表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

第4章:プラハの橋から風との出会い

 朝日が練習室のカーテンの隙間から漏れ、僕の指先を光で照らす。レッスン四週目の初日、僕はピアノの前に座り、新しい曲の最後の音色を空間に解き放ったところだった。


「素晴らしい、レイン」


 ミナ先生の声が思考の糸を断ち切る。いつの間にか先生が部屋に入ってきていた。


「あなたの演奏には、何か特別なものがある」ミナ先生は近づいて楽譜に目を通す。

「これ、あなたが作曲したのよね?」


「はい」照れくさくて視線を落とす。

「レオと踊るために作ったんです...」


 ミナ先生の瞳が輝きを増した。「これはデビュー級よ。技術だけじゃない、心が伝わる音楽」


 その言葉に内側から温かさが広がった。同時に、遠い記憶が波のように押し寄せる。プラハ、あの霧に包まれた運命の朝の記憶が。


 ◇


 十三歳の夏、僕はショパンの足跡を辿る音楽研修でプラハを訪れていた。厳格な先生たちの指導の下、クラシック音楽の伝統を学ぶ旅。


 あの日の朝は特別だった。まだ暗い時間に目覚め、誰も起きていない静寂の中、一人でホテルを抜け出した。プラハの街は朝霧に包まれ、何世紀もの歴史を宿した石造りの建物が、朝霧の中で輪郭をぼかし、現実と幻想の境界を曖昧にしていた。


 カレル橋へ向かう道すがら、前夜のことが頭の中で繰り返されていた。ホテルのテレビでたまたま見たK-POPアイドルグループのステージ。


 ワルシャワでは縁のなかった世界だったから、新鮮な衝撃があった。華麗な振付、完璧なハーモニー、観客を魅了する圧倒的なパフォーマンス。


「音楽なのに、こんなにも違う」


 石畳の上を歩きながら、その映像が何度もリピートされる。クラシックピアニストを目指していた僕にとって、それはあまりにも異質な音楽表現だった。でも、心の奥底で何かが強く共鳴した事に気づいた。


 カレル橋に到着した時、まだ霧がヴルタヴァ川を覆い、橋の彫像たちも霧の中にぼんやりと浮かび上がっていた。何百年もの歴史が刻まれた橋の欄干に手を添える。遠くにプラハ城のシルエットが見えた。


 僕はゆっくりと橋の上を歩きだす。石畳の1つ1つが、チェコの歴史を語りかけてくれる。ショパンもこの橋を渡ったのだろうか、そんなことを想像しながら。


 霧が少しずつ晴れ始め、カレル橋の真ん中に辿り着いた時、朝日が橋を照らした瞬間、突然のインスピレーションが雷のように僕を打った。


 カレル橋は世界遺産だと知っていたけれど、橋から見た景色こそが真の世界遺産だと思った。その息を呑むような美しさに、思考が静かに広がっていく。


 そこで僕は、昨夜のK-POPステージを再び思い出していた。クラシック音楽との決定的な違い。それは「感情の表現方法」だった。完璧なハーモニーと洗練された振り付け、観客を魅了する圧倒的な存在感。


 クラシック音楽とはまったく異なる表現方法だったが、そこには確かに「芸術」があった。クラシックが内面的で繊細なのに対し、K-POPは外向的で直接的。でも、どちらも魂を揺さぶる力を持っていた。


「僕は何を表現したいんだろう」


 霧が晴れ、朝日が橋全体を黄金色に染め上げた時、僕の魂に鮮明なビジョンが浮かんだ。


「僕はアイドルになる」


 その決意を口にした自分にも、驚きを覚えた。しかし、その言葉に嘘はなかった。クラシック音楽の伝統と、新しい音楽表現の融合。ショパンへの敬意を持ちつつ、全く新しい音楽の旅を始めたいと、魂の底から願ったのだ。


 カレル橋の上で、僕は再び深呼吸をする。目の前に広がる景色は、僕の未来への架け橋だと感じた。伝統と革新、古典と現代——それらを融合させた新しい音楽の可能性を、この身で示したいと決意したのだ。


 ◇


「レイン?」


 レオの声で現実に引き戻される。彼は練習室のドアから身を乗り出し、僕を見つめていた。


「あ、レオ」僕はピアノから立ち上がる。「いつから?」


「今来たところ」彼は近づいて、僕の横に腰を下ろす。「何か考え事してたの?」


「うん...プラハのことを思い出してた」


「プラハ?」レオは好奇心に満ちた表情を見せた。


「十三歳の時、音楽研修で行ったんだ」僕はピアノの鍵盤を軽く触りながら話し始める。

「あの時の経験が、今の僕の原点なんだ」


 僕はレオに、プラハでの朝の出来事を語った。カレル橋の霧、K-POPとの出会い、そして僕の決意。


「そで日本に来たんだね」レオの眼差しが柔らかくなる。


「うん」僕は小さく首を動かした。「でも、簡単じゃなかった」


 ◇


 プラハから帰国した後、僕の日常は一変した。クラシックピアニストとしての練習に励みながらも、秘かにK-POPや日本のアイドル文化を調べ始める。


 両親には何も言わず内緒で動いていた。彼らは僕がワルシャワの音楽アカデミーで学び、クラシックピアニストとして成功することを願っていたから。


 でも、あのカレル橋での決意は揺るがなかった。家族以外とは使う事がなかった日本語を学び始め、空き時間にはダンスの練習をするようになる。


 十五歳になった時、僕は両親に打ち明けた。


「僕はアイドルになりたい」


 予想通り、両親は猛反対。特に父は激怒していた。


「何を言っているんだ!」父は怒りに顔を歪めながら言う。「ショパン音楽アカデミーの助成金を蹴って、アイドルだと?」


「でも、僕は違う何かを表現したいんだ」声は小さいけれど、決意は固かった。

「クラシックだけじゃない、新しい音楽の形を」


 数週間の対立の後、意外にも母が僕を理解してくれた。


「あなたの音楽への情熱を忘れないで」母は声を震わせながら言う。「あなたの道を行きなさい」


 十六歳の誕生日の翌日、僕は日本行きの飛行機に乗った。ショパン音楽アカデミーでの助成金を返上し、未知の世界への挑戦を選んだのだ。


 ◇


「勇気あるな」レオは感嘆の息を漏らす。「俺なら、できなかったかも」


「本当は、怖かったよ」正直な気持ちを打ち明けた。「でも、あのカレル橋の上で見た光景が、僕の中で消えなかった」


 レオは無言で頷く。その瞳には何か深い理解が宿っていて、言葉なしでも通じ合えることが嬉しかった。


 日本に来て最初の一年は、想像以上に大変だった。語学学校で日本語を必死に学びながら、芸術高校への編入手続き。両親からの送金での最低限の生活。


 ワルシャワ時代とは全く変わった環境。それでも、カレル橋での決意を思い出すたび、不思議と勇気が湧いてきた。


 ◇


 芸術高校に編入した日、僕は音楽室を見つけて足を踏み入れた。誰もいない部屋で、ピアノに向かう。指先がショパンの「幻想即興曲」を奏で始めた。


「あの時のメロディからは、遠い道のりだった」と独り言を呟く。


 しかし、指は鍵盤の上を自由に踊る。音楽が部屋中に満ちていき、心の中の重荷が解けていくような解放感があった。瞼を閉じ、音楽に身を委ねる。


「上手いな」


 そう、誰かの呟く声を聞いた気がしたが、振り返ると誰もいなかった。ドアが少し開いていたので、通りすがりの誰かが聴いていたのかもしれない。


 それから数週間後、同級生のアントニーのヴァイオリンの伴奏をすることになった。音楽室でベートーベンのヴァイオリンソナタ「春」の練習をしていた時のこと。


「テンポが遅すぎるよ、レイン」アントニーは弓を下ろして言った。


「いや、君が速すぎるんだ」僕は反論する。


 激論を交わす中、ドアが開き、先輩が入ってきた。


「まあ落ち着いて。喧嘩するなよ」


 その声に振り返ると、高校3年生のレオだった。僕は彼の伴奏にも呼ばれてから、少し話したりできるようになっていた頃だ。学校一のダンサーで、多くの女子から人気を集める存在。彼が僕たちの練習に耳を傾けていたとは。


「凄い演奏だったよ。レインとアントニーも」レオは率直に言う。


「音が走りすぎるんだよ、アントニーは」僕は思わず言い返す。


「レインが遅いんだ」アントニーも負けずに主張する。


「お前たち、喧嘩するなよ」レオは口元が緩ませて言う。「同じ事務所の練習生なんだから仲良くしろよ」


 その言葉に、僕とアントニーは顔を見合わせて笑う。レオは少し部屋に残り、僕たちの演奏を聴いていった。


 それから僕は、廊下や購買でレオを見かけるたびに、頬が熱く染まるようになった。レッスン着とは違い、制服姿は息を呑むほど格好良くて、視線を逸らせない。


 彼は紛れもなく高校のアイドル的存在。彼のファンクラブの女子達がギラギラした目で彼を見つめる光景は、少し恐ろしくもあった。


 ある日の放課後、彼が声をかけてきた。


「レイン、今日は練習室いく?」


「うん。あの……ダンス教えてくれる?昨日の振りまだ頭に入ってなくて」


「いいよ。これあげる」レオがポンと紙パックのイチゴミルクを投げてきた。


「レオ、ありがとう」思いがけないプレゼントに驚きながらも受け取る。


「うん、あとでな」


 去っていく彼の後姿を、僕は見つめずにはいられなかった。不思議だ、彼の傍にいると全てが正しい場所にあるような気がして。まるで、長い旅の果てに辿り着いた安息の地のように。


 ◇


「レイン、お前の作った曲を聴かせてくれないか?」現在のレオが楽譜を指さす。

「聴かせてほしいんだ」


 僕はピアノに向き直り、再び鍵盤に指を置く。深呼吸して、演奏を始める。


 メロディは静かに流れ出し、だんだんと高まっていく。ワルシャワの静けさと、プラハの朝霧、そして日本での新しい出会い。全てが音の中に溶け込んでいった。


 レオは目を閉じ、僕の音に耳を傾ける。彼の周りで、風が微かに渦を巻き始めて、彼の周りを回り始める。


 僕の指先から生まれる音楽は、空気中の水分を揺らし始めた。窓から差し込む光に照らされ、微かな水滴が宝石のように輝いて見える。


 レオがゆっくりと立ち上がった。彼は踊り始める。風と水が再び出会い、部屋の中で静かな共鳴を起こす。


「レイン、この曲には橋が見える」レオは舞いながら言う。「過去と未来をつなぐ橋」


 その言葉に、全身が電流に貫かれたような感覚を覚えた。そうだ、この曲は橋なんだ。ワルシャワとプラハと東京を結ぶ、僕の人生の橋。


「レオ」僕は演奏しながら言う。「君は僕の橋を渡ってくれる?」


 レオは踊りを止め、僕の後ろに立った。彼の手が僕の肩に置かれる。その重みと温もりに、身体中が反応した。


「俺たちは一緒に渡るんだ」彼の声は優しさに満ちていた。「お前の過去も未来も、全部受け止める」


 僕の指が最後の和音を奏でた瞬間、レオの腕が僕を後ろから包み込んだ。彼の体温が近くに感じられ、全身の力が抜けていくのを感じた。


「このメロディ、心に刻んだ」彼の吐息が耳元で囁きのように響く。「デビュー評価の日、これを踊らせてくれ」


 僕は静かに同意した。もう怖くなかった。プラハのカレル橋での決意から、今この瞬間まで、僕は迷うことなく自分の道を歩んできたのだから。


「レオ、一緒にデビューしよう」僕は彼の腕の中で言う。「風と水の物語を、みんなに見せよう」


 彼の腕の中で、僕は再びあの朝霧のカレル橋を思い出していた。しかし今回は、一人ではない。レオがいる。僕の風が。僕の魂の半分が。


「レオの中にある『風の囁き』と、僕の中にある『水の記憶』」は、「二人で1つなんだね」


 レオの表情が柔らかくなり、抱擁がさらに強くなった。僕も彼の腕をぎゅっと掴んだ。もう離れられないんだなと強く思った。


「そうだな、レイン。俺らは1つの魂なんだ」


 練習室の窓から、夕暮れの光が二人を茜色に包む。その暖かい色合いが二人の未来の希望のように感じていた。


 ◇


 その夜、寮に戻った僕は日記を開いた。


「プラハの橋で見た未来が、今ここにある。あの日の決意を忘れない。クラシックの伝統と新しい表現の融合。レオと一緒に、風と水の物語を紡いでいく。」


 窓の外を見ると、星空が広がっていた。ワルシャワの空よりも、プラハの空よりも、今夜の東京の空が一番美しくキラめいて見えた。


「明日は、デビューが決まる月末評価だ」僕は静かに深呼吸した。「レオと一緒に、僕は橋を渡る」


 僕はベッドへ横になり、瞼を閉じる。耳には、レオとの特訓で生まれた音楽が今も鳴り響いている。風と水の共鳴。2つの魂が1つになる時。


 明日からが楽しみで、心の底から甘く切ない痛みが湧き上がった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ