第5章:風の記憶 〜レオ視点〜
俺は幼い頃から何かが欠けていると感じていた。
窓辺に立ち、オーディションまでの時を数える。庭の木々が風に身を委ねる様は、まるで俺自身のようだ。風は自由だが、どこにも留まることができない。何かを探し続ける存在。
「お前も同じだな」
呟きながら窓を開ければ、朝の冷たい空気が頬を撫でる。これまで抱えていた空虚さは、レインと出会ってから少しずつ満たされ始めている。
◇
小学生の頃、祖母は暖炉の前で俺を膝に乗せ、不思議な話をよく聞かせてくれた。
「レオ、人の魂はね、時々2つに分かれて生まれてくることがあるんだよ」祖母の声は穏やかに響く。
「2つに?なんで?」幼心に疑問が湧いた。
「そう、その2つは必ず再会するの。出会った瞬間、互いを認識する。それが運命というものさ」祖母の手が優しく俺の髪を梳かす。
当時はただのおとぎ話だと思っていたが、心の奥で俺はこの言葉を信じていた。だから常に探していたんだ。自分の中の空虚さを埋めるもの。もう一人の自分を。
幼い頃から踊るのが好きだった。踊っている時間だけは自由になれる気がして。高校の舞踏科に入ってからは、よりダンスを本格的に学び始めた。
その頃から、韓国のK-POP事務所からのスカウトが始まる。沢山の事務所からの誘いは嬉しいけど、韓国でアイドルになりたいとは思えず断り続けていた。大手と言われている事務所ばかりだったけど、日本から離れるのはなんか気が引けて。
その時、韓国事務所だけど、日本支社のあるスターエンタからスカウトされた。高校も通いながら、事務所のダンスレッスンも受けられて、寮完備な所に引かれて入ってみる事にした。
高三からのスタートはかなり遅いけど、数年やってみてデビューユニットに入れなければ辞める覚悟で。
事務所に入ってすぐの事だった。芸術高校の紹介イベントで、俺は運命に遭遇する。
リハーサルの合間、控室で水を飲んでいると、ドアの開く音がした。振り向いた瞬間、世界から全ての音が消え去った。
「水沢玲音です。レインと呼んでください」
彼は俺と同じ白シャツに黒パンツ姿。鏡に映った自分を見ているかのような錯覚に襲われた。だが、確かに異なる。彼の瞳は澄んだ湖のように透明で、表情は優しく柔らかい。
陶器のように白い肌、淡い色の虹彩を湛えた瞳。海外からの練習生だとすぐに理解した。日本人離れした雰囲気を纏い、儚さと気品を醸し出している。日本にはいないタイプで可愛らしい。そして、綺麗だなと思った。
「風間玲央だ。レオって呼んでね。よろしく」
俺たちは同じ格好をしていることを話して笑い合う。初対面とは思えない、長い別離を経て再会した親友のような安心感。言葉なく通じ合う何か……。
「面白いな。まるでもう一人の自分に会ったみたいだ。何だか俺ら似てるよね」
その刹那、祖母の言葉が脳裏に蘇る。「人の魂は時々2つに分かれて生まれてくる—」この少年こそ、自分が探し求めてきた"半分"だという確信が全身を駆け巡った。
ステージで彼のピアノ伴奏が始まると、その直感はさらに強まっていく。指先から紡がれるメロディが、俺の中の風を呼び覚ます。踊りながら、俺は彼の音色に身を委ねる。
彼の音は不思議だ。暖かく俺の心を包む。身体が自由に動かされて蝶になったのかと思う程だった。
風と水の出会い。それが俺たちの始まりだった。
この日から数日後。音楽室の前を通りかかった時のことだ。
廊下に漂うショパンの「幻想即興曲」に足を止める。扉を少し開け、内側を覗けば、レインがピアノと一体化するように演奏していた。
窓から差し込む夕陽が彼の横顔を黄金色に染め上げ、その姿はルネサンス期の肖像画のような荘厳さを纏っていた。彼の指から生まれる音色は、清流のように澄み切っている。その旋律が血管を巡り、風のように体中を駆け抜ける。
「上手いな」
思わず漏れた言葉に、彼が振り向きそうになり、慌てて身を引く。
その日から、俺は彼のピアノを密かに聴くようになる。最初は彼の奏でる音に魅了されたのかもしれない。練習室の外に立ち止まり、廊下の片隅で、その音色に耳を傾ける。
アイドル練習生として恋愛は禁じられているというのに、気付けば彼の存在が頭から離れなくなっていた。
澄み切った瞳。ほんのりと色づく頬。ピアノに向き合う真摯な横顔。全てが俺を狂わせる。近づきたいのに、一線を越えれば壊れてしまう何かがあるように思えて躊躇した。
この奇妙な感情が恋だと認めた時、二人の関係性が変質するかもしれないという恐れ…。いつの間にかピアノだけではなく、彼そのものを求めていることに気づく。
◇
レインと初めて本音で話したのは、アントニーとの練習中、言い争いになっていた時だった。
「テンポが遅すぎるよ、レイン」アントニーが弓を下ろして指摘する。
「いや、君が速すぎるんだ」レインは毅然と反論。
二人が火花を散らす中、勇気を振り絞って部屋に足を踏み入れた。「喧嘩するなよ」と仲裁に入る。二人が振り向き、特にレインの驚いた表情が心臓を強く鼓動させた。彼の瞳に映る自分の姿に、言い知れぬ感覚が押し寄せる。
「凄い演奏だったよ。レインとアントニーも」素直な感想を伝えた。
会話を交わす間に、レインの頬が僅かに紅潮するのを見て、鼓動は加速する。彼の傍にいるだけで、世界がパステルカラーに色づくかのようだ。
それからというもの、廊下や購買でレインを見かけるたび、視線は自然と彼を追ってしまう。制服姿の彼からは、レッスン着とはまた違った魅力が漂っていた。初々しくてキラキラ輝いて……触れてはいけない……高尚な雰囲気を身に纏っている。
あの日、勢いに任せて声をかけたのは、純粋な衝動からだった。
「レイン、今日は練習室行く?」
「うん。あの……ダンス教えてくれる?昨日の振りまだ頭に入ってなくて」
彼の頼み方が愛らしくて、胸がきゅんとする。
「いいよ。これあげる」レインに会えたらあげようと思っていた、イチゴミルクを彼に放った。彼は可愛い物が似合うから、なんとなく選んだ物だけど。
「レオ、ありがとう」彼はビー玉のようなキラキラした瞳をこちらに向けた。
「うん、あとでな」アイドルを好きになるのはこんな気持ちなのかな?と俺は思った。
その場を離れながら、自らの行動に戸惑いを覚えた。推しに笑顔を向けられて喜んでいるファンの気持ちが最近良く分かる。
◇
高校生活最後の文化祭、ようやく本心を少しだけ開示する勇気が芽生えた。
「レイン、良かったよ。最高の演奏だった」
舞台袖に戻ってきた彼に声をかけると、彼は一瞬驚き、それから照れたように頬を染めた。
「ありがとう...見てくれてたんだ」
「ああ、見逃すわけないだろ」
ファンなんだから当たり前だと俺は心の中で呟く。
その瞬間、レインの手が僅かに震えているのを察知した。緊張の名残だろうか。咄嗟にその手を握ってしまった。彼のひんやりした手に電流のような衝撃が走る。
「冷たいな...大丈夫か?」
「う、うん...ちょっと緊張してるんだ」
手を繋いだまま、俺たちは見つめ合った。彼の瞳に映る自分の姿に、心臓は激しい鼓動を刻む。もっと触れたい。もっと彼に近づきたい。という気持ちが溢れそうになる。
「俺、お前のピアノが好きだ」率直な感情を吐露した。
「お前が弾くと、水の中を漂うような不思議な感覚になる」
「レオの踊りも素敵だよ」彼は口元を緩ませて言う。
「見ていると、風に包まれているような気持ちになる」
その言葉に、全身の血潮が沸き立った。彼も同じことを感じているなら—。
この瞬間、もしかするとお互いを特別に想い合っているかもしれないという期待が芽生えた。でも俺たちは恋愛禁止だ。推しだと思い込んで現実逃避していたけど……もう無理なのかな?と自問自答した。
◇
高校三年の春、卒業を目前にした夜。
練習室で遅くまで残っていたレインを見つけた時、見過ごすことができなかった。疲労の色が濃い彼の肩に手を置くと、彼は驚いたように振り向いた。
「レオ...まだいたの?」
「お前が心配で……」素直に伝えた。「無理するなよ」
彼は決意に満ちた表情で言う。「デビューしたいんだ...レオと一緒に」
その一言で全身に衝撃が走る。俺も同じだった。彼がいなければ意味がない。
「一緒にデビューしよう。約束だ」彼の手を強く握りしめた。
「ダンスは俺が教えるから、いつでも言ってくれ」
「うん...ありがとう」
彼の髪を優しく撫でた時、指先が頬に触れて戦慄が走った。彼の肌は想像以上に滑らかで、思わず顔を近づけそうになる。しかし、それ以上の行動は起こせなかった。
高校を卒業する。それは彼と離れる可能性を意味していた。その不安が内側を切り裂く。離れることがこれほど恐ろしいなんて、今まで体験したことのない感情だった。
寮や練習室では変わらず顔を合わせられるが、高校生活の終わりが不安で仕方なかった。レインを一人にするのが……誰かに接近されたら?彼は断れるのか。そんな考えに囚われ、眠れぬ夜を過ごすこともあった。
◇
高校卒業してからは、レッスン後にレインとよく会うようになった。高校で会えなくなって、二人で会うのがこの方法しかなかったから。
「レイン、今から、俺の部屋来られる?」
練習前に新譜を一緒に聴こうと俺が誘っていた。彼は嬉しそうに、「うん、行けるよ!」と輝く笑顔を見せてくれる。
彼は俺の誘いを断る事がない。年上だから断りにくいのかも?と少し思ったりもするけど……。特別な想いがあるのかもしれないと、少し期待してしまう。
「今日は疲れたね。色々発表もあったし……」言葉を漏らす。レインは疲れているように見えたので、温かいミルクティーをいれた。甘くしといた。彼は甘い飲み物が好きだから。
カップを渡す際、指先が偶然触れ合う。一瞬の接触だったが、ドキッとした。彼は慌ててカップを見つめ、視線を逸らす。彼はシャイだ。いつもこうなる。可愛いなあと思わずにはいられない。
音楽が静かに流れ出し、部屋に心地よい沈黙が広がる。並んで座り、時折感想を交わしながら音に身を委ねる。彼の温もりが近くに感じられ、その存在感だけで思考が乱れそうになる。
「ねえ、レイン」思い切って口を開く。「今日のレインが弾いてた曲、すごく綺麗だったよ」
窓の外は既に夜の帳が下り、雨は止んでいた。彼は静かに頷く。
「うん。ノクターン第三番かな。ありがとう。また弾くね」
レインの手が、ソファの上にあったので、偶然を装って触れてみる。彼が手を引けばそこで終わろうと思っていた。しかし、彼はそのまま動かない。俺は小指をそっと絡ませてみた。
彼が緊張しているのは伝わったが、そのまま小指は絡ませたまま…。どこまで触れても大丈夫なのだろうか。彼が俺を拒否する事がまだない。俺はどこまで行ってしまうのだろうか?少し自分が怖くなった。
この触れ合いは普通じゃない。でも、こうして触れ合うだけで、世界の色彩が変容していく。高揚感、安心感、色んな感情が混ざり合っている。
これが「魂の半分」が傍らにいる時の感覚なのだろうか。俺は彼の横顔を盗み見る。長い睫毛、整った鼻筋、僅かに開いた唇。俺の欲望の扉をノックする音が聞こえた。
明日からの練習、月末評価、そしてデビュー選考……全てが待ち受けている。だが今この瞬間、彼の隣にいられることだけで、全ての不安が和らいでいく。
◇
月末評価前のある日。レインの作った曲を聴かせて貰える事になった。
彼はピアノに向かい深呼吸してから演奏を開始する。
メロディは静かに流れ出し、徐々に高まっていく。彼の故郷ワルシャワの静寂と、プラハの朝霧、そして日本での出会い。全てが音の中に溶け込んでいく。
瞼を降ろし、彼の音色に意識を集中すると、俺の周りで、風が微かに渦を巻き始めた。
彼の指先から生まれる音楽は、空気中の水分を揺らし始める。窓から差し込む光に照らされ、微細な水滴が宝石のように輝いていた。
ゆっくりと立ち上がり、俺の身体は風に操られて踊り始める。風と水が再会し、部屋の中で静かな共鳴を起こしていた。
「レイン、この曲には橋が見えるよ」舞いながら告げる。「過去と未来をつなぐ橋」
その言葉に、彼の指の動きが一瞬止まりかけた。
「レオ」彼は演奏を続けながら言った。「君は僕の橋を渡ってくれる?」
踊りを中断し、彼の背後に回り込み、彼の肩に手を置くと、彼の全身がわずかに震えている事に気づく。勇気を出して言ってくれたのかな?と思うと愛おしいと想う気持ちが溢れてくる。
「俺たちは一緒に渡るんだ」囁くように言葉を紡ぐ。「お前の過去と未来も、全部受け止める」
彼の指が最後の和音を奏でた瞬間、抑えきれず彼を後ろから抱きしめていた。守ってあげたいという気持ちが大きかったかも。彼の手が俺の腕を掴み、身体を預けた。
「このメロディ、心に刻んだよ」彼の耳元で呟く。「デビュー評価の日、これを踊らせてくれ」
彼は静かに頷く。耳や首がピンクに染まるが、俺から離れることは無かった。
「レオ、一緒にデビューしよう」俺の腕の中で彼は言う。「風と水の物語を、みんなに見せよう」
抱きしめたまま、彼の髪に顔を埋める。花のようなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、その香りだけで陶酔しそうになる。
「レオの中にある『風の囁き』と、僕の中にある『水の記憶』」彼の声は静かだった。「二人で1つなんだね」
表情が柔らかくなり、抱擁の力を強めた。もう友達通しのハグの距離ではないだろう。俺の欲望の扉は完全に開いていた。
「そうだな、レイン。俺らは1つの魂なんだ」
練習室の窓から見た空は、黄昏ていた。俺はもう欲望の扉を閉めることはないだろう。俺の半分と離れるつもりはない。一緒にデビューしてずっと一緒にいたいと強く思った。
◇
そして今日、デビュー選抜オーディションを目前に控えた朝。事務所の裏庭で木陰のベンチで深呼吸する俺の耳に、ピアノの旋律が届いた。
窓の外から漏れる音色は、紛れもなくレインのものだ。早朝から練習しているのだろう。思わず目を閉じ、その音に身を委ねる。
風と水。相反する存在でありながら、互いを求め合う宿命。
「ずっと半分が欠けていた」囁く。「レインの音で、それが満たされる」
この二年間、練習生として共に歩んだ日々。汗を流し、支え合い、競い合った時間。彼との全ての瞬間が胸の中で煌めいていた。
青葉の香りが風に乗せられてくる。今日、全てが決まる。
「レインがいなければ、意味がない」
心に誓った。今日のオーディション、俺たちは必ず揃ってデビューする。そして、審査が終わったら、この想いを正直に伝えよう。恋愛禁止のルールを破ることになっても、もう抑えきれない。隠し続けることは不可能だ。
彼が俺の半分であり、ずっと探し求めていたもう一人の自分だということは明白なのだから。
ピアノの音が止み、窓越しにレインの立ち上がる姿が目に入った。彼も今日に向けて心の準備をしているのだろう。俺もオーディションの準備をするために部屋へ戻ることにした。