11.恐ろしい議論の果てに
クレセントに連れられて向かったのは、村の片隅だった。
段々と小屋が遠ざかるにつれ、ダイアナが去り際に言った忠告を思い出してピリピリしてしまう。武器を持っていないせいもあるだろう。
だから、少しだけ距離を取って、彼女についていった。クレセントはそんな私の警戒心に気づいていただろう。だが、特に気にせぬ様子で前を歩き、私に話しかけてきた。
「霧が深くて分かりにくいですが、まもなく夕暮れ時です。今宵、最後の宴が開かれます。そして、明日になると広場の案山子を燃やして、祭りの全てが終了するのです」
落ち着いた様子だが、わざわざ呼び出してまで話したい事というのはそれではないはずだろう。私はそっとクレセントに問いかけた。
「話したい事ってなんですか?」
すると、クレセントは振り返り、静かにするようサインをしてきた。
「それについては、もう少し進んでから」
そう言って、彼女は再び歩き出した。
村の中心から遠ざかり始めている。ろくに荷物も持たずに来てしまった事を後悔した。鍵をかけてきたのは確かだが、それだけにアンバーの事が気になった。
「あの……クレセントさん?」
再び問いかけると、クレセントは立ち止まり、そっと前方を指さした。
「どうか、そちらへ」
その短い指示に、私は迷ってしまった。従う義理なんてない。だが、クレセントの様子は、逆らう事を許さないようなものでもあった。
おずおずと言われた場所へと一人で歩み、そして振り返る。クレセントは一歩も動かずに私を見つめると、表情を崩さぬまま口を開いた。
「お話というのは、あなたの今後についてのことです」
「私の今後……?」
意図をうまく掴めず訊ねると、クレセントは少し冷たい声で言った。
「単刀直入に申しましょう。カッライスさん。今すぐに、この村から出て行ってください」
「え……?」
戸惑ってしまった。思ってもみなかった言葉だったからだ。
何より、突然すぎる。荷物も持ってきていないし、祭りも終わっていない。霧だってまだ晴れていないのに、どうしてそんな事を言うのだろう。
動揺のあまり上手く答えられない。そんな私に対し、クレセントはやや態度を和らげて補足してきた。
「これには事情があるのです」
その言葉に私もまた少し冷静さを取り戻し、まずは確認した。
「何があったんですか?」
すると、クレセントは初めて表情を濁らせた。言いづらい事なのだろうか。だが、彼女は隠すことなく答えてくれた。
「あなた方をこの村に招き入れて以来、村の者たちの間でたびたび激しい議論が起こりました。内容は、あなたを巡ってのことです」
「私を……?」
「奇しくも今は祭りの時期。前にお話したように、この祭りは大地の恵みに感謝するものです。豊穣の神へ感謝する祭りですが、美味しいものをいただく日でもあります。我々もまた人間と同じように作物を育て、家畜を育て、食べておりますので、ご馳走は主にそこから生じます。けれど、それだけではありません。我々は人狼なのです。心より欲しているのは、あなた達人間の新鮮な血肉なのですよ」
クレセントの言わんとしている事がようやく分かり、私は黙り込んでしまった。そんな私の反応に、クレセントはやや目を細めて見せた。
「お分かりいただけましたね。都合よく迷い込んできたあなたを食べてしまうかどうか、村の者たちの間で意見が割れていたのです。同胞であるアンバーの事を想い、反対する者も複数おりました。モネやチャンドラ、それにルナの両親などがそうです。けれど、全体としては、せっかくの恵みを食べたいと希望する声の方が多い。人間の血肉──それも、若い女性のものとなれば、食べられる機会も限られているので、飢えている者が多いようなのです」
モネが私のことを心配していたことを思い出す。今思えば、この議論のせいだったのだろう。だが、他に誰が反対し、誰が賛成しているのか。それについて考え続ける余裕もない。重要なことは、このまま村にいれば、殺されてしまうという事だ。
「エクリプスは村の代表として、民意を重んじるつもりでいます。けれど、私は違います。民意も勿論、大事です。けれど、それよりも優先して考慮すべき事だってある。今回の場合は、この村の安全に直結する問題が含まれていたのです」
「……問題って?」
「あなたが、ただの迷い人であったならば、私もこんな手段は取りませんでした。何も言わず、あなたが肉にされるところを見届けたでしょう。けれど、今回はそういうわけにはいきません。短絡的にあなたに手を出すことで、敵に回してしまう方がいるのです。私はその方との争いを望んではいません。だから、今のうちに出ていって貰いたいのです」
それが誰の事なのか、クレセントの暗示する人物が私には分かった。すぐに気持ちを切り替えて、私はクレセントに答えた。
「分かりました。私だって食べられたくはない。すぐに出ていきます。ただ……アンバーは何処です? 彼女にも伝えなくては。それに小屋に残した荷物も取りに行かないと」
と、一歩、クレセントの方へと踏み出そうとしたその時だった。不意に、私は背後の冷たい気配に気づいた。ついさっきまではなかったその気配。漂い始める恐ろしい緊張感に、体が凍り付いてしまった。
振り返るのが怖かった。それどころか動くこと自体が怖い。だが、動かなければ。どうにか藻掻かなければ。そう焦っているうちに、背後に現れたその人物に、後ろからそっと抱かれてしまった。柔らかなその感触。遠慮もなく触れてくるその手が誰のものなのか、私はすぐに理解した。
「……ルージュ」
その匂いと振り返らずとも分かる眼光に、鳥肌が立つ。震えたまま、私はどうにか顔を動かし、クレセントへと視線を向けた。クレセントは私を見つめ、そっと笑みを浮かべた。
「アンバーはもうこの村の一員です。なので、伝える必要はありません」
「クレセントさん……!」
「申し訳ありませんね、カッライスさん。これも村を守るためなのです。ここは老人や小さな子供もいる村です。皆を守るためには、強い相手とは友好的であらねばならない。だから、あなたの身柄はその方にお譲りいたします」
彼女の言葉を聞いて、私を抱く者が笑みを漏らした。
「賢い御方ね。そう思わない、カッライス?」
うっとりとしたその声は、聴き間違えようもない。やっぱりルージュだ。とんでもない罠に嵌められた。そのショックも大きいのだろう、抱擁から逃れることが全く出来なかった。
それどころか、顔を見るために振り返る事も出来ない。触れられた場所の古傷が疼き、そのたびに、喜びと恐怖が入り混じる。触れられているだけなのに、早くも精神がおかしくなりそうだった。そんな中、ルージュは私に言った。
「荷物の事はご心配なく。もうあなたには要らないものばかりよ」
逃れることは、結局、出来なかった。
「あっ──」
強い痛みと刺激が首筋にもたらされ、短い悲鳴が口から漏れた。古傷をなぞるように噛みつかれ、血を奪われていく。意識が薄れていく中、膝から下の感覚が急速に奪われていく。立っているのが途端に辛くなり、ぐったりとする私を、ルージュは抱きかかえながらなおも血を吸い続けていた。
──このままじゃ、殺される。
そんな危機感に取り憑かれた頃になって、ルージュはようやく牙を離した。がくりと体の力が抜けた。そのまま倒れそうになったが、強い力で腕を掴まれ、宙づりになる。苦しくて気を失いそうだった。けれど、異様な焦燥感に駆られ、私は必死に耐えていた。
「……苦しいのなら、そのままお眠りなさい」
ルージュの言葉を受け、ますます体が強張った。ルージュの囁きに従おうと、瞼が何度も落ちてこようとしていた。だが、その度に、私は抗った。もしもここで眠ってしまったら、私の心身は完全に乗っ取られてしまうだろう。そんな恐怖が沸き起こり、私は必死に意識を保とうとしていた。
まだ諦めては駄目だ。まだ逃れる術が何処かに残っているはず。起きてさえいれば、好機が来るはず。根拠もないまま、そう信じながら必死に抗っていると、ルージュは呆れたように溜息を吐き、その眼差しをクレセントへと向けた。