二つの月と腹の音と
世界を知るための旅。
始まりは……えーと……どこから話せばいいのだろうか?
時間は腐る程ある。世界を見て、回って、その後──
空には月が二つ浮かんでいた。
蒼白い大きな月と、その傍らで紅く揺らめく小さな月。
どちらも陽光を受けながら、淡く溶けるように空に漂っている。
その下を銀の軌跡が弧を描いて走り抜けた。
「……この辺って聞いたんだけど! どこー?!」
声を張り上げながら空を飛ぶのは一人の魔女。
金属光沢を放つ長く大きな杖に跨り、黒いローブをひるがえしながら森の上を滑っていく。
陽の光に照らされ、彼女の長い黒髪が琥珀色にきらめいた。
「んー……地図では北の森って書いてたのに、森ばっかりなんですけど!? もうっ!」
ぶつぶつと文句をこぼしながら魔女は杖の先を軽く下げた。
風の流れが変わり、木々の間に漂う砂煙が渦を巻く。
どこか遠くから、低く唸るような咆哮が響いてきた。
「……わんこの声。あー……、イヤな予感……!」
彼女は眉をひそめ、視線を遠くに走らせる。
木々の影の中、陽光の粒を散らすように小さな人影が見えた。
「いた……見つけた!」
叫ぶと同時にニクスは杖を傾ける。
空気が裂け、銀の尾を引いて地上へと急降下していった。
──その頃。
森の奥では一人の少女が息を切らせて走っていた。
「はぁ……! はぁ……! どうして、こんな所にヘルハウンドの群れが……!?」
十匹を超える黒狼の群れに追われながら、ひとりの少女が必死に駆けていた。
陽の光が木々の隙間からまだらに差し込み、彼女の息は白く霞む。
足がもつれ、地面に倒れ込む。次の瞬間、獣たちが取り囲んだ。
「はぁ、はぁ……もう、ここまで……なの……?」
少女は諦めたように空を仰ぐ。
そのとき──
「えーと……あなたが、エリィ・トーリナーさん?」
「……え?」
不意に頭上から声がした。反射的にそちらを見ると、空からゆっくりと降りてくる影。
その直後、一匹のヘルハウンドが少女へ飛びかかった──
が、何か透明な壁にぶつかり、弾かれる。
「きゃあっ!? …………? これ、魔法障壁……?」
「エリィさんで合ってますか?」
魔女が尋ねるや否や、さらに何匹ものヘルハウンドが襲いかかってきた。
「きゃあああ!」
「もうっ!! 質問の途中で邪魔しないで!」
ニクスは不機嫌そうに頬を膨らませ、背中から枝のような杖を取り出し黒狼たちへと杖先を向けた。
そして、小さく呟いた。
『──爆ぜろ』
次の瞬間、空気が爆ぜた。
轟音と共に閃光が走り、獣たちは吹き飛ぶ。
地面に黒煙が立ち込め、何匹かは動かなくなっていた。
残りの群れは怯えたように森の奥へと逃げていく。
「す、すごい……! 一言で……そんな強力な魔法を……」
「むぅ……質問、途中だったのに」
むくれた様子のニクスに、エリィは慌てて頭を下げる。
「あっ、ご、ごめんなさい! はい、私がエリィ・トーリナーです! でも、どうして私の名前を──」
その言葉を最後まで聞く前に、ニクスはふわりと浮いていた杖から落ちた。
「えっ!? だ、大丈夫ですか!?」
「……やぁっと見つけたー!!」
地面に寝転がったまま手足をバタバタさせるニクス。
あまりの調子外れに、エリィはぽかんと見つめる。
ひとしきり暴れたあと、ニクスはぱっと起き上がり笑顔を見せた。
「改めまして! 私はニクス。”双杖の魔女ニクス”って名乗れって師匠に言われてます」
「双杖……? 魔女が杖を二本持つなんて、珍しいですよね?」
「そうなんです。私、ちょっと器用みたいで、
二つの魔法を同時に扱えるんですよ。ほら──」
右手の金属杖の先に氷の球、左手の小枝杖には火の球が浮かび上がる。
彼女が息を吹きかけると、ふっと同時に消える。
「杖が二本あれば同時詠唱も出来るので、威力や精度はちょっと落ちるけど便利なんです。杖を二本持つから“双杖の魔女”」
「……魔法使い……しかもそんなすごい人が……どうして私を探しているの?」
「あー、それがですね……」
ぐぅぅ……と、お腹が鳴る。
「……十日ほど前の大嵐で食料ぜんぶ飛んでっちゃったんです。一緒に旅してた連れも飛ばされて……。
そのあと、エリィの村に転がり込んで、食料を分けてもらったんですよ。恩返しがしたくて、そしたら“娘が山菜採りに行ったきり帰ってこない”って聞いて……探してたら……二日経ってました!」
照れ笑いを浮かべるニクスに、エリィは涙をこらえきれず抱きついた。
「うぅ……ありがとう……! 本当に、もうダメかと思ったの……!」
しゃくりあげながら泣くエリィの頭を、ニクスはやさしく撫でる。
「もう大丈夫。さ、村に帰りましょう」
「……うん……」
「──あ、そうだ。昨日助けた子を置いてきたんだった。立ち寄ってから行きましょう」
二人が歩き出そうとしたそのとき。
「グオオオオオオン!!」
地面が揺れるような咆哮。
振り返ると、巨大なヘルハウンドが道を塞いでいた。
「え、え? ボス個体!? どうして……雪原からこんな所まで……? ニクスさん、逃げ──」
ドシン、と鈍い音が響く。
気づけばヘルハウンドは地に伏していた。顔は黒く焼け焦げ、動かない。
「さーて、行きますよー!」
「……え? 今、何が……?」
「何って、倒しただけです。邪魔だったので。もうすぐ日が沈みます。私、空腹で倒れちゃいますよ!」
「……今の……無詠唱魔法、ですよね……?」
呆然とするエリィをよそに、ニクスは鼻歌を歌いながら歩き出した。
「あ、その歌……、子どもの頃に聞いたことある……」
「そうなんです。勇者がお姫様を助けて、魔王を倒す、ちょっと古い歌ですけどね。私、大好きなんです!」
ぐぅ~。
「お腹空いたぁ~!」
呆れ半分に笑うエリィの声が、森に柔らかく響いた。
◆
──後に人々は語る
世界が最も煌めいた夜の少し前
唄と詩を愛した一人の魔女が、この地を訪れたと
不吉の象徴とも、創世の女神の生まれ変わりとも言われた彼女の物語は
ひとつの腹の音と共に、静かに始まった




