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アルペジオ

作者: 日ノ竹京

 ブラックな企業で働いているわけでもなく、強いて言うなら部下に経験値を与えるためと宣って仕事をしない上司とオフィスの上滑りした明るさがどうにも合わないが、新成あらなは無趣味な性格から時間を持て余しては手持ち無沙汰に仕事に打ち込むほどほどな社畜生活を送っていた。けれども一年に何度か死んだようにベッドでうずくまり、一日を過ごす日がある。ただただ体が重くてなにも考えていないから何が辛いんだかはよく分からないが、心臓が鉛を注ぎ込まれたように重く、多分それが身体中へ運ばれるから動けなくなるのだと思う。新成はこの日を虚無日と名付け、歓迎しているが面倒でもある複雑な感情でとりあえずは改善を目指していた。

 本当は足も疲れてくるからベッドに寝転がりたいが、そうすると重くなった心臓が他を圧迫して息苦しくなるので、結局は掛け布団をクッションにしながらうずくまる体勢に戻る。違和感を誤魔化そうと無意識に腹に力が入り、そのまま緊張して息が浅くなる。もう朝からずっとこうだった。わけもなく涙は出るしそれならば気持ちよく号泣したいところだが、これといって理由がないから二、三粒で涙は止まる。鼻水の方が後を引く。遮光カーテンが微妙に締め切られていない暗い部屋で、布団に顔を埋めて、息継ぎに顔を上げて、また海に潜る。


 どこからかぺぃーんと調子っぱずれなアコースティックギターの音がして、新成は顔は上げずに耳をそばだてた。少しした後、さっきとは少し違う調子のぺぃーんが彼女の側で上がる。

 誰かの気配がすぐ側に座っているのを感じて、新成はのそのそと体勢を変え、気配に背を向けてベッドに横になった。

 彼は__数年の付き合いだが、未だよく分からない。説明のつくものなのかも怪しかった。新成が虚無日のときだけに現れる、とりあえずは『悪魔』と呼んでいる存在。人がうとうとしている隣でずっとアコースティックギターを爪弾いているので、どこかの音楽家が自分の魂を悪魔に渡す代わりに曲を作らせたという話から名付けた。新成は友人がバンドをやっていた程度の知識しかないが、それでも分かる的外れなチューニングで彼は満足げに調律を終える。けれど音が重なり始めるとなぜか形になった和音になるのだから不思議だ。


「……なんなのアンタ」


「さあ?」


 毎回こう持ちかけてはみるものの、のらりくらりと逃げられる。はっきりと答えられても怖いし別にそれでも構わないのだが、今まで幽霊やら不可思議な存在を否定してきた者として聞かずにはいられないのだ。


「今度はなにが辛かったの」


 どうでもよさそうな無責任な声音でそう問われると、彼は自分が作り出した夢でなく、自分が現実逃避するうちいつのまにか彼の世界に迷い込んでしまったのではないかといつも思ってしまう。部屋の内装が変わるのもそうだ。例えば、新成の鼻先で自分の部屋にはない横長の小窓から白い光が差し込む。彼女はそこに置かれたサボテンをつつきながら、知らないと掠れた声で答えた。


「数えるのめんどい」


 ふん、と適当な返事が返ってくる。衣擦れの音の後、顔にかかっていた髪が彼に持ち上げられ、耳の後ろに避けられる。真っ黒で髪質のいい髪が自慢で、腰の近くまで長く伸ばしていた。


「……後輩の髪綺麗だねっつって勝手に触るのってセクハラに入るよね?」


「全部くくっちまえば? お団子」


「…………」なるほど、と検討してみるも、通勤時に地雷に触れる。新成は髪のことに関しては潔癖で神経質だ。「身長的に髪が男の人の顔に近くなるから無理」


「シビアだな」


 彼が笑い混じりに言い、またギターの音が再開する。静けさを鋭く破るようなものではなく柔らかい音だから、オルゴールのようだった。胸元に垂れた髪の束で三つ編みをしながら、呼吸も潜めて音で空虚な心を埋める。めちゃくちゃなチューニングの割に、彼の生む音には初心者のような躊躇いや不慣れ感はない。それに関しては皆無と言っていい。頭の中にある音と同じものを一つずつ探していくように、ひとりぼっちだった音が少しずつ手を取り始めるのは聞いていて心地良いものだ。


「アンタって普段何してんの?」


「ん?」


 ぽろ、とローテンポに続いていた音の波が止まる。


「ん? 何言ってんの?」


「そっちの世界でバンドとかやってたりすんの」


 何気なく投げた質問でありながら、ここまで踏み込んだことを聞くは初めてだった。答えと彼が居なくなる可能性を天秤にかけたというより、ただ彼が動揺していることの方が気になって、失敗したかな、と取り消そうか考える。しばらく途切れていた音が再開し、また小雨のような演奏を始めた。


「……ま、お前が考えたので合ってるんじゃね」


「世界的ミュージシャン」


「こんなめちゃくちゃな弾き方しといて?」


「否定すんのかよ」


 一拍置いて、新成は寝返りを打った。足元に彼が座っており、新成と同じ間取りのはずの部屋には趣味の良いインテリアばかりが置かれている。遮光カーテンの隙間から漏れる光が埃をきらめかせる。まだ外は明るいようだった。


「てか、めちゃくちゃな自覚あったんだ?」


「そりゃあ」


 新成的には変なことをしているから有名になってそうだと予想したのだけれど、適当すぎたかと少し頭を持ち上げ、苦笑する彼のシルエットに目をやる。逆光で表情は見えないが、光を透かした茶色い髪が輝くようになっているのが分かった。


「でもこれが俺の中でしっくりくるから」


「アンタまつ毛長いのねぇ」


「ああどうも。ふふ」


 きゅ、とギターが高い音を立てる。いわゆるフィンガーノイズというやつだ。もふ、と軽く浮かせていた頭を押さえつけられ、家の柔軟剤が布団から胞子が吹き出たように香る。新成がおとなしく布団に腕を回して目を閉じると、目元から頭の方へ彼の左手が髪をかき上げていった。人差し指と小指にはめられた幅広な指輪の硬い感触がこめかみに当たる。まつ毛が同じ色なあたり結構ヤンキーな髪色は地なのかもしれないが、何かゲームでも見本にしたのか、というぐらいロマン優先なテイストの部屋やアクセサリーの趣味はなかなかやんちゃだ。それがつられて似てきたのか、職場はそういったアクセサリーを禁止しているのにピアスに一目惚れした勢いで片耳に穴を開けてしまったのが最近の新成の(気に入っているのでさほど深刻ではない)悩みである。


「もう寝ろ」


「ぐんない」


「まだ夜じゃねぇよ」


 寝かせる気があるのかないのか分からないツッコミに内心でずっこけるが、まあいいかと再開したギターの音に身を委ねる。子守唄は時々ふわりと途切れて、ぞんざいに寝かしつけるように温かいものが新成の頰を小さく撫でた。それが何度か繰り返されるうち、体から力が抜け、まるで水の中に揺蕩っているような気分になる。身体を流れる鉛は新成の中から出ていき、代わりに静かな旋律が空白を満たした。

 最後のあぶくが彼女の唇から離れていく。


******


 すう、と浮き上がるような感覚とともに目を開き、新成は横向きのまま上体を起こした。寝付いた後はあのまま一日を過ごしたのか、暗い部屋にはかすかに朝の色が刷けていて、古い写真のようになっていた。寝起きの悪い彼女にしては明瞭な仕草で髪をかき上げ、ベッドの隅を見る。立ち上がるとカーテンと窓を開け、あくびついでに深呼吸をした。必要最低限のものしか置いていない部屋はほんのりと温かく、吹き込む爽やかな風が心地よかった。


 しばらく昨日し損ねた家事をしていたが、それも全て終えてしまい、暇だ、と彼女はゆっくりと朝食を食べながら自分の好奇心のなさを呪った。まだ出勤するにはずいぶん早く、時間はたっぷりとある。こういったとき、ここぞと趣味に没頭できるのだろうに。仕方なくいつもはほったらかす皿洗いをしたあと、わざわざ風呂を沸かして暇つぶしを作る。朝風呂に加え、新成の長い髪は乾かすのに時間がかかるため、髪がさらさらになる頃にはやっと普段準備を始めるくらいの時間になっていた。

 彼女はメイクを済ませた後、普段はくくらない長い髪を右の肩で束ね、しばらく時間をかけて三つ編みのお下げにした。ただまとめるのでは下ろしているのとほとんど変わらないし、お団子も地雷を踏むからどうにもできないかと思っていたが、胸に垂らし三つ編みで長さを省略してしまえば良い打開策になる。『悪魔』に漏らした一回だけではなく、セクハラにはしばらく悩まされていたのだ。我ながら良いことを思いついた。


「…………」


 だがどうも、新成の不機嫌そうな仏頂面に似合わない。愛想がなくても可愛らしい、『委員長』的な顔立ちなら長けりゃ太いこの三つ編みもどうにか調和するんだろうが、昔から実年齢より上に見られた彼女と幼いイメージのつく三つ編みはとてつもなくちぐはぐだ。あとなんか芋っぽい。思いっきり口をへの字にしながら左右にのけている前髪をいじり、額を隠すよう切ろうか考える。それか、これはもはや髪型ではなく僻んで諦めていた自分の美意識の問題か。

 一応新成もうら若い女性なのだ。なのでいつか、内側から年相応の可愛さが滲み出てくる、とほっぽりだして玄関の方へ行く。

 日常へ戻っていくスピードがあまりにも早くて惜しくなり、新成は玄関扉を押し開いた後、一度部屋の中を振り向いた。けれど、毎回こんなものかとすぐに前を向く。彼と話したって生活は少しずつしか変わらない。来年はどうか知らないが、明日も新成は社畜だろうから。


 次あいつに会ったら報告してやろ、と鍵を閉めながら思う。

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