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第7章:選ばれた者と選ばれなかった者

 レッスン室は、ネオンテトラが泳ぐ水槽のように静まり返っていた。全ての練習生が同じ姿勢で、同じ方向を向いて座っている。まるで時間が止まったかのように。


 僕の隣でレオが小さく息を吐く。みんな息をするのも忘れそうなほど緊張している。


 社長がガラスのドアを開けて入ってきた瞬間、部屋の空気が一気に張り詰めた。黒いスーツに身を包んだ彼の後ろには、数人のスタッフが控えている。手には書類が握られていた——デビューメンバーの名前が記されたリストだろう。


「お疲れ様。今日は重要な発表がある」


 社長の声が練習室に反響する。僕は無意識のうちにレオの方へ体を寄せていた。彼の温もりが少しだけ安心感をくれる。


「それでは発表します。月末評価の成績、スキル、ポジション、ビジュアルのバランスを考慮して決定しました。選ばれなかった場合も、単にユニットのカラーに合わなかっただけですから、気にしないでください」


 無理だ、気にしない訳がない。どうしてそんなことが言えるのだろう?このためにみんな何年も頑張ってきたのに。


「それでは、メインダンサーからです。月末評価一位の練習生です」


 レオだ、間違いない。彼はいつも月末評価で一位だった。僕は小さく微笑む。少なくともレオは確実にデビューできる。彼ならその資格が十分にある。


「1人目はレオ。前に来てください。デビューおめでとう」


 僕は思わずレオに抱きついた。


「おめでとう!夢が叶ったね!」


 自分のことのように嬉しい。彼の夢が叶うことは、僕にとっても大きな喜びなんだ。


「ありがとう。レイン、待ってるから」


 レオは僕の肩をぎゅっと握り、社長の隣に移動する。彼の背中がいつもより頼もしく見えた。


 2人目、3人目と呼ばれていく。各練習生の顔に喜びと安堵の表情が広がっていった。練習室は拍手と祝福の声で満たされる。


 4人目、5人目、6人目……。


 僕の名前はまだ呼ばれない。


 練習生の待機列は徐々に人数が減っていくのに、僕はまだ座っている。手のひらに汗をかき、鼓動が耳に響いていた。あと1人。たった1人のデビュー枠が残されているだけだ。


 選ばれなかったらどうしよう。レオとデビューできないなんて。彼と同じ舞台に立つという約束は?プラハへ一緒に行くという誓いは?僕たちの奇跡は?


 レオとデビューしたい。絶対に。お願い、神様。ずっと一緒にいたいんだ。同じユニットに入れて下さい——。


「それでは最後の7人目の練習生を発表します。オールラウンダーでムードメーカーな練習生です」


 オールラウンダー?僕はピアノと作曲が得意だけど、他のスキルはそこまで高くない。僕じゃないだろう。でも、もしかしたら……だめだ、希望を持ちすぎると失望も大きくなる。


「7人目はアントニーです。デビューおめでとう」


 そこで僕の時間は止まった——。


 アントニーの泣き崩れる姿が、スローモーションのように見えた。周りの練習生が彼を支え、祝福している。


 僕の耳には何も聞こえない。ただ、心臓の音だけが響いていた。


 ぼんやりとした視界の中で、レオと視線が交わる。彼の表情には心配と悲しみが混ざっている。社長の隣に立つ7人の中で、彼だけが笑顔ではなかった。


 僕は涙をこらえながらも、なんとか微笑んだ。口パクで「ごめんね」と伝える。これが精一杯の勇気だった。選ばれなかった自分を恥じる必要はないと言い聞かせるけれど、身体の震えが止まらない。


「それでは7人はこれから別室で契約の話があるので移動してください。デビューが決まらなかった練習生は明日から1人ずつ面談をして今後のことを話し合いましょう」


 社長の声が遠くから聞こえてくるようだった。デビュー組と社長とスタッフたちは別室へ移動していく。レオは最後まで僕を見守っている。その眼差しには「待っている」というメッセージが込められているようだった。


 残された練習生たちは、お互いを励まし合いながら帰る支度を始める。誰もが落胆しているけれど、強がって笑顔を見せようとしている。それが余計に切なかった。


 ◇


 練習室は徐々に静けさを取り戻していった。


 ショパンの「別れのワルツ」がかすかに聴こえてきた。デビュー発表に呼ばれなかった練習生が別室で奏でている音が、風に乗って僕の耳に届く。


 練習生たちは次々と帰っていく。別れの挨拶をする度に、笑顔を作らねばならない。「大丈夫、まだ諦めてないよ」と言いながら、本当は魂が引き裂かれるような痛みを感じていた。


 練習生が一人また一人とダンスレッスン室から出ていく。シャッタースピードを遅くして撮影した映像を早送りしているような、ウォン・カーウァイの映画を思わせる光景。センチメンタルで、時空が歪んだような不思議な風景が広がっている。


 現実を受け止めるには時間がかかりそうだ、と感じた。


 誰もいなくなったダンスレッスン室で響く「別れのワルツ」と目の前の景色で、僕は物語の主人公になったような錯覚に包まれる。


 やがて練習室には僕一人だけが残された。


 どれだけの時間が過ぎただろう。外は夕焼け空が広がっている。窓ガラスに映る自分の姿が、悲しいほど小さく見えた。


「レオ...ダメだったよ...ごめんね...一緒に舞台に立てなくて...」


 声に出した途端、ずっと我慢していた涙が溢れ出す。もう誰も見ていないから、泣いてもいいよね。ずっと抑え込んでいた感情が氷河の崩壊のように押し寄せてくる。


 プラハでの誓い、オーディションでの奇跡、そして屋上での告白。全てが断ち切られ、幻のように思えて、もうどうにでもなれと思い、レッスン室を飛び出した。


 ◇


 外に出ると雨が降ってきた。今日の結果と僕の心を表しているかのようだ。雨が僕の代わりに泣いてくれているような気がした。


 風に乗って微かに聞こえる「別れのワルツ」に合わせて踊り始める。傘もささず、雨に打たれながら。以前観たレオの舞踏を真似してみる。下手だけど、彼のように風のように踊ってみたくて。


 雨に打たれて踊ると、僕の姿はレオのように妖精のように見えるだろうか?キラキラと反射する水飛沫に照らされて。儚く可憐で今にも消えそうなレオみたいに、美しく舞えているだろうか。


 頬を伝う涙は雨が優しく隠してくれた。もう濡れることなど気にならない。雨が僕の代わりに嘆いてくれているようで、少し心の重荷が軽くなる。


 雨に打たれながら踊る姿は、きっと滑稽だろう。でも構わない。今はただ、心の痛みから逃れたかった。


「レイン...」


 声が聞こえる。振り向くと、少し離れたところに赤い傘を差した人影が立っていた……レオだ。


 彼は契約の話を終えて事務所から出てきたところだったのだろう。僕の姿を認め、悲しそうな表情を浮かべていた。


「レオ〜上手く踊れないよ〜一緒に踊ってくれない?もう一緒に踊れないからさ...最後にお願い...」


 声を詰まらせて言う。もう一度だけ、彼と踊りたかったんだ。


 レオは赤い傘を投げ捨て、僕に駆け寄る。強く抱きしめる彼の腕は、春の木漏れ日のように温かく感じた。


「最後なんて言うな。絶対同じ舞台に立てるから諦めるな。レインは才能があるんだ。それに俺の半分だろ?ずっと待ってるから」


 彼の言葉が肌を通して魂まで染み込んでくる。レオは僕の頬に優しく触れ、指で涙を拭う。雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られるのは恥ずかしかったけれど、彼の真摯な眼差しに見つめられると、そんなこともどうでもよくなった。


「二人で1つなの?」


 僕は掠れた声で尋ねる。


「ああ。俺の半分を見つけた。レインという半分を。ずっと探してたんだ」


 レオは僕の顔をそっと手で包み、ゆっくりと顔を近づけてきた。彼の唇が僕の唇に触れた瞬間、全身に電流が走り、体は灼熱の太陽のような熱を帯びる。


 驚きながらも、僕はゆっくりと目を閉じて、彼を受け入れた。柔らかな唇の感触が、全ての悲しみを洗い流していくようだった。


 しばらくして唇を離した彼の顔は、雨に濡れてキラキラと輝いていた。僕たちは見つめ合い、強く抱きしめ合う。そして急に恥ずかしくなって、同時に笑い出した。


 ◇


 雨の中、僕たちは踊り始めたんだ。浮かれていたのかもしれない。


 笑顔があふれる幸せなダンス。雨の中で踊るのは不思議な高揚感を呼び起こした。開放感に満ち溢れて、自由を手に入れたような気分になったんだ。


 いつの間にか悲しみは消え去り、ただ、この瞬間を宝石のように大切にしたいという思いだけが心を満たしていく。


 レオが僕をリードし、二人で即興のダンスを踊る。シャツが雨で透け、互いの体の線が浮かび上がっていた。


 通りを行き交う人々は、雨の中で踊る僕たちを不思議そうに見ていたけど、そんなことは気にならない。今はただ、レオと共にいる時間が愛おしかった。


 踊っている間に、僕の心に晴れやかな気持ちが生まれてきた。涙は雨と共に流れ落ち、新しい希望と決意が少しずつ湧き上がってくる。


 やがて雨は小降りになり、空の一角が明るくなってきた。


「わぁ〜虹だよ、レオ」


 僕は空を指さす。雨上がりの空に、鮮やかな虹がかかっていた。


 レオは僕の肩を引き寄せ、共に虹を見上げる。


「レインと同じ舞台に立てるまでずっと待ってるから」


 彼の声には揺るぎない強さがあった。


「うん。頑張るよ。絶対にデビューするから待っていて。二人で1つだからね」


 僕は少し照れながらも、強く決意を表す。この落選は終わりじゃない。新たな始まりなのだから。


 レオは僕の額に自分の額をそっとくっつけた。


「俺は雨が好きだな」


「雨が好きなの?レインじゃなくて?」


 彼は少し照れているようだ。そんな表情も新鮮で、心の奥がチョコレートのように甘く溶けていく。


「半分さん、こっち向いて」


 レオが言ったので、僕は彼を見上げる。視線を交わした瞬間、彼は再び僕に唇を重ねてきた。今度はさっきよりも長く、深くて甘いキス。レオの手が僕の背中を優しく撫でる。彼の濡れた髪から雨の滴が僕の頬を伝った。


 いつの間にか辺りは暗くなっていた。街灯の下で抱き合う二人の影が、1つに溶け合っていく。


 僕の心にも、鮮やかな虹がかかったようだ。


 この挫折を乗り越えて、必ずレオと同じ舞台に立とう。それは約束じゃない、誓いなのだ。


 明日から、僕は新たな一歩を踏み出す。夢が実現する日まで、決して諦めない。


 虹の向こうには、きっと僕たちの輝かしいステージが待っているのだから。



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