自分も今、大学の講義終わったとこ。今から駅向かうから、そこで待ってて。約束通り一緒に帰ろ?』

 スマホの画面を見つめたまま、俺は喉の奥で小さく息を吐いた。朝、あの人が降りる直前に耳元で囁いた言葉。

『今日からまた放課後、一緒に帰れるの楽しみにしてるで』

「怜さん…」

 画面に表示された『約束通り一緒に帰ろ?』という文字を、俺は何度もなぞった。たったそれだけの言葉なのに、心臓がうるさく跳ねる。朝、バスを降りていくあの人の背中を見送った時の、あの取り残されたような焦燥しょうそう感が、今は心地よい期待感へと書き換えられていた。

 これが一体どういう感情なのか、なぜ俺はこれほどまでに期待しているのか。自分でも未だによく分からない。ただ、あの人の言葉一つで自分の世界の温度が変わる。その事実だけが、今の俺を支配していた。

 俺は残っているコーヒーを、時間をかけてゆっくりと飲む。冷めた苦味が、少しだけ昂った頭を冷やしてくれるような気がした。

 ーーーー10数分ほど経った頃だろうか。カフェの自動ドアが開き、聞き覚えのある、あの心地よい響きが店内に届いた。

「一颯くん、お待たせ!待たせてごめんなぁ」

 深く被った帽子とタートルネック。朝と同じ、徹底して自らを隠した姿のあの人が、俺の席を見つけて歩み寄ってくる。

 短く切り揃えられた髪、形の良い薄い唇。男とも女ともつかない、けれど誰よりも完成されたあの人の美しさは、駅の喧騒の中でも異彩を放っていた。

「別に、いうほど待っていないので気にしないでください」

 俺はなるべく平坦な声を出し、カバンを手に取って立ち上がった。

「そう? なら良かったわ。あ、自分もコーヒー買ってきてもええ? この後の授業で寝てしもたら大変やし」

「構いませんよ」

 あの人はそう言うと、レジの列へと並んだ。

 コーヒーを買いに行ったのは、この後の俺への家庭教師の際に寝ないようにという、カフェイン摂取のためだ。

 この人はいつだって真剣だ。揶揄からかうような素振そぶりを見せることはあっても、いざ机に向かえば、俺の理解が及ばない部分を的確に、粘り強く教えてくれる。

 俺もまた、それにこたえたいと思っている。この人に「教え甲斐がいがある」と思われたい。その一心で、俺は予習も復習も欠かしたことはない。

 だから、これはあくまで「授業」だ。

 変な期待なんて抱く必要はないし、抱いてはいけない。一秒でも長く、あの人の持つ知識と、あの人の思考を吸収すること。それが今の俺にできる唯一の「誠実さ」だ。

 ……そう自分に言い聞かせ、必死に理性の壁を築いているというのに。

「一颯くん、何そんなに怖い顔して歩いてんの。せっかく一緒に帰ったげてるのに、自分、損した気分やわぁ」

 不意に、この人は歩調を緩めて俺の隣に滑り込んできた。

 手に持ったコーヒーからは、焙煎ばいせんされた豆の香ばしい匂いが立ち上っているはずだ。なのに、俺の鼻腔びくうを突くのは、それらを容易に上書きしてしまう、怜さん特有の甘い香りだった。

 高校二年生という、子供以上成人未満のこの絶妙な年齢が、この人にとっては最高に「揶揄からかいがいのある玩具おもちゃ」なのだと思い知らされる。

「一颯くん、何そんなに怖い顔して歩いてんの。せっかく一緒に帰ったげてるのに、自分、損した気分やわぁ」

 少しだけ首を傾けて、俺の顔を覗き込んでくる。帽子のつばで影になった瞳が、悪戯っぽく光った。

「……別に、怖い顔なんてしてません。次の単元の予習を思い出していただけです」

「嘘やん。眉間にシワ寄ってたで? そんなに根詰めんでも、家帰って二人きりになったら、たっぷり『教えて』あげるから。……ほら、バス来たよ」

 そう言って、この人は俺の腕を軽く叩いて、先にステップを上がっていく。

 二人きり。その言葉の響きが、俺の築いたはずの「誠実さ」という防壁を、足元から音を立てて崩そうとする。

 怜さんは分かっているのだ。

 俺がどれだけストイックに振る舞おうとしても、この人が少しだけ境界線を踏み越えてくるだけで、俺の余裕なんてものは、簡単に霧散してしまうということを。

 住宅街へと向かうバスに乗り込むと、昼時なのもあってか、運よく並んで座れた。だが、座席の幅は高校生の俺の体格には窮屈で、嫌でも隣に座る怜さんの体温が伝わってくる。

 俺は前を向いたまま、膝の上のカバンを握りしめた。

「一颯くん」

 不意に名前を呼ばれ、俺は背筋を伸ばした。怜さんはコーヒーを一口飲み、少しだけ潤んだ唇を舌でなぞる。

「……なんですか」

「今日、学校で変な虫とかつかへんかった? 一颯くん、えらい男前やし。まだ新学期初日やけど、先生、えらい心配やわ〜」

 耳元で、吐息といきとともに紡がれたその言葉。

 『先生』。

 この人が自らをそう称するたび、俺が必死に築き上げたはずの「冷静な教え子」という仮面が、内側から熱を持って溶けそうになる。

「……何、自分を先生扱いしてんですか。らしくないですよ」

 俺はわざと視線を正面の窓に固定したまま、鼻で笑うようにしてあしらった。春の明るい日差しが差し込む窓ガラスには、自分の耳が微かに赤くなっているのが鮮明に映り込んでいて、俺は慌てて目を逸らした。

「えー、何やその言い草。自分、傷つくわぁ」

 怜さんは大げさに肩をすくめてみせたが、その瞳には依然いぜんとして、俺の動揺を楽しむような余裕の色が浮かんでいる。

「だって、家庭教師なんやし。事実、自分は塾講師のバイトもしてるしね。……一颯くんにとっては、立派な先生やろ?」

 何気ない会話の体裁ていさいをとっているが、その響きにはあらがいがたい説得力があった。

 確かにこの人は、去年から俺の理解が及ばない領域を常に照らし、導いてきた先駆者だ。塾講師としての顔を持つ怜さんの知性は本物で、その前では、俺の「男」としての虚勢なんてものは、まるで児戯じぎに等しい。

「……そうですけど。自分で言うのはどうかと思います」

「あはは、ほんまに可愛げないなぁ。……でも、そういう真面目なとこ、嫌いやないで」

 怜さんは満足げに喉を鳴らすと、手にしたコーヒーを最後の一口まで飲み干した。

   ☆ ☆ ☆

 バスを降りてから、静かな住宅街を歩く。俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。午後一番の、まだ少しだけひんやりとした春の空気が通り抜け、隣を歩く怜さんの上着をわずかに揺らす。

 三軒隣という近すぎる距離。

 怜さんの家の門扉を横目に通り過ぎれば、すぐそこに俺の家――日向家が見えてくる。

「……今日は早めに終わったから、たっぷり時間あるね。一颯くん、覚悟しときや?」

 門扉もんぴを開けながら、怜さんが不敵に笑う。

「……望むところです」

 俺は制服のポケットから家の鍵を取り出し、シリンダーに差し込んだ。カチリ、という乾いた金属音が静かな住宅街に小さく響く。

 扉を開けると、そこには誰もいない家特有の、ひんやりとした静寂が横たわっていた。母さんはまだパートから戻っていないようだ。

「……お邪魔します、とは言わなくていいんでしたっけ」

 俺が鍵を抜きながら背中越しに問いかけると、怜さんは当然のように俺の後に続いて玄関に足を踏み入れた。

「自分の教え子の家やしね。……お邪魔しまーす」

 玄関の扉が閉まると同時に、俺の家の日常の匂いの中に、怜さんが連れてきたあの甘い香りが混ざり込んだ。

 外の世界から切り離された、二人きりの空間。

 母さんが帰ってくるまでの数時間は、この家には俺と、この人しかいない。

 怜さんはリビングを通り過ぎ、慣れた足取りで二階にある俺の部屋へと向かった。部屋に入った途端、怜さんは真っ先にあの深い帽子を脱ぎ捨て、学習机の椅子に腰を下ろす。

「――ぷはぁ、生き返るわぁ。やっぱりずっと顔隠して歩くのは肩凝るねん」

 そう言って、怜さんは首元を固く守っていたタートルネックの襟元に指をかけ、少しだけ外側に広げるようにして、溜まっていた熱を逃がした。

 わずかに覗く首筋のラインは、白く、それでいてどこか硬質だ。けれど、そこにあるはずの「答え」――喉仏の有無を確かめられるほど、怜さんは無防備ではない。顎を引けばすぐに隠れてしまうその絶妙な境界線を、この人は無意識か計算か、常に保ち続けている。

 窓から差し込む午後の光が、短く切り揃えられた髪の輪郭を鋭く照らし出す。

 男とも女とも判別のつかない、けれどこの世の何よりも美しいと確信させるその造形。自分の部屋という逃げ場のない密室で、薄いヴェール一枚隔てたような距離にその存在を感じると、俺はいつも視線の置き場に困り、逃げるようにカバンを置く。

 怜さんはいつの間にか薄いフレームの眼鏡をかけ、俺の机に資料を広げていた。

「一颯くん、何ぼーっとしてんの。座り。今日は春休み明けのテスト対策と、数IIの予習から入るで」

 その声には、先ほどまでの「揶揄からかい」の温度はもうない。

 一切の妥協を許さない、真実『先生』としての怜さんがそこにいた。

「……分かってます。予習は済ませてあります」

 俺は背筋を伸ばし、予備の丸椅子を机の横に引き寄せ、腰を下ろした。

 怜さんとの距離、わずか数十センチ。

 部屋に響くのは、規則正しい時計の秒針と、ノートを走るペンの音だけだ。

 怜さんは時折、俺が解いている途中の数式を横から覗き込み、短く「……ん」と頷いたり、黙って指先で数値を追ったりしている。

 怜さんの指導は鋭い。

 解法を丸暗記させるような真似は絶対にせず、なぜその一歩が必要なのかという論理の根幹を、俺が納得するまで徹底的に突き詰めてくる。その知性の鋭利さに触れるたび、俺は自分の未熟さを突きつけられるようで、同時に言いようのない高揚感を覚える。

「一颯くん。ここ、さっきの公式の応用やけど、なんでこの形になるか説明できる?」

 不意に怜さんがノートの余白を指差し、こちらを向いた。眼鏡の奥にある瞳が、試すように俺を捉える。

「……それは、さっきの項を移項して……いえ、まず係数を揃えるべきでした」

「正解。焦らんでええよ、一颯くんの悪い癖やね。頭の回転に手が追いついてへん」

 怜さんがクスリと笑い、俺の手に持っていたペンを軽く指先で叩いた。その拍子に、あの人特有の甘い香りが、一瞬だけ強く鼻腔を掠める。コーヒーの苦い匂いと、春の陽だまりのような微かな体温。

 二ヶ月後には、この人は二十歳になる。

 成人という明確な境界線を越えるその時まで、俺はどれだけこの人に近づけるだろうか。

 今の自分にできるのは、ただひたすらに牙を研ぐこと。一秒でも長く、この人の知性に食らいつき、認めさせること。

「……次は、間違えません」

「ふふ、ええ返事や。ほな、次の大問行こか。ここ、ちょっと手強いで」

 怜さんは満足げに頷くと、再び参考書に視線を落とした。窓から差し込む午後の光が、ゆっくりと床を這って、俺たちの足元を照らし出していく。

   ーーー

 それから一時間ほど、俺たちはほとんど言葉を交わさずに問題と向き合った。部屋に響くのは、怜さんの論理的な解説と、俺が思考を形にするペンの音。そして、春の静かな昼下がりを刻む時計の秒針の音だけだ。

 怜さんの指導は、相変わらず容赦がない。

 俺が少しでも甘い推論を立てれば、即座にその矛盾を突き、正解へと導く最短のルートを提示してくる。その鮮やかさに、俺は悔しさを通り越して、ある種の陶酔とうすい感すら覚えていた。

「……ふぅ。一颯くん、ここらで一旦休憩にしよか。集中しすぎて、自分、呼吸忘れてるんちゃう?」

 怜さんがパタン、と参考書を閉じ、椅子の背もたれに深く体を預けた。眼鏡を外し、眉間を軽く揉むその仕草。知性の塊のようだった「先生」の顔から、少しだけ温度のある「怜さん」の顔に戻る瞬間だ。

「……そうですね。少し、詰め込みすぎました」

 俺もペンを置き、凝り固まった肩を回す。

 怜さんは机に肘をつき、手首で顎を支えながら、俺の部屋をぐるりと見渡した。

「一颯くん、さっきから自分のこと、えらい観察してるなぁ。……何? 私の顔に数式でも書いてある?」

 怜さんが悪戯っぽく俺を覗き込む。

「……いえ、そういうわけじゃ。ただ、怜さんは……」

 言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。

 三年前、隣の家に越してきたこの人と初めて会ったあの日から、俺はこの問いを何度も口にしてきた。そしてその度に、今の目の前にあるような、煙に巻くような笑顔であしらわれてきたのだ。

「『ほんまに、どっちなんですか?』……って訊きたいんやろ? 相変わらず一颯くんは分かりやすいなぁ」

 俺の心中を完璧に言い当てた怜さんの言葉に、心臓が跳ねる。

 怜さんは机に身を乗り出し、俺との距離をさらに詰めた。コーヒーの残り香と、あの甘い香りが、部屋の空気ごと俺を飲み込もうとしている。

「男やと思えば、頼りがいのある兄貴分になれるし。女やと思えば……もっと違う関係も想像できるんちゃう?」

 何度も聞かされてきた、聞き飽きるほどに魅力的な回答。けれど、高校二年生になった今の俺には、その言葉が以前よりもずっと鋭い棘を持って刺さる。

「っ……また、そうやって。からかわないでください」

 俺が反射的に椅子を引いて顔を逸らすと、怜さんは「あはは!」と子供のように無邪気に笑った。

「ごめんごめん。でも、答えを一つに決めてしもたら、面白くないやん? 想像の余地がある方が、勉強も人生も楽しいで。……三年前から、自分はなーんも変わってへんよ」

 そう言って笑う怜さんは、やはり捉えどころがない。けれど、そうやって俺を翻弄する時の瞳は、春の陽光を反射して、残酷なほどに綺麗だった。

「一颯くん、喉乾いたやろ。自分、一階で何か飲み物もらってきてもええかな。お母さん、まだ帰ってきはらへんのやろ?」

「あ、はい。……いや、俺が行きますよ」

「ええよ。自分、ずっと座りっぱなしやったから少し歩きたいし。……一颯くんはベッドに横にでもなって、ゆっくり休んでてや」

 怜さんはひょいと丸椅子から立ち上がると、反論を許さない軽やかな足取りで俺の部屋を後にした。

 パタン、とドアが閉まる。

 一人残された部屋で、俺は言われた通りベッドに体を投げ出した。

 二時間近く、極限の集中状態で数式と格闘していた反動か、安物のマットレスに沈み込んだ瞬間に、強烈な睡魔が襲ってきた。

 階下かいかからは、冷蔵庫を開ける音や、グラスが触れ合う音が微かに響いてくる。

 普段の、なんてことのない自分の家の生活音のはずなのに、怜さんがそこにいるというだけで、どこか別の場所を覗き見ているような――そんな不思議な感覚に包まれながら、俺の意識は急速に遠のいていった。

   ☆ ☆ ☆

 どれくらい時間が経っただろうか。

 カチャ、と小さな音を立ててドアが開く気配で、意識が微かに覚醒した。重いまぶたを動かそうとしたが、心地よい倦怠感(けんたいかん)がそれをこばむ。

 机に置かれたグラスの、氷が溶ける涼やかな音。そして、先ほどよりもずっと近くで漂う、あの甘い香り。怜さんは戻ってきたはずなのに、俺を起こそうとはしなかった。

 代わりに、ベッドの端に腰を下ろしたのか、わずかにマットレスが沈む感触が伝わる。

 至近距離で、誰かの視線を感じる。

 怜さんはベッドの横に両腕を組み、その上に顎を乗せて、俺の寝顔をじっと覗き込んでいるようだった。

「……ふふ、ほんまに」

 耳元で、羽毛が触れるような掠れた声が響く。それは、机に向かっている時の峻烈しゅんれつな『先生』の声でも、俺を翻弄まどわす時の意地悪な声でもなかった。

「……かわいいなぁ、一颯くん」

 慈しむような、それでいてどこか熱を帯びた独り言。

 一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。起きて問い詰めなければならないのに、今の言葉を聞いてしまったことを悟られるわけにはいかない。俺は必死に寝たふりを続けながら、カアッと熱くなる顔をどうにか収めるしかなかった。

「……もう少し寝かせてあげよか」

 怜さんが小さく呟く。マットレスが沈んだまま、あの甘い香りがさらに近くに留まった。

 ――いや、寝れるか!

 俺は心の中で絶叫した。耳元であんなこと言われて、至近距離で監視されているような状況で、どうやって眠りに戻れと言うんだ。心臓の音がこの人に聞こえてしまうんじゃないかと、そればかりが気になって気が気じゃない。

 数分間、静まり返った部屋に二人の呼吸音だけが重なる。一秒が永遠のように長く感じられた。けれど、不意に隣から聞こえてくる呼吸の質が変わった。

 規則正しく、深く、静かな寝息。

 ……嘘だろ。

 俺は恐る恐る、薄く目を開けた。

 案の定、怜さんはベッドの横で両腕を組み、そこに顎を乗せた姿勢のまま、こっくりと眠りに落ちていた。大学の講義と家庭教師の掛け持ち、その上、塾講師としてのバイトもある。この人もしっかり疲れていたんだろう。

 俺は物音を立てないよう慎重にベッドから降りた。

 目の前には、無防備すぎる怜さんの寝顔。さっき、この人は俺のことを「かわいい」と言った。けれど、そんな言葉、そっくりそのまま返してやりたい。

 机に置いてある参考書の山、そして俺を見守るために身を乗り出したまま眠ってしまったその姿。俺は自分の椅子に座り直すこともできず、とりあえずその横に静かに胡座をかいて座り込んだ。視線の高さが、眠る怜さんと重なる。頬に手をつき、至近距離からその横顔をじっと見つめた。

整いすぎた鼻筋。薄い唇。

 三年間ずっと隣にいて、一番近い生徒として過ごしてきたはずなのに、この人の核心にはどうしても指が届かない。

(タートルネックの下……本当は、どうなってんだろうな)

 一度気になりだすと、もう止まらなかった。

 さっき、怜さんが自分で襟元を緩めた時の、あの白く細い首筋の残像が脳裏に焼き付いている。もし、ここに喉仏がなければ。あるいは、はっきりと男の証が刻まれていたとしたら。

「……少しだけ」

 自分でも驚くほど小さな声で呟き、俺はゆっくりと右手を伸ばした。震える指先が、怜さんの黒いタートルネックのふちに触れるか触れないか、というその時。

 不意に、怜さんの睫毛まつげが震えた。

「――んっ……」

 俺が息を呑むより早く、怜さんの瞳がカッと開いた。

 焦点が合うまでのわずかな空白の後、怜さんはまばたきもせずに目の前にいる俺と、空中で止まったままの俺の右手を見つめた。

「……あれ? 一颯くん、いつ起きたん?」

 寝起きの、少しだけかすれた大阪弁。

 怜さんは姿勢を崩さないまま、首を傾げて俺の目を見つめ返してくる。そして、俺が言い訳を探して固まっていると、怜さんの視線がスッと俺の右手に落ちた。

「……なぁ、その右手は何しようとしてたん?」

 唇の端が、意地悪く吊り上がる。

 完全に、見抜かれている。

 心臓が喉から飛び出しそうなほどの鼓動を刻み、俺は伸ばした右手をどう引っ込めればいいのか分からず、ただ呆然と怜さんの射抜くような瞳に釘付けになった。

「……いえ、その。……ゴミが、付いてるかと思って」

 やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。

「ふーん、ゴミねぇ。そんな真剣な顔して取るもんやった? それとも……中、見たかったん?」

 怜さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、俺を試すように覗き込んでくる。その余裕が、今の俺にはどうしようもなくしゃくだった。

「冗談やん。そんなに赤ならんでもええ……」

 怜さんが言い切るより先に、俺の体が動いていた。

 床に胡座をかいていた体勢のまま、俺は怜さんの両肩を掴み、背後の床へと押し倒した。

「……っ!?」

 ドサリ、と鈍い音がして、怜さんの細い体が畳の上に沈む。あまりの衝撃に、怜さんは驚き、目を見開いている。その顔を、俺は上から組み伏せるようにして見下ろした。

「一颯、くん……?」

 初めて、あの余裕たっぷりの関西弁に戸惑いが混じる。至近距離で重なる視線。怜さんの首元、俺の指先が触れているタートルネックの生地越しに、驚きで速まった相手の鼓動が伝わってくる。

「……見たい、です」

 俺の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。

 三年間、ずっと翻弄され続けてきた。子供扱いされ、性別すら煙に巻かれ、それでもこの人のそばにいたかった。

 けれど、さっきの「かわいいなぁ」という独り言を、寝たふりをして聞いてしまった瞬間に、俺の中の何かにヒビが入ったのだ。

「……ゴミとか、そんなの嘘です。怜さんがどっちなのか……俺、確かめたい」

 掴んだ肩に力を込めると、怜さんの喉がひくりと動いた。いつもなら「何言うてんねん」と笑い飛ばすはずのこの人が、今はただ、俺の瞳の奥にある熱に当てられたように、唇を震わせて黙り込んでいる。

 西日に照らされた部屋の中で、俺の手が、静かに、けれど拒絶を許さない力でタートルネックの襟元えりもとへと伸びた。

 その時だった。

 ――ガチャン、と。

 一階の玄関で、静寂を切り裂くような重い金属音が響いた。

「ただいまー! 一颯、怜ちゃん、まだ勉強中?」

 一階から響く母さんの声が、冷水のように俺の頭を冷やした。俺ははじかれたように怜さんの体から手を離すと、転がるようにして床に手をついた。

「っ……す、すみません! 違うんです、俺……」

 心臓が耳のすぐ横で鳴っているかのようにうるさい。自分が何をしようとしたのか、その事実に今さら震えが止まらなくなった。必死で頭を下げ、焦燥に駆られながら謝罪の言葉をつむぐ。

 一方、怜さんはゆっくりと身を起こすと、意外にも優しい目で俺のことを見た。

「……あ、あかんわ。自分も、ちょっと揶揄いすぎたな」

 そう言って顔を向けた怜さんの頬は、見たこともないような朱色に染まっていた。いつもの意地悪な余裕なんてどこにもない。視線を彷徨さまよわせ、気まずそうに自分の首元のタートルネックを整えるその仕草は、どこからどう見ても、年相応の……あるいは、もっと幼い一人の「人間」の反応だった。

(……なんで、そんな反応するんだよ)

 俺は心の中で毒づいた。

 いつものように「一颯くんにはまだ早いわ」と笑い飛ばしてほしかった。それなのに、そんな風に頬を赤らめて照れられたら、俺はもう、この人をどう見ればいいのか分からなくなる。

 階段を上がる母さんの足音が近づいてくる。

「怜ちゃん、入るわよー」

 その声と同時にドアが開いた。俺は咄嗟とっさに床に落ちていたペンを拾うふりをして、怜さんから距離を取る。

「は、はい! お邪魔してます、夏美さん!」

 怜さんはパッと背筋を伸ばし、一瞬で「優秀な家庭教師」の顔を作った。その驚異的な切り替えの早さに、俺はただ圧倒されるしかなかった。

「はい、差し入れ。怜ちゃん、いつも一颯の面倒見てくれてありがとうね」

 夏美さんは盆に乗せたお菓子を机に置きながら、俺たちの顔を交互に見た。

「あら? 一颯、なんだか顔が真っ赤じゃない。怜ちゃんにサボろうとして怒られたりした?」

「あはは! まさか、逆ですよ。一颯くん、今日もえらい熱心に質問してくれはって。自分もちょっと熱入ってしもたんです」

 怜さんは何食わぬ顔で、けれど少しだけ掠れた関西弁でそう答えた。

 母さんは「あらそう、良かったわ。怜ちゃんみたいな子が近くにいてくれて本当に助かるわ。一颯、ちゃんと怜ちゃんの言うこと聞くのよ」と、娘のように怜さんを慈しむような視線を向けてから、満足げに部屋を後にした。

 ドアが閉まり、再び二人きりになる。

 けれど、もう先ほどのような濃密な空気は戻ってこなかった。

「……一颯くん、今日はここまでにしよか」

 怜さんが、まだ微かに朱の残る頬を隠すようにパッと立ち上がると、手際よく資料を鞄に詰め込んだ。その動作はいつになく速く、俺と視線を合わせるのを避けているのは明らかだった。

「自分、この後ちょっと大学の課題もあって。……次までに今日言ったところ、しっかり復習しといてな」

 最後だけ「先生」らしい口調で俺に釘を刺すと、怜さんは逃げるように部屋を出ていった。一階へ降りると、リビングにいた母さんの声が聞こえてくる。

「あら、怜ちゃん、もう帰っちゃうの? 夕飯食べていけばいいのに」

「すみません、夏美さん。今日はこのまま失礼します。……また、次は明後日(あさって)ですね」

「そう? 残念だわ。……一颯! 怜ちゃんを家まで送ってあげて。女の子を一人で歩かせるんじゃないわよ」

「……わかってるよ」

 俺は重い腰を上げ、まだ熱の冷めない体を動かして玄関へと向かった。

 外に出ると、夕暮れ時の涼しい風が火照った頬に心地よく当たった。三軒隣。距離にしてわずか数十メートル。街灯の下を歩く怜さんの背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。

「……一颯くん」

 怜さんの家の門扉もんぴの前で、怜さんは振り返らず、帽子を目深まぶかに被り直して、低い声で俺を呼んだ。そして、予想外の質問をされた。

「さっきの……『見たい』って言ったの……本気やったん?」

 正面を向いたままの怜さんの声は、静かに、けれど逃げ場を塞ぐように俺に問いかけていた。沈みかけた夕日が、怜さんの輪郭を逆光で縁取っている。

 手のひらに残る怜さんの肩の感触が、俺に嘘をつくことを許さなかった。

「……本気じゃなきゃ、あんなことしません」

 俺の言葉に、怜さんの肩がわずかに揺れた。

 ゆっくりとこちらを振り向いた怜さんの瞳は、夕闇が混じり始めた空の色を映して、吸い込まれそうなほどに深く澄んでいる。

「……それ、本気で言うてんの? 自分が思ってるような『答え』やなかったとしても?」

 怜さんはふっと目を細め、一歩、俺との距離を詰めた。あの甘い香りが、夕暮れの風に乗って鼻腔をくすぐる。

「もし、このタートルネックの下にあるんが、一颯くんが期待してるようなもんやなくて……自分と同じ『男』の印やとしても。それでも、見たいって言えるん?」

 真っ向から投げかけられた、残酷なまでの問い。

 怜さんは相変わらず男性である可能性も匂わせながら、同時に俺の「男」としての器を試すように、射抜くような視線を向けてくる。

 俺は、その瞳から目を逸らさなかった。

「……それでも、見たいです。怜さんがどっちであっても、俺が怜さんを見ていることに変わりはないから」

 青臭い台詞だとは思ったが、それが今の俺のいつわらざる本心だった。

「……ふふ、ほんまに。一颯くんは、期待以上に『ええ男』になろうとしてるんやね」

 怜さんはそう呟くと、ふっと自嘲気味に、けれど愛おしむように微笑んだ。そして、俺が何かを言いかける前に、その細い指先を俺の唇にそっと当てた。

「……でも、答えを教えるんは、一颯くんがもっと大人になってからやで。……それまで、自分に飽きんといてな?」

 唇に残ったのは、指先のわずかな熱と、あの甘い香りの残滓ざんしだけ。

「またな〜、一颯くん。明日もバス停で待ってるで」

 ……またな、か。

 どこか意識的に「いつもの調子」をよそおうような、少し語尾を伸ばした軽い挨拶。怜さんは流れるような動作で門扉もんぴを開け、一度も振り返ることなく家の中へと消えていった。

 残された俺は、夕暮れの静寂の中で、自分の心臓の音だけを数えていた。

 三年前から、この胸のざわつきを俺は「正体不明の執着」だと自分に言い聞かせてきた。あの人の性別を知りたいのも、あの人の特別になりたいのも、すべては若さゆえの独占欲や好奇心なのだと、そう定義することで「境界線」を越えないように必死で踏みとどまってきたんだ。

 けれど、もう誤魔化しようがない。

 あんなに赤くなった怜さんの顔を見て、あんなに切ない「またな」を聞いて。

 手に残る感触と、鼻腔にこびりついた甘い香りが、俺に真実を突きつけてくる。

(……執着なんて、そんな格好いい言葉じゃない)

 これは、もっと泥臭くて、痛切で、救いようのない――恋だ。

 二十歳(はたち)

 あの人が本当の意味で「大人」の領域へ足を踏み入れるまで、あとわずか二ヶ月。

 五月雨(さみだれ)が降り始める頃、怜さんは、俺の知らない向こう側へ行ってしまう。

 それに引き換え、俺が十八歳の成人を迎えるまでには、まだ一年と七ヶ月もの月日が残されている。

(……長い。長すぎるだろ……)

 法に守られた「子供」でしかない今の自分。

 このもどかしい時間差を埋めるすべを、俺は知らない。

 五月雨が街を濡らすよりもずっと早く、俺の奥底から零れ落ちてしまったこの想いは、もう二度と、元の器には戻らない。

 俺は、怜さんが入っていった家の玄関灯が灯るのを見届けてから、やり場のない焦燥感を逃がすように、深く、深く息を吐き出した。

 第一章『五月雨よりも早く、零れ落ちる想い』、最後までお読みいただきありがとうございました。柊叶ひいらぎ かなうです。

 プロローグから三年後の現在、そして高校二年生の「新学期初日」を丸ごと描き切った結果、気づけば一章だけで18,000文字を超えるものとなりました。お付き合いいただいた読者の皆様には、感謝でいっぱいです。

 今章の軸は、一颯いぶきの抱える「正体不明の執着」が、れいとの衝突を経て、ついに「恋」という形に結実するまでの過程でした。

 三軒隣の隣人。近所のお姉さん(あるいは兄貴分)。

 そんな安全で平穏な関係を、自らの手で壊しにいった一颯の衝動が、少しでも皆様に届いていれば幸いです。

 そして、本作の鍵となる怜の「性別」。

 タートルネックの下にある真実は、一颯が「大人」になるまでお預けとなりましたが、作者としても、あの夕暮れの門扉での二人の距離感には非常にこだわりを持って執筆いたしました。

 二十歳まで残り二ヶ月の怜と、成人まで一年七ヶ月を残す一颯。この埋められない時間の壁を、一颯がどう足掻いて越えようとするのか。

 そして、余裕を崩された怜が、次章からどのように一颯を迎え撃つのか……。

 楽しみにして頂けたらなと思います。もし少しでも「続きが気になる」「怜の正体が知りたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけますと、執筆の大きな励みになります。

柊叶

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