9.人狼たちの祈り
アンバーがモネを連れてきたのは、それからしばらく後の事だった。
彼女もまた類に漏れず、姿が変わっていた。白髪交じりの狼の姿は、人間だった頃の彼女と目の色や髪の色といった特徴だけが一致している。
喋ってみてようやく彼女であることが分かったので、やはり一人で捜しだすことなんて出来なかっただろう。
私がお礼を言うと、モネはいつもの調子で答えてくれた。
「よかったわ。気に入ってくれて。明日はちゃんとお料理を持ってきますからね」
優しいその言葉が、揺らぎ続ける私の心をだいぶ癒してくれた。
モネに限らず、この村には私に対しても良くしてくれる住民がいる。けれど、そうでない者もいると教えられた通り、遠巻きに私を見て、何やら陰口を囁き合っている狼たちの姿もたびたび視界に入った。
彼らが何を話し、どんな感情を私に対して抱いているのか、モネもまた知ってはいるのだろう。穏やかな口調のまま、彼女は私に言った。
「今宵の祭りが本番なんですけれどね、それだけに気が大きくなる若者もいるのですよ。祭り自体はぜひ見ていって欲しいのだけれど、くれぐれも気を付けて。あまり親しくない狼には呼ばれてもついて行かないようになさってね」
言葉を選んではいたが、切実な思いが込められているような忠告だった。絶対に守ってもらいたいのだろう。その思いを受け止め、私は静かに頷いた。
さて、そのようにして、いよいよ祭りの本番とやらは始まった。太陽が落ちる頃、村の狼たちが広場に集まると、霧がかかってもなお明るく見える満月を仰ぎ始めた。そして、人間らしい挨拶もないまま、中央でエクリプスが吠え始めると、周囲にいた狼たちも次々に吠え出した。
夜の森に響くその遠吠えは、一度でも野犬や狼、あるいは人狼に襲われたことがある者ならば恐ろしくて震えあがっただろう。だが、今に限っては、その正体が誰なのかはっきりしていたからだろうか。私の目にも美しく、幻想的なもののように感じられた。
遠吠えが続く中、遠巻きに見物していた私たちのもとへチャンドラがそっと近づいてきた。アンバーに用があるらしい。
「君も一緒にどう?」
そっと声をかけられ、アンバーは迷うように私を一瞥した。背中を押すように頷くと、アンバーは安心したようにチャンドラについて行った。
難しい事は何もない。人狼に生まれたならば、感覚で分かるのだろう。アンバーが新しく遠吠えに加わると、その旋律はより美しいものになった。やがて、狼たちは吠えながら走り始め、踊るように跳ね始める。昨晩は楽器のある人間らしい演奏だったが、今宵は楽器のない野性味あふれる演奏だ。その中に、アンバーは実に楽しそうに加わっている。
私はただそれをじっと見ていた。輪に加わらず、見物者に徹し、祭りを楽しむアンバーの事を見守っていた。
楽しそうな彼女の姿を見るのは嬉しい。だが、嬉しい反面、複雑な気持ちになってしまう。
本当に、一緒にここを去っていいのだろうか。アンバーは無理をしているのではないだろうか。彼女がどんなに否定しても、その疑いを晴らすことが出来なかった。
夜が更けていくと、村の者たちの遠吠えは少しずつ減っていった。やがて、子供たちが眠る時刻となった頃に、アンバーは私のもとへと戻ってきた。
「もういいの?」
そう訊ねると、アンバーはちらりと振り返った。まだまだ暴れたりないと思しき大人の狼たちは眠る気などさらさらない。その様子を名残惜しそうに見つめてはいたが、断ち切るように溜息を吐いてから、彼女は私の問いに答えた。
「忠告があっただろう。クレセントさんが教えてくれたんだ。そろそろ小屋に戻った方がいいってさ」
その言葉を聞いて、私は初めてぴりぴりとした空気に気づいた。
この場にいる狼の中には、私のことを客人などと思っていない者もいる。その心情を眼差しで察し、私は静かに立ち上がった。
「分かった。そろそろ寝よう」
そのまま小屋に戻り、扉を閉めてしまうと、途端に疲れを感じた。きっと緊張していたのだろう。それにホッとしたのかもしれない。攻撃してくる者はいないと分かっていても、人狼に囲まれていたのだ。無意識のうちに心労がたまっていたようだ。
今宵はぐっすり眠れそうだ。そう思いながら、すぐさま寝支度を済ませてベッドに入ったのだが、なかなか眠ろうとしないアンバーの姿に気づいた。窓の外を眺め、村の様子を確認しているらしい。
「……アンバー。君は祭りに戻ってもいいんだよ」
そう声をかけると、アンバーは慌てたように窓から離れた。
「いや、寝るよ。十分楽しんだ」
そう言って、彼女はベッドの上に力なく寝そべったのだった。
やっぱり無理をしている。そう思ったのだが、疲労は睡魔となって襲い掛かってきた。ろくに話すことも出来ないまま、私はそのまま眠りに就いてしまった。
そして、翌日。祭りの記憶と心細さとが入り混じった悪夢に魘されながら目を覚ましてみれば、人間姿のアンバーが窓の外を眺めているのが見えた。
「起きたか」
おはよう、の前に、彼女は言った。
「随分苦しそうだった。嫌な夢でも見たの?」
「……覚えてないや」
そう答えつつ、私は頭を抱えた。夢の内容は思い出せないが、もやもやとした感情はいまも心に残っている。疎外感というやつだろうか。スッキリしない目覚めだった。欠伸ではなく大きく溜息を吐く私を振り返り、アンバーは言った。
「焦っているのかな。安心しなよ。祭りは今日で終わりだ。明日以降には霧も晴れるはずだから」
「……うん」
頷いたものの、やっぱり心は晴れない。そんな私の表情が気になったのだろう。
「どうしたのさ?」
と、アンバーは訊ねてきた。
「ねえ、アンバー。本当にいいの?」
私の言わんとすることは分かっていただろう。けれど、アンバーは溜息を吐き、目を逸らしてから問い返してきた。
「何が?」
「……分かっているくせに。この村の事だよ」
「前も言っただろう。霧が晴れたら出ていく。他ならぬアタシが決めたことだ」
「だけど……昨日の君はすごく……幸せそうだった」
私の言葉に、アンバーは黙り込んでしまった。視線を逸らし、小屋の外を見つめたまま、ぴくりとも動かない。そして、しばしの間、耐え難いような沈黙が流れたかと思うと、深呼吸をしてからアンバーは言った。
「そんなに楽しそうだったかな」
「楽しそうだったよ。今まで見たことがないくらい、解放的だった。君も自覚しているんじゃないの? この村こそが、君のいるべき場所なんじゃないかって」
私がそう言うと、アンバーは再び考え込んでしまった。
見慣れた姿が他人のようだ。これまでにない距離を感じたまま見守っていると、アンバーは琥珀色の目をちらりとこちらに向けた。
「あんたはどうして欲しいんだ。アタシに残ってほしいのか。思い返せば最初から、ついて来ることが疎ましそうだったね。なし崩し的に従わされた事も不満だったんじゃない? 支配から解放してほしい。そう思っていたりする? 殺されるのだとしても、あの女のもとに戻りたいって」
「……そ、それは」
言葉に詰まってしまう私を見て、アンバーは再び視線を逸らした。そのまま天井を仰ぎながら、椅子にもたれかかる。
「アタシさ、時々思うんだ。あんたの未来はどっちみち閉ざされているんじゃないかって。つまり、アタシに殺されるか、あの女に殺されるかのどっちかなんじゃないかって。今、あんたにどっちがいいか聞いたって、アタシを選んでくれるだろう。でも、それは本心じゃない。アタシの術によるものだ」
「アンバー……私は……」
「勿論、そんな未来にならないように努力してきたつもりだ。魔物として生まれようと、人間として生きるんだって頑張ってきたつもりだ。でもさ、共に歩んでくれるあんたがアタシを魔物としてしか見ていないのなら、そんな努力も無駄ってことだよね」
「アンバー……」
彼女の言動に私は焦った。なんとか弁解しようとするも、言葉が出てこない。焦るうちにアンバーは椅子から立ち上がり、私に言った。
「ごめん、カッライス。今日は一人でいさせてくれ」
そのまま、彼女は小屋を出ていってしまった。
ああ、まただ。また喧嘩をしてしまった。せっかく仲直りできたと思ったのに、結局、私の手で台無しにしてしまった。後悔をいくらしたところでアンバーは戻ってこない。それだけに堪えていた涙がどっと溢れてきてしまった。
泣いたって何にもならないのに。涙は止まらない。それが、惨めでならなかった。