1.月の都にて
その石像を誰が、いつ作ったのか、それは私には分からない。
この都へ観光に来たらしき旅人は私の他にいくらかいたが、傍にはガイドと呼べるような係のものもおらず、都の住民たちは私たちなどに微塵も興味を示さず行き交うばかりだ。
作品名や作者などを記載したプレートも見当たらない。
故に、私達に出来る事は、この石像そのものを見つめ、石像そのものから得られる印象を受け取ることだけだった。
石像は恐らく女神を象ったものだろう。
美しく、堂々とした表情の女性が、南の空を見つめている。
角度はやや上空。
太陽の傾き具合を考えるならば、恐らく彼女が見つめる先で、夜には月が光るだろう。
彼女の足元には一匹の獣もいる。
三角耳の犬のようにもみえるが、恐らくはオオカミだ。
この時点で、この女神が何者なのかも理解できる。
そもそも、ここは月の都。
その中央広場で、こうも美しい像を設置されるとすれば、それは月の女神に他ならないだろう。
古代、ここは月の女神を讃える聖地であったらしい。
というのも、月の都を訪れた際に見た、この場所の歴史を伝える看板に書いてあった。
ここから少し離れた先にぽつんと建っている月光の城は、その昔は神殿であり、女神が本当に暮らしていたと信じられているそうだ。
時代の流れで女神は消え去り、神殿だった場所は新たな地主が暮らし始めた。
だが、その地主の家も廃れ、今では別の人物が買い取っている。
──その人物こそがハニーであり、今、まさにルージュがそこにいる。
逸る気持ちを抑えながら、私は石像を見上げた。
今すぐに向かいたいところではあるが、そうはいかない。
月の都には辿り着いたばかりであるし、月光の城を取り囲む森の中では人狼たちと鉢合わせになる危険があるという。
ダイアナの情報が確かならば、あの森の何処かに満月の村という人狼の住まいがあるというのだから。
──月の女神。オオカミ。それに人狼の村。
それぞれのキーワードを線で結ぶと、嫌でも思い出す人物がいる。
ドッゲ。
うわばみの都で鉢合わせてしまった人狼ハンターの男。
彼が追いかけているのは、アンバーのような特徴を持つ人狼だ。
その理由こそが、この女神に因んだものだったことも忘れてはいない。
だからこそ、この石像を見ていると複雑な気持ちになった。
石像に色は塗られていないが、このオオカミはきっと雌で、月色の毛並みなのだろう。
一体いつ頃から信じられてきた事なのかは知らない。
だが、こんな事のためにアンバーが危険に晒されているのだと思うと、腹立たしくもあった。
この都に来てからずっと頭に引っかかっているのは、それだけではない。
人狼の村。
ダイアナが教えてくれたその存在がずっと気になっていた。
──アンバーのような者たちが集っているのかな。
「おーい、聞こえてるかっ!」
と、そこへ、私の耳元で馬鹿でかい声を出す人物が一人。
アンバーだ。
不意を突かれて屈む私の反応に、彼女はケラケラを笑った。
素面とは思えないその態度に、私は思い切り睨みつけてしまった。
「……鼓膜を破る気か」
「だって、ずっと呼んでたのに返事もしないだもん。……それよかさ、良い感じの宿、無事に見つかったよ。今日はもうゆっくり休もう。音楽の都からここまで長旅だったしさ」
「──そうだね」
「おや? やけに素直だね」
アンバーにそう言われるも、私は静かに頷いた。
本当はじっくりと情報収集でもしたいところだった。
だが、明日からの事を思えば、早く休むべきであることは間違いない。
それに、宿に引きこもるという選択は好ましく思えた。
この都は少し不穏だ。
恐らくこの石像のせいだろう。
ドッゲの抱えている依頼の事を思い出してしまうのだ。
月毛のオオカミは月の女神の化身。
だから、月毛の人狼の毛皮は高く売れる。
今のアンバーを見て、すぐに金の匂いを嗅ぎつけるものなど少数だろう。
しかし、少数でもいたら大変だ。
特に警戒すべきは、妙に鼻の利くハンターかもしれない。
だからこそ、あまり目立つべきじゃない。
とはいえ、そんな事情を素直に述べたところでアンバーのプライドが傷つくだけだ。
そう思ったからこそ、この時は、不安も、不快感も、全てを包み込んで、私は溜息交じりに答えたのだった。
「焦って向かったところでルージュは仕留められないからね」
そんな私の態度に、アンバーは苦笑だけを返してきた。
さて、アンバーが見つけた宿だが、良い感じの宿というだけあって随分と綺麗だった。
聞けば、いつもの予算よりも少し超えているらしい。
というのも、人気の観光地であるというのに宿がさほど多くないそうで、どこも部屋が空いてなかったらしい。
ここに泊まれるのも一泊だけというから困ったものだ。
「……じゃあ、明日からどうしようか」
やたら眺めのいい窓から南の空に浮かぶ月を仰ぎながら訊ねると、背後のベッドの上でここぞとばかりに寛ぎながら、アンバーは暢気に答えた。
「うーん、そうだなあ。野宿でもしちゃう?」
「別にいいけど……月光の城の傍で?」
振り返ると、アンバーはバツが悪そうに視線を逸らした。
「そりゃ不味いか。うーん、とりあえず、明日の夜にもどっか空くと信じて考えよう。駄目なら組合の拠点に戻るかね」
ちなみにこの近くの拠点は月光の城とは正反対の場所にある。
なるべくそうならないといいのだけれど。
「まあ、細かいところは明日考える事にしてさ、あんたも来なよ。このベッド、拠点のやつとは比べ物にならないくらい良いよ」
妖しく手招かれ、私は黙ってそれに応じた。
いつもの予算を超えているだけあって、宿の中にある飲食店の味も、客室についているシャワー室なんかも、全てが快適だった。
良い月を見て、心と体を癒してくださいと受付の者が言っていた通り、ここにいるとそれしか考えられなくなってくる。
一泊のみというのは逆に良かったのかもしれない。
美味しいご飯に柔らかなベッド。
それらを堪能した上で、いつもの狩猟本能とやらを存分に満たした為か、夜中になる前にアンバーはいびきをかいてすっかり眠りこけてしまった。
昏睡していることが分かると、私はそっとその腕から抜け出して、音を立てないようにベッドから下りた。
探るのは自分の荷物である。
いつものマントに着替えが少々。
それに、貴重品やその他、狩猟道具を揃えている鞄の隅々を探っていった。
思いつく限りのスペースを探り尽くして、果てに漏れ出したのは溜息だった。
──やっぱりない。
それが発覚したのは、音楽の都を旅立つ前の事だった。
目を覚ましてからしばらくして、私はとんでもないことに気づいた。
それは、ルージュに持たされていたあの指輪が見当たらないのだ。
気づいてすぐ、私はダイアナに相談した。
アカリュース劇場内および宿舎、オーバードの住まい、最後に泊まっていた宿、そしてそれらを行き来する道や、落とし物を預かっている各施設など、ダイアナも思いつくあたりを探ってくれたらしい。
けれど、どこにも指輪はなかった。
次の満月まであと少し。
あの指輪の力を借りないとなると、少し不安だった。
いったい何処にいってしまったのだろう。
諦めきれずに焦っていると、不意に、ベッドから物音が聞こえてきた。
「カッライス……起きているの?」
アンバーだ。
その声に飛び上がりそうになりながらも、私はすぐに答えた。
「ちょっと目が覚めちゃって」
すると、アンバーは身を起こし、私をじっと見つめてきた。
心なしか、その目が獣のように光った気がした。
月明かりがよく差し込む部屋だからだろうか。
鋭いその眼差しに、まるで何かしらの罪を咎められているような後ろめたさを感じていると、アンバーは私をそっと手招いてきた。
「おいでよ。寝かしつけてあげるからさ」
いつもの冗談めいた声ではない。
何となく、その声色に逆らえず、私は志半ばでアンバーのもとへと戻っていった。
近寄るなり、その手に捕まれ、とても抗えない力で引き戻された。
衝撃と痛みに怯んでいるうちにベッドの上に組み敷かれ、じっと顔を見つめられる。
「変な夢でも見た?」
問いかけられ、私は微かに目を逸らして答えた。
「気が急いているのかもね」
そんな私の頬に手を添えて、アンバーは静かに唇を重ねてきた。
寝かしつけてあげる。
その言葉通り、程なくして私の意識は夢うつつのなかに閉じ込められていった。
アンバーはどのくらい起きていたのだろう。
少なくとも、虚ろな私の体を使って欲を満たしたのは確かだ。
目覚めた時、昨晩にはなかったはずの生傷が増えていた事が証拠でもある。
スッキリしたからだろうか。
私が目覚めた時、アンバーはすでに起きていた。
朝焼けに染まる空を窓から眺めていたようで、もぞもぞと起きる私を振り返り、声をかけてきた。
「おはよう、気分はどう?」
「……おはよう、まあまあかな」
そう言って伸びをするも、腕のあちこちがズキリと痛んだ。
何故だろう。
いつもよりも体の傷が多い。
今に始まったことではないとはいえ、昨晩のアンバーは妙に乱暴だった気がする。
「そっか。まあまあか」
軽く笑みながらそう言うと、アンバーは私を真っ直ぐ見つめてきた。
「昨晩はさ、何か探し物でもしていたの?」
真正面からのその問いに、私は思わず口籠ってしまった。
「……いや。荷物を確認していたんだ。武器とか、非常食とか」
「ふうん」
うまく誤魔化せたとは思えないが、アンバーはひとまずそう言って流した。
そして再び私に背中を向けると、ポケットに手を突っ込みながら言った。
「いやね、昨晩のあんたさ、すごく焦っているように見えたんだ。まるで、大事なものを無くしたみたいにね」
「大事なものって?」
話を逸らした方がいいのではないか。
そう思ったのだが、出来なかった。
私の問いを受けて、アンバーは朝焼け色に染まった目をこちらに向け、ポケットから再び手を出した。
「……たとえば、こういうものとか」
アンバーから指し示されたその代物を目にしたとき、私は一瞬、まだ夢の中にいるのではないかと疑ってしまった。
いや、疑ったのではない。
そう願ったのだ。
どうも違う、これは現実だ。
そう分かった瞬間、私は気が遠くなるのを実感した。
アンバーの手に握られていたもの。
それは、必死に探していたあの指輪だったのだ。