2.霧に惑いながら
月光の城は近くて遠い。一直線に進めるのであれば、そう時間はかからないだろう。けれど、その城を取り囲むように生い茂る森林には、よく霧がかかるという。視界が悪いからだろう。真っ直ぐ進んでいるつもりがいつの間にか道を踏み誤るということも多いらしい。
方位磁石もあまり役に立たないらしい。磁場の影響か、はたまたこの近くに巣食う人狼たちの仕業か、針が時折狂ってしまうのだとか。そのため、都から出発し、森に足を踏み入れるだけでも相当な神経を使うことになる。
今回はそうした状況に重なるように、さらに神経をすり減らす事態になってしまった。
探していた指輪が見つかった。それは間違いなく朗報ではあるが、望んでいた形ではなかった。今、あの指輪はアンバーの服のポケットの中にある。つい、そちらに注意が向いてしまう度に、何かを悟ったようにアンバーは度々私を振り返った。
「観光ガイドの人が言っていたけれどさ、日没には都に戻れるように動いた方がいいって。時計も狂うことがあるそうだから、常に空を見ておくようにだとさ」
と、アンバーはいつもの調子でそう言った。
朝からずっとこうだ。まるで何事もなかったかのような表情と口調で、彼女は私に接してくる。ただ一つ、指輪の事を除いては。
「夜はルージュの方が有利だからね。ぜひ、その通りにしよう」
そう言いつつ、私は別の事を考えていた。
どうするべきか。どう接するべきか。
あの指輪を返してもらいたい。それが私の本心だ。だが、言い出すのが少し怖かった。アンバーの真意が分からないのだ。
怒っているのは間違いないだろう。しかし、指輪について触れようとはしないし、切り出しては来ない。私がそれとなく言おうものなら、別の話をし始める。その調子ですっかりアンバーのペースに惑わされてしまっていた。
けれど、どうにかしないと。
「……ねえ、アンバー。あの指輪の事なんだけれど」
「カッライス」
黙れと言わんばかりに彼女は私の名を呼んだ。
「今日の予定だけれど、月光の城を近くで眺めたら、すぐに帰ろう」
「で……でも」
「分かっているさ。あの女を仕留めたいんだろう。でも、こっちから行くことはない。それに、この森はやっぱり長居するべきじゃない。狼のニオイが充満している」
恐らく、ダイアナが言っていた人狼たちのものだろう。そこに嘘はなさそうだ。どちらにせよ、あまり強気になれなかった。アンバーを怒らせたくなかったのだ。
それでも、焦りは募っていく。もどかしさに震えていると、アンバーは呆れたように大きく溜息を吐いて、こう言った。
「どうせあっちから来るさ。昨晩だって……」
「昨晩?」
問い返すと、アンバーは溜息を吐き、そのまま押し黙ってしまった。
「昨晩もルージュが来ていたの?」
再度問いかけると、アンバーは答える代わりに突然振り返り、私の腕をぐっと掴んできた。その力強さ、そして掴まれた部分の事情に、表情が歪んでしまった。
まだ塞がりかけてもいない生傷がある場所だ。他でもなく、アンバーが昨晩つけた傷である。たまたまではない。わざとやったのだろう。
「……アンバー!」
抗議の意を込めてその名を呼ぶと、アンバーは目を光らせ、私を睨みつけてきた。
「指輪の話だったね。聞いてやるよ」
腕を掴まれ、逃げ場のない状態で真正面から言われ、怯みそうになった。だが、逆らえない。震えそうになる体を必死に誤魔化し、私はどうにか答えた。
「……ルージュに持たされた指輪なんだ」
すると、アンバーは再び溜息を吐いた。怒っているというよりも、安堵しているかのような様子に、私はそっとその顔色を窺った。アンバーは私の手を掴んだまま、ポケットから指輪を取り出すと、その輝きをじっと見つめた。
「これね。モリオンが、見つけたんだよ。あんたを宿舎に運んだ時のことだった。何かの拍子にマントのポケットから落ちて、それでアタシに渡してきたのさ」
そのままアンバーは指輪をぐっと握り、琥珀色の目をこちらに向けてきた。
「初めて見る指輪だったから戸惑った。それでいて、あんたのニオイがだいぶ沁みついていてさ。それだけじゃない。この指輪はよくないものだとすぐに分かった。とても無視できないようなニオイも沁みついていたからね」
そして、アンバーは再び指輪を自分のポケットへとしまいこんだ。
「悪いけど、これは返さないよ」
「……どうして」
「どうして、じゃない。奴に持たされたんだろ? それはつまり、あんたがこれを持っている事で、奴に何かしらの利点があるということだ。だったら、尚更持たせるわけにはいかない。……それに、これは罰でもある。全部アタシに黙っていたことへのね」
返す言葉もなく、ぐっと唇を噛むことしか出来なかった。そんな私に対し、アンバーはさらに言った。
「勝手に捨てなかった事を感謝してほしいくらいだ」
吐き捨てるようにそう言われ、ますます何も言い返せなかった。
議論するまでもなく、これに関しては、ずっと黙っていた私が悪い。ダイアナにだって言わなくていいのかと確認されたというのに。
だからこそ、後悔が大きかった。罪悪感も大きかった。
だが、それだけじゃない。それなのに、私の心には確かにこんな気持ちが浮かんでいたのだ。
──ルージュと繋がれる代物だったのに。
ぞっとする話だが、こんな状況でなお、私はルージュに固執しすぎていた。
しかし、自力で指輪を取り返すことは出来ない。アンバーに真正面から挑んだところで敵わないのは目に見えている。
それに、気が向かなかった。これ以上、アンバーとの仲が険悪になる事が私には耐えられなかった。
周囲の霧が濃くなってきたことに気づいたのは、そんな苦悩に苛まれている最中のことだった。気づけば前も後ろも真っ白で、常に見えていた月光の城のてっぺんも見えなくなっていた。微かに空は見えるし、太陽が何処にあるかもだいたいは分かるが、闇雲に動くべきではないと思うほどに、視界が悪くなっていた。
「すごい霧だ──いつの間に」
思わずそう言った時、私の腕をいまだ掴んでいたアンバーの手に力がこもった。その痛みにつられて、彼女の視線の先を見て、私もまた息を飲んだ。この森には場違いな、小さな子供がいたのだ。
「あんたは誰だ」
アンバーが警戒気味に訊ねると、子供は恐る恐る近づいてきた。
「止まれ」
慌ててアンバーが警告した時、霧が少しだけ薄れ、子供の姿が露わになった。少女だ。髪は金色で目も金色。町で見かける子供とさほど変わらない。だが、それだけに不気味だった。こういう場所で出会う子供ほど怖いものはない。大抵は子供の姿をした化け物であるからだ。
だが、どうもその少女は、普通の化け物ではないようだった。その声色も、仕草も、好奇心でいっぱいな動物の子供のようだった。
「お姉ちゃんこそ、誰なの?」
心底不思議そうに訊ねてくるその様子には敵意を感じない。それどころか、親しみさえ浮かべているようだった。
「名前はなんていうの? どこから来たの? お姉ちゃん、わたしと同じニオイがするね?」
同じニオイ。その言い回しにぴんと来るよりも先に、別の誰かが霧の向こうからやってきた。
「待つんだ、ルナ」
少女を呼び止めながら飛び出してきたのは、同じく金色に目を光らせた少年だった。髪の色は灰色で、どことなくこのルナと呼ばれた少女に似ている。少年はルナを捕まえると、じっと私たちを睨みつけてきた。
「お前たち、何をしにここへ来た」
こちらには明確な敵意があった。相手が何者であれ、無駄にやり合うのは得策じゃないだろう。そう判断し、私はすぐさま答えた。
「月光の城へ向かっていたんだ。その途中で霧が濃くなって……」
「ああ、なるほど」
すると、少年はホッとしたように溜息を吐き、立ち上がると一方を指さした。
「月光の城ならあっちだ。霧が深くなる前に行くといい」
まるで、厄介払いでもするかのような態度だったが、それでよかった。
関わらない方がいい事だってある。向こうもまた関わりたくなさそうならば尚更だ。そう思いながら、小さく礼を言い、その場を切り上げようとしたその時だった。
「……お待ちなさいな」
と、もう一人、霧の奥から姿を現したのだ。真っ白な髪に、蒼い目をした女性だった。年の頃はペリドットと同じくらいだろうか。恐れることなく近づいてきて、ルナたちの傍へとやってきた。
「クレセントさん、どうして呼び止めるんですか」
驚く少年の声に、クレセントと呼ばれたその女性は小さく言った。
「落ち着きなさい、ブラン。怖がる必要はありません。それよりも、あなた」
と、クレセントが呼びかけた相手は、やはりアンバーだった。
「……あなた、私達が何者なのか、お分かりですね?」
真っ直ぐ問われ、アンバーはやや動揺を見せた。私の手を掴んだまま、そっと後ろに下がるように促してくる。それに従って後ずさりすると、アンバーはようやく彼女に答えた。
「分かるとも。だが、だからこそ、関わり合いになりたくないね。それがマナーってやつだろう。見なかったことにするから、私たちを放っておいてくれ」
アンバーがそう言うと、クレセントはやや目を細め、言ったのだった。
「ああ、その声。その態度。間違いありません。あなた、お名前は? ご両親は? どこで生まれ、いったいどうして人間なんかとつるんでいるのか教えてくださらない?」
「……教える義理なんて」
と、アンバーは突き放そうとしたが、クレセントはさらに語った。
「ごめんなさい。不躾だったわね。けれど、少し事情があったんです」
詫びるようにそう言ってから、クレセントは静かに語りだした。
「もうずいぶん前になりますが、私たちの村から若い夫婦が旅立った。旅先で彼らから女の子を生んだと便りが届きました。けれど、彼らは帰ってこなかった。事故なのか、事件なのか、全く分かりません。とにかく、ある時から、連絡は途絶えてしまった。今も生きているのかいないのか。それから随分と時が経ちました。あの時、旅先で生まれたという赤ん坊がもし生きていれば、そう、ちょうどあなたくらいの年でしょう」
その言葉に、私もまた動揺してしまった。アンバーもそうだ。じっとクレセントの姿を見つめ、黙り込んでしまった。
ややあって彼女は、どうにか言葉を見つけ出したのか、力のない声でこう言った。
「よくある話だね」
苦しい言葉だったが、クレセントは頷いた。
「ええ、よくある話です。けれど、何かのご縁でしょうか。あなたはよく似ている。いなくなったあの二人に。その声、その顔立ち、そしてそのニオイ……」
懐かしむようにそう言うと、クレセントは今一度、蒼い目を私たちに向けてきた。
「月光の城へ向かっていたのでしたね。ですが、この霧は深まる一方です。晴れるには長い時間がかかります。月光の城へ向かうのも、月の都に戻るのも、少々危険ですのであまりオススメできません。なので、もしよろしければ、霧が晴れるまでの間、私たちの村で休んでいかれてはいかがでしょう。勿論、お連れの方もどうぞご一緒に。心配なさらずとも、私たちは食うに困ってなどおりません。あなたの許可なく、そのお方に指一本触れたりはしませんよ」
どうやらアンバーに言っているらしい。決定権は私にはないようだ。そっと窺うと、アンバーもまた窺うように私に視線を合わせてきた。
「……君に任せるよ」
小さくそう言うと、アンバーはしばし考え込んだ末、クレセント達に言った。
「案内を頼む」




