渓谷の村
渓谷の底を抜ける風は骨の芯まで冷やすように乾いていた。
昼だというのに陽は薄く、空は鉛色に霞んでいる。
二つの月も朧に宙に揺蕩っている。
ニクスはローブの襟を立て息を吐いた。
白く凍るその息はすぐに風に削がれて消えていった。
「……かなり南に来たけど……おかしいな……こんなに寒かったかなぁ……」
『この辺りの風……ワレは好かん』
シエラが気怠そうにそう呟くと、淡い光となってニクスの胸へと沈みこんだ。
道らしい道もなく、岩肌の間に点々と並ぶ石造りの家々。
その一角からかすかな煙が上がっていた。
人の気配。だが、どこか不穏な静けさが漂っている。
◆
──交易村サハル
王都と北の街道をつなぐ中継地として、かつては商人で賑わっていた村
だが数年前に水源が枯れた。それ以来、旅人も、獣さえも姿を見せなくなったという
◆
壊れた柵を越え村に足を踏み入れた瞬間、乾いた血の匂いが鼻を掠めた。
足元の雪混じりの砂に何本もの足跡が重なっている。新しいものもある。
「……誰か、いますか?」
呼びかける声が岩壁に反響する。その返事は──刃だった。
「動くな!」
背中に冷たい鉄の感触。振り返ると、ぼろ布を纏った男が震える手で刃物を突きつけていた。
瞳は焦点が合っていない。飢えと恐怖で濁っている。
「待ってください、私は旅の魔術師です。あなたの敵じゃ──」
「旅の魔術師? ……なら、あいつらの仲間か……!」
男の腕が震え、刃がわずかに動く。
ニクスは一歩踏み込み、指先で杖を弾いた。
軽い音と共に刃は氷に包まれて動きを止める。
男が怯んだ一瞬の隙を突いて、ニクスは男の手を返し拘束する。
「……落ち着いてください。私は敵じゃありません、争うつもりはないです」
男は崩れ落ち、息を荒げながら言葉を吐き出した。
「や、野盗が……北から……来やがって……。はこ…………箱を、持ってきたんだ……!」
「箱?」
男の指が震えながら指し示す。
村の中央──凍った井戸のそばに、ツギハギの金属のような箱が据え置かれていた。
まるで供物のように。
近づくと、その表面に刻まれた古い紋章が空の鈍い光を帯び怪しく光っている。
──貧者の箱
かつて勇者一行の"白光の女戦士"クルセアが所持していた呪具。
寿命を代価に武具を生み出す禁忌の箱。
「なんで、これが……こんな場所に……」
箱へと手を伸ばしたその時、低い笑い声が響いた。
「ほう、珍しい客じゃねえか。旅の魔女さんか?」
振り返ると、粗末な毛皮を纏った野盗たちが数人、村人を縛り上げて立っていた。
「あなたたちがこの箱を……?」
「そうだ。こんな辺鄙な所でこんな凄いもん拾うとは思わなかったがなぁ。
ほら、こいつを使えばどんな武器でも出せる。代わりに少々寿命を失うだけだ」
リーダー格の男が靴で箱を蹴り上げると、蓋がゆっくりと軋み開く。
中から白い霧が吹き上がる──まるで死者の吐息のように。
「おい、やれ。お前の息子の命が惜しいなら……お前が使え!」
「や、やめて……!」
「母ちゃんっ!」
子どもの悲鳴が上がる。
ニクスは目を細めた。
「……それ以上、誰も傷つけさせません」
杖の先が地を打つ。
冷気を孕んだ風が一瞬で渦を巻き、地面に複雑な術式陣が浮かび上がった。
『薄氷の環、結べ!
封じ、閉じ──氷縛しろ!』
空気が凍りつき、野盗たちの足元を凍りの鎖が絡め取る。
鎖が音を立てて締まり、動きを封じていく。
「ちっ、なんだあの魔法?! 意外とやる魔女だな……! 逃げるぞ!」
「逃げても無駄です。地を這う氷雪の魔法ですよ。すぐに追いつきます」
「はっ! 魔術師対策を全くしてないとでも思ってんのか!」
男が懐から札を撒いた。
術式が一瞬で歪み、陣が砕ける。
「ぐっ……封魔札!? 術師対策するにしても準備が良すぎる……?!」
「ははは! 俺らの邪魔する危険な魔女がうろついてるって聞いたんでなぁ!! 無駄にならずに済んでよかったぜ!」
「……お前ら……!? ホプル村を襲った野盗だったのか! 待て!!」
ニクスが叫ぶ頃にはもう野盗たちの姿はなかった。
「逃げ足だけは一流ね……私の事を知っていた……シエラの事もバレている……かな、
…………あ! 貧者の箱がない!! くっそー持ってかれちゃったか」
ニクスはため息をつき、頬を掻いた。
「あ……あの、魔女さま、危ない所を助けて頂きありがとうございました」
「いきなり剣を向けて悪かった。許して欲しい」
「母ちゃんを助けてくれてありがとう!」
村人たちが口々に礼を言う。
ニクスは少し照れくさそうに微笑んだ。
「あああいやその……、大した事はしていません。
それに野盗……一人も捕まえる事が出来なかった……、
奴らのアジトの場所……分かりますかね?」
ニクスの言葉に顔を見合わせる村人たち。
「そ、それなら……あそこです」
村人の一人が目の前の渓谷を指差す。
「まぁ……あそこですよね……仕方ない、少し準備して行きますかねぇ」
「あの渓谷……危険な魔物も多いです。
今夜はうちに泊まっていってください。せめて温かいスープでも」
「う……うーん……では、お言葉に……甘えますかねぇ」
ぐぅ~。とニクスのお腹が鳴る。
「ここに来るまでに食材は尽きるし水はないし……」
「魔術師の方は魔法でどうにか出来たりしないのですか?」
「うーん……この辺り、湿度がなさすぎて。
無理に水を作ると、ちょっとグロいことになりますよ……」
苦笑しながら、ニクスは渓谷の風を見上げた。
寒気が音を立てて吹き抜ける。




