ハラワタ喰い
咆哮。
喉から迸るは、まるで野生の肉食獣を思わせる重低音の叫び。
アドレナリンがドバドバと吹き出して、まるで骨格から自分の体が別の存在に書き換わっていくかのような錯覚を覚える。
「……なるほど、興味深いね」
落ち着いた様子でこちらを観察している柳に、俺は無意識のうちに犬歯をむき出しにした凶悪な笑みを向けた。
突進。
右手に固く握っていたナイフを真っすぐに突き出す。
視界の先で、柳がその細い左手をひらりと動かすのが見えたと同時に、自身の右手に感じる強烈な痛みと圧力。
視界が反転する。
気が付くと俺は事務所の床に仰向けに転がっており、右手に固く握っていたはずのナイフは俺を見下ろす柳の手にあった。
「危ない危ない、こんな無粋なもので殺されてしまったら興ざめだからね」
合気のような技だろうか?一瞬で凶器を奪われてしまった。
……しかしそれがなんだというのだろう?
目の前には夢にまで見た極上の肉がある。
あぁ、全身が熱い。まるで血液が沸騰しているみたいだ。
まるでバネ仕掛けの人形のように勢いよく飛び跳ねる。人間離れしたその動きに、柳は少し驚いたような表情を浮かべた。
ぎゅっと固く握りしめた右拳を、力任せに振り下ろす。
木の葉が風に揺られるように、重力を感じさせない軽やかさでヒラリとその攻撃を回避する柳。行き場を失った拳は、そのまま木製の机へと衝突し、硬質なその机をバラバラに粉砕した。
「……常人の膂力じゃあないね。コータロー、やはり君もこちら側の人間だったのか」
こちら側?
そんな疑問も一瞬で消える。
どうでもいい。ただ、喰らいたい……。
獣の俊敏さで飛び掛かる。なぜか今度は柳も抵抗せずに、うっすらと笑みすら浮かべながら俺を受け入れた。
柳の細い体を地面に押し倒す。
香水の甘い香りの奥に確かに感じる汗の匂い。ぐぅと腹が鳴る。 目の前の存在は神ではない。確かに人間だ。いかに高貴な生まれだろうが、仮に超常の力を持っていようが。
……ただの、人間だ。
互いの視線が交錯する。
「おいで、コータロー」
それは、愛しい我が子に呼びかける母のような、自愛に満ちた声音だった。
柔らかな肌に犬歯を突き立てる。
弾力のある肉がはじけ、口内が熱く塩辛い液体に満たされていく。
木製の机を容易く粉砕する膂力で、柳の体を引き裂き、獣のようにむさぼる。
何度ハラワタを喰らっても、毎回不思議な気分になる。温かく、生臭く、酷く暗い水の中を泳いでいるようだ。不快感は無い。むしろ母親の子宮に浮かぶ胎児のように、この瞬間だけ俺は俺という存在が守られていると感じられる。
薄暗い事務所。小さな窓から差し込んだ月光が二人を照らし出す。
死してなおこの世のモノとは思えぬ美しさでうっすらとほほ笑んでいる柳と、返り血で赤黒く染まった、この世の負を凝縮したかのように醜い自分の姿。
ガツガツとハラワタをむさぼり、俺は天を仰いで吠えた。
口から食べかけの肉片が飛び散り、目から一筋の涙が流れ落ちる。
俺は今……僕は今、神を地に貶めた。
「私は美味しかったかい?コータロー」
ポンと僕の肩に手が置かれる。
振り返ると、その先には当たり前みたいに傷一つない柳隆一が立っていた。
先ほど柳が倒れていた場所を振り返る。
そこには汚れ一つない事務所の床が、月光に照らされている。
「ひどいことしますねヤナさん……あんな極上のハラワタを喰った後じゃ、他の人間なんて馬鹿馬鹿しくって喰えたもんじゃない」
僕は苦笑いをしながら立ち上がった。
「やっぱり本物だったんですね。柳家の”呪い”ってのは」
「最初から疑ってなんていなかったんだろう?君だって同類なんだから」
「そうですね……それで、どうするんです?」
「どうするとは?」
「ほら、連続殺人鬼が目の前にいますよ。ここは探偵としても、善良な一般市民としても警察に突き出すべきでは?」
「確かにそうだ。だけど私はこう見えて善良な市民とは言えなくてね」
クククと笑いながら柳はそういう。
「では探偵としては?」
「別に依頼を受けたわけでもないしな」
「……ふふ、では目の前の哀れな殺人鬼をどうするおつもりです?」
おどけたようにそう言った僕の頬に、柳はそっと柔らかな手を添えた。
驚く僕にかまわず、グイっと顔を近づけた柳のその漆黒の唇が僕の唇と重なる。
永遠にも感じられる数秒の後、ゆっくりと唇を離した柳がとろけるような甘い声を僕の耳元にささやく。
「言っただろう?私は君の顔が好きだと。いくら裏切ってくれてもかまわない。いつでも、どんな事でも私は君を受け入れるよ」
窓から差し込んだ銀色の光が、スポットライトのように柳の顔を照らし出す。
「いつでも私を喰らいにおいで、雇用契約は継続だ」
その言葉に、僕の口角も歪にゆがむ。
「ふふ……ふふふふふふ。イカれてますね、正気ですか?」
「どうだろう?あいにく自分が正気かどうかなんて興味がないんだ」
そう言って柳も歪な笑みを浮かべる。
鏡合わせのように笑う僕たちを、ただ月だけが見つめていた。




