13.黒猫の説得
深い眠りが微睡みへと移り変わる時、目覚めかけた私の意識に届いたのは、覚えのある甲高い声だった。誰の声だっただろう。そんな事をぼんやりと考えているうちに、違和感を覚え、私はふと目を覚ました。
暗闇から視界が解放され、映り込む景色に軽く頭が混乱する。だが、それらの戸惑いも薄れていき、私はようやく自分が無意識に歩かされていたことに気づいた。見えたのは、ルージュの後ろ姿だった。私の手を握り締め、引っ張りながら前へと進んでいく。
その背に、異様な安堵感を覚えかけていたことに気づき、私は立ち止まりかけた。しかし、それを咎めるようにルージュはぎゅっと手を握ってきた。
従わねば。再びそう思った時、ふと私の足元を掬うように、何かが通った。柔らかく、くすぐったい感触に再び目を覚まし、私はようやくその存在に気付いた。
猫だ。黒猫だ。
「ダイアナ……」
その名を口にした時、ルージュの手に再び力が入った。機嫌を損ねている。すぐに理解した。だが、今度はその静かな命令に従わずに済んだ。
金色に光るダイアナの猫の目に魅入られていたからだ。彼女もまた魔女らしく、私に呼びかけていたのだろう。
「気づいたのね、カッライス」
ダイアナはそう言うと、ルージュの様子を警戒しつつ、私に訴えてきた。
「すぐに止まって。その手を振り払うの」
だが、その力強い呼びかけを、ルージュは制してきた。
「ダイアナ。いい加減になさい。あなたのための忠告よ。来るべき処刑の時は、なるべく楽に殺して欲しいでしょう?」
脅すようなその言葉に、ダイアナは怯えを見せる。
けれど、屈することなく、私に再度呼びかけてきた。
「まだ諦めちゃダメ。その秘術だって絶対じゃないの。吸血鬼は全知全能の神ではない。敵わないと思ってしまうから、乗っ取られてしまうってだけ。ねえ、カッライス。その人を仕留めるのでしょう? そう言っていたよね」
ダイアナの呼びかけに、私の心身が震える。
そうだ。立ち止まらなきゃ。そんな意思が芽生えたかと思った時、ルージュが不意に振り返り、真っ赤な目で私を見つめてきた。
鋭いその視線と目が合ったその瞬間、心臓を鷲掴みにでもされたかのような苦痛が生まれ、呻いてしまった。直後、私の心を支配したのは、ルージュにとって都合のいい負の感情ばかりだった。
「……駄目だ。抗えない」
私がそう言うと、ルージュは満足したように再び前を向いた。そんな私たちを、ダイアナは納得できない様子で見つめてきた。
「どうして」
縋るように問いかけてくるダイアナに、私は答えた。
「私はこのまま消えた方がいいんだ。それが、アンバーの為になる。あの村にさえいれば、アンバーは安全に過ごせる。だから──」
「駄目……駄目よ。カッライス、よく聞いて。今の言葉はあなたの本心じゃないはず。あなただってアンバーと一緒にいたいでしょう? それでいいの。何も悪い事じゃない。だから、止まって! あなたにはアンバーが必要なはずよ!」
ダイアナの言う通り、私だってアンバーと一緒にいたかったはずだ。それなのに、この時はどうしてもそれを認めることが出来なかった。
ルージュの仕業なのだろう。しかし、それだけではないだろう。これもまた、私の心にあった、私自身の迷いでもある。
何度も思い出すのはアンバーと最後に交わした会話だ。彼女はずっと人間であろうと過ごしてきた。それなのに、私は彼女をやっぱり魔物として扱ってしまう。人間として見てもいいのかどうか、迷ってしまうのだ。
それは、彼女の幸せを思うからだと信じてきた。でも、それだけではないのではないかと思うのだ。私はきっと、責任を負うのが怖いのだろう。アンバーの未来を共に担う覚悟から、逃れたいと思っていたのではないか。
否定できないものがそこにはあった。アンバーの事を愛していると信じていながら、ルージュの指輪を手放せなかったのだって、秘術のせいばかりではなく、自分自身が何処かで望んでいたからなのではないかと。
「……私のことはもういい」
私は静かにダイアナに言った。
「君はアンバーと一緒にいて。ドッゲが彼女を見つけてしまわないように、彼女を守ってあげて欲しい」
「カッライス……」
私の言葉にダイアナが動揺を見せたその時だった。わずかな隙が生まれたのだろう。ルージュが突然振り返り、ダイアナに向かって右腕を振り上げた。
かつて私がつけた古傷のせいで、ろくに動かない様子の右手だが、それでも大雑把には動くし、魔術は操れるのだろう。
何処からともなく召喚された蝙蝠の幻影が、ダイアナを襲おうとした。すんでのところでダイアナはそれをかわす。だが、私たちから距離を離された途端、霧がさらに濃くなった。
「待って……待って……」
猫の姿のまま焦る彼女を振り返るも、止まることは出来ない。ルージュに引っ張られるままに、私は歩み続けていた。
「待って、カッライス、お願い止まって!」
追いかけようとするダイアナを、蝙蝠の幻影はさらに妨害する。
噛みつかれれば、ただでは済まないのだろう。ダイアナはその術を恐れ、後ずさりをした。それでも、諦めきれなかったのだろう。
猫の目で私を引き留めるように見つめ、やがて大声をあげた。
「お願いだから、止まって!」
そして、彼女は声を震わせながら叫んだ。
「アンバーにだって、あなたが必要なのに!」
あまりに強いその呼びかけに、立ち止まりそうになる。けれど、出来なかった。霧はどんどん濃くなっていく。足止めされたダイアナを包み込んでいって、やがて見えなくなってしまった。
ルージュの歩みは止まらない。視界が遮られる中で、迷いなく進んでいく。そんな彼女に引っ張られながら、私はずっと見えなくなったダイアナの面影を求め、振り返り続けていた。
私もまた、本当は諦めきれなかったのだろうか。そんな私に、ルージュは囁くように声をかけてきた。
「迷う事はないわ。これでいいの。全てが正しい場所に収まったというだけ。あなたさえ、従順なら、ダイアナの事もある程度は許してあげましょう。惨い死に方をする可愛い猫の姿なんて見たくないでしょう? 私も出来ればそんな事はしたくない。全ては、あなたの決断次第よ」
責めるようなその口調に脅されるままに、私は俯いてしまった。
「言う事を聞く……だから、ダイアナを許してあげて」
武器もなく、術も破られた今、私を護るものは何もない。
本来の私は魔物相手に戦う狩人の器ではない。彼女の奴隷でしかない。彼女こそが唯一無二の主人として認め、屠られるその日まで大人しく付き従う存在でしかない。時間が経てば経つほど、その本来の役目を心身が思い出していく。
吸血鬼なんて、武器がなくては勝てる相手ではない。一方的に囚われ、殺されるだけ。これまでだってそうだったのだろう。一矢報いることが出来たのが奇跡だっただけ。結局は、遅かれ早かれこうなっていたのだ。
そもそも本当は、いつかこうなるために、私はルージュを追いかけていたのではないか。
それは、アンバーにも、ダイアナにも疑われたことだった。そうではないと必死に否定してきたが、こうなってしまえば分からなくなってくる。
だって、ルージュに連れられて向かうこの道が、私の命を奪う屠殺場へ続く道なのだとちゃんと分かっているはずなのに、歩みが全く止まらないのだから。
「いい子ね、カッライス。どうか怖がらないで。すぐに命を奪ったりはしない。しばらくの間、あなたには安らぎをもたらしましょう。緊張の絶えない暮らしだったでしょう。ただの人間、それも肉の柔らかい女の身で、魔物と戦うのは恐ろしかったはずよ。でも、それも今日で最後。しばらくは月光の城で、いずれはハニーのもとで、少しずつ馴らしていってあげる。最期には恐怖も残らないわ。あなたの生みの母親のように、幸福と悦楽に包まれたまま、逝かせてあげる」
きっと、その言葉通りの未来が、私に与えられるのだろう。
抗う気にすらなれないまま、私はそんな事を薄っすらと実感していた。




