4.人狼の居場所
霧が晴れないまま、その日は結局一泊することになった。食事がいいのだろうか。どうやらアンバーはいつものように狩猟本能を満たす必要がなかったらしく、何もしてこなかった。お陰でぐっすり眠れたのだが、それだけにそこはかとなく寂しさを覚えてしまったのも正直なところだ。
念のため断っておくが、それが不満というわけではない。アンバーが必要ないならば、それでいいはずだ。だが、どうしても不安になってしまったのだ。ここにいる限り、アンバーは落ち着いている。それはつまり、私は必要ないという事なのではないか、と。
朝食時、何故かもやもやとしてしまう気持ちのまま、私はふとアンバーに声をかけた。
「昨日の散歩は……なかなか長かったね。村はどうだった? 面白いところとかあった?」
すると、アンバーは寝ぼけてでもいるかのように何処か上の空といった様子だったが、一応、返事をしてくれた。
「……モネとまた話してみたんだ。息子さんの事を詳しく聞きたいって。そしたらさ、その息子さんのお嫁さん側の親戚も紹介してくれたんだ。チャンドラっていう同じ年頃の青年でさ、二人の甥っ子にあたるんだってさ」
随分と遠回しな言い回しだ。けれど、言わんとしている事はよく分かった。
アンバーだって分かっていてそんな言い方をしたのかもしれない。けれど、私は敢えて、誤魔化さなかった。
「じゃあ、もしかしたら、君の従兄弟なのかもしれないね」
はっきり言ったのが意外だったのだろうか。
アンバーは驚いたように私の顔を凝視してきた。だが、じわじわと落ち着きを取り戻すと、深く溜息を吐いて頷いた。
「そうかもしれない」
いつものアンバーじゃない。このやり取りだけで十分思い知らされた。
アンバーもまた迷いがあるのだろうか。そんな彼女を目の当たりにしていると、一刻も早くこの村を出ていきたくなる。
だが、同時に、そんな事をつい祈ってしまう自分に嫌気がさした。ここはアンバーの故郷かもしれない。アンバーにとって大事な場所かもしれない。それなのに、私はなんてことを祈ってしまっているのだろう。
この村に、人狼たちに、アンバーを取られてしまうような気がして怖かったし、怖いと思ってしまう自分の身勝手さに辟易した。
「滞在が延びるのはあまり良くないね」
ふと、アンバーの方がそう言った。
「ここにいると、自分が人狼であることを思い出しすぎてしまう。飯は美味すぎるし、皆、優しすぎる。狩人としての腕だって鈍っちゃうよ。少しでも霧が晴れたらすぐに出ていこう。それまでの辛抱だ、カッライス。あんたは昨日と同じようにここで待っていてよ」
「……うん」
反論する気にもなれず、私は素直に頷いた。
私が一緒にいない方が、都合がいいのだろう。単純にそう思ったのだ。それに対して嫉妬したり、怒りを覚えたりすることも出来ない。
指輪の事で負い目があったせいでもあるが、それ以上に、出会ってからこの日まで、アンバーの苦悩を目の当たりにしてきたせいでもある。
ここは、アンバーが無理をせずに過ごせる貴重な場所でもあるのではないか。その思いが、私をさらに悩ませていった。
そんな悩みを反映しているかのように、霧は全く晴れなかった。
村にいる分はいいが、森に出て、月光の城を目指すとなるとやはり危ないらしい。その旨を伝えてくれたのは世話を焼いてくれるモネではなく、クレセントと、彼女の乳兄弟でもあるという村長のエクリプスという男性だった。
エクリプスの髪は黒く目は深い闇のような藍色だ。闇夜を思わせるその風貌は、険しさと美しさを兼ね備えている。クレセントとは色々な意味で対照的な印象の人物だった。
「今かかっている霧の事ですが、実のところ、ただの霧ではありません」
エクリプスは私たちに説明した。
「もうすぐ、年に一度の祭りがありまして、この時期になると都の人間たちがむやみやたらとこの村に近づかないよう、霧を起こすことになっているのです。残念ながら、一度起こした霧は、祭りが終わるまではらう事が出来ません。申し訳ありませんが、晴れるまでにはあと数日かかる事になります」
「……道理でなかなか晴れないわけだ」
アンバーがぼそりと呟き、すぐに問い返した。
「祭りっていうのは?」
「大地の恵みに感謝する祭りです」
答えたのはクレセントだった。
「毎年この時期の満月の前後に開催される夜の祭りで、三日に渡って村の者たち全員で宴を開くのです」
「もしも興味がございましたら、お二人ともご参加なさってはいかがでしょう」
見た目に反して、柔らかな口調でエクリプスが言った。
「何か練習が必要だとかそう言う事もありません。ただそこにいて、見物しているだけでもいい。……ただし、約束していただきたいことがあります」
「約束?」
私が問い返すと、エクリプスは漆黒の目をこちらに向け、こくりと頷いた。
「あなた方が正式な組合に所属する狩人であることはすでに聞いております。きっと村の外では、我々の同胞を殺したことだっておありでしょう。その事についてとやかく言うつもりはありません。ただ、配慮していただきたいのです。この村に暮らしているのは、年寄りや子供たちも多い。皆、争いを好まず、物騒なものを恐れます。だから、ここに滞在なさる間、危険物はこの小屋から持ち出さぬようお願いできないでしょうか」
それは、承諾するには躊躇いのある申し出だった。ペリドットのもとで修行するようになってこちら、武器となるものの一切を手放したことはなかったはずだ。
目立つ武器はどこかに隠したり、預けたりしたことはあったが、必ずナイフなどを忍ばせていた。しかし、この村に暮らす者たちは異常なまでに鼻の利く者ばかりだ。そんな事をすれば、たちまちのうちにバレてしまうだろう。
──そうなれば、アンバーの印象だって傷つくかもしれない。
静かに悩む私の横で、アンバーは溜息交じりにエクリプスに言った。
「言いたいことは分かるのだけれど──」
断ろうとしている。
だが、彼女が全てを言い切る前に、私は口を挟んだ。
「承知しました」
「……お、おい!」
すぐにアンバーが咎めてきたが、エクリプスもクレセントもホッとしたように溜息を吐き、私たちに告げた。
「ご理解いただきありがとうございます。では、私たちはこれで」
そそくさと立ち去っていく彼らをアンバーは茫然と見送った。だが、扉が閉まるなり、彼女は我に返り、私の胸倉に掴みかかってきた。
「何考えているんだよ。勝手に承諾しちまってさ」
「承諾したってしなくたって、私が一人でほっつき歩くことには反対なんだろう?」
その主張が皮肉めいたものになってしまったことについては、弁明の余地はない。この時、私は葛藤していた。
間違いなく彼女はここにいた方がいい。その思いが強まれば強まるほど、突き放さなければという思いがこみ上げてくる。本心はそんな事したくないのに、そうしなければならないという責任感のようなものが沸き起こり、葛藤を呼ぶ。
その結果が、この態度だ。
「私のことは心配しなくていい。せっかくの機会だしさ、君は……祭りに参加したらいいよ」
震える声で私はそう言って、そのまま目を逸らした。
当然、このまま喧嘩をするつもりもない。私の様子を見て、アンバーにもその意思は伝わったのだろう。
しばらくの間、無言でこちらを睨みつけていたが、やがて、苛立ちを露わに私の体を解放し、彼女もまた視線を逸らしてしまった。
「……怒鳴って悪かった。もう閉じ込めたりしないよ」
アンバーはそう言うと、そのまま私を残して小屋を出ていってしまった。
やってしまった。
扉が乱暴に閉まる音を聞きながら、私はただただ自己嫌悪に陥った。心も体も重たさを感じながらどうにか立ち上がり、溜息交じりに椅子に座る。
一人きりになった私の思考に浮かぶのは、アンバーへの罪悪感ばかりだった。
──どうしよう。
答えなんて出るわけもない状態で、ただただ悩み続けていると、不意に、小屋の扉が再び開いた。
アンバーが帰ってきた。そう期待して視線を向けてみたが、姿は見えない。一瞬不思議に思ったのだが、すぐに理解した。扉を開けた者の背が、思っていたよりも低いだけだった。
村の子供だ。アンバーにどこか似た目がこちらを見つめている。
「君は……確か、ルナだったね」
覚えのあったその名前を呼ぶと、その少女──ルナは嬉しそうに目を輝かせた。