地獄のクロアゲハ
長い黒髪を羽のように舞いあがらせ、次々と相手を倒していく姿は、美しくも儚いクロアゲハのよう。
彼女の近くには、いつも地獄がある。
「おい、てめぇ。ちょっといいか?」
真夜中の2時。何もすることのなかった彼女はいつもの道をいつもの時間に、いつもの歩幅で歩いていた。
そして、いつものように声をかけられる。ぞろぞろと彼女を囲む野郎ども。
「おい、ねぇちゃん。こんなところで一人でいるとあぶねーよ?」
「そうそう。俺らみたいな悪ーい奴らに、襲われちゃったりして」
うつむく彼女の周りでがははと豪快に笑う。うるさい笑い声が耳にへばりつく。
「うるさい。ちょっと静かにして。私は今、機嫌が悪い」
彼女がポツリとつぶやくと、うるさかった笑い声をぴたりと止め、一気に目つきが変えた。
「あぁ?誰に向かって口きいてんだ、てめぇ」
「あんま調子乗ってっと…。…がはっ!?」
「うるさいと言ってる。分からない?」
一番うるさく彼女の前を邪魔していた奴のみぞおちにひざ蹴りを入れる。呆気なくそいつは、地面にうろたえた。
「なっ!アンちゃん!!てめぇ…よくも!!」
三人ほどが一気に彼女めがけて、拳を突き付けてくる。が、そいつらはまるで見えない糸に絡まれたように、その場に固まった。
「な、なんだ…これ…体が…」
「手、手が…手が…っ!?」
きりきりとそいつらの腕を締め付ける糸。戸惑い、恐怖をあらわにするそいつらを彼女は動揺することなく、無言で蹴り倒した。そしてとめることなく、他の奴らを蹴散らしていく。
「…がっ…ぐ…」
ニ・三分後。そこには腹を抱えて痛み苦しむ野郎どもしかいなくなった。
相手がいなくなった彼女は、ため息をついて身をひるがえす。
「……ま、…待て…」
消えそうな声。地面に倒れ、腹を押さえながら震える手で彼女の右足首をつかんでいる。
「その…黒髪、…その瞳、の…色。この超能…力…。てめぇ…あの、『地獄のクロアゲハ』だな…?」
彼女はその問いに対して、沈黙を守り、言葉に浸るようにじっとそいつを見つめてから、空いている左足でそいつの腹を蹴った。
「ぐっ…!?ゴホッ…がっ…」
苦しそうにもがき苦しむそいつを見下ろし、自由の身になった右手首を手で払ってからしゃがみ込む。
意識がもうろうとしているであろうそいつの頭をわしづかみして耳元で囁いた。
「その名は気にいってはないけど…どうせなら、この『クロアゲハ』が地獄へ招待してあげる」
そしてその頭を地面にたたきつける。痛みで声も出ないのか、悲鳴の一つも上げない。
彼女はその上下運動を何度か繰り返し、そいつが気を失ったのを見届けてからその場を去った。
ジリジリジリと、いつもの決まった時間に決まった音で朝を知らしてくれる目ざまし時計。
私は片手でポンとそれを止めると、ゆっくりとベットから起き上がり、冷たい床に足をつける。3月上旬といえども、やはり朝は冷え込む。椅子にかけてあったショールをはおり、一階へと向かう。
そして昨日の晩の残りものを温め、冷え切ったご飯を口に入れる。ときどき茶で喉を潤しながら、誰もいないリビングで一人、朝食をとった。
いつものように、顔を洗い、見なれた制服に着替え、コンタクトをつけ、伊達メガネをかける。時間をみる。8時ちょうど。
「ちょっと早いけど…まあいいか」
読みかけの本をかばんの中に放り込み、履きなれたローファーをはいて、ドアノブをひねる。冷たい風が私の横を通り過ぎて行った。
長い髪を片手で押えながら、外に出る。スカートが風で舞い上がった。
そして鍵をかけ、階段を下りて、いつもの通学路へと足を進める。
いつも通りの毎日が、始める。―――はずだった。
「やぁ、おはよう」
なれなれしい挨拶。立ち止まって後ろを振り返る。
風で舞い上がる灰色のかかった髪。鋭く光る十字架のピアス。長い脚が私に向かってゆっくりと歩み寄る。翡翠の瞳に笑みを宿して、私の目の前までやってきた。
「学校には行くんだね、意外だ」
「……あんた、誰?」
「俺かい?」
長く伸びた爪で己をさす男。
「あんた意外にいない。誰、あんた」
「俺はね、『最後を見届けるもの』『願いの最終地点』『死の神』と、呼び方はまぁ様々。そして俺は『悪魔』だ。……どうだい、理解できたかな、クロアゲハ君」
肩をすくめ、手を上げ、笑みを私に向ける。私も笑みを顔に張り付け、ほほ笑んだ。
そして、問題無用でそいつを蹴る。