6.猫との秘密の取引
ラルゴが協力してくれるようになって二日ほど。
アカリュース劇場には早くも日常が戻りつつあった。
とはいえ、ドルチェが亡くなってから日も浅い。
仲間を喪ったショックは劇場内で働く者たちに暗い影を落としていた。
特に深刻だったのは、アリアの様子だ。
ラルゴは彼女を疑っていたが、いくら女優だといっても、その普段の様子からして彼女が犯人であるとはとても思えない。
やはりルージュなのか。
それとも、ルージュの名を借りた魔物なのか。
脅迫のあったアリアに関しては、アンバーが丸一日警護していることもあり、怪しい影が近づいてきたりはしていないようだった。
それでも、劇場のいたるところでは怪談染みた目撃情報が寄せられ、その度に、私はその場所へと足を運んだ。
ラルゴはそんな私に同行したり、自ら情報を集めてきたりもした。
それだけ、ドルチェの事が無念だったのだろう。
彼の眼差しは常に怒りに満ちていた。
そんな彼だが、当然ながら本業がある。
毎日ずっと私を手伝えるわけではなく、この日は裏方の仕事に追われていた。
私を手伝えない事を悔やんでいるようだったが、私のいないところで目を光らせて欲しいと伝えると、張り切って仕事に戻っていった。
それはいいのだが、私も私で焦ってしまった。
まだ、ドルチェを殺した犯人の手掛かりは掴めていない。
人間の仕業の線で捜査している警察も同じだ。具体的な手掛かりが全くないまま、時間だけが過ぎていく。
アカリュース劇場二階のテラスにて、歩き通しだった足を休め、傾きかけてきた日の光を浴びていると、不意にそこへ猫がにゃあと甘えてきた。
その姿を目にし、私はそっと周囲を窺う。
黒猫だった。
「……ダイアナ?」
呼びかけてみれば、猫は私の顔を見上げ、目を細くする。
そして、もう一度だけ、猫らしくにゃあと鳴いてから、表情を変えた。
「お疲れのようね、カッライス」
やはり、ダイアナだった。
「朝から歩き通しだったからね。それよりも、今日は早いね。何か情報があったの?」
「ええ。今日は夜通し動かなきゃならなさそうだったから、今のうちにね」
「夜通し?」
訊ねると、ダイアナはそっと周囲を窺ってから、小声で私に言った。
「モリオン……あなた達のお仲間君がルージュの滞在先を突き止めたみたいなの。ルージュはまだまだ万全じゃないわ。このまま放っておけば、もしかしたら……ってところね」
「ええっ?」
思わず声に力が入り、私は首を竦めた。
周囲を今一度確認してから、私はダイアナに言った。
「本当なの?」
「勿論。こんな嘘なんてつかないわ。世の為、人の為ならば、恐ろしい吸血鬼が一人討伐されるかもしれない大チャンス……なのだけど、不思議な事に、あたし、あのチャーミングなハンター君を妨害して、困らせたくなっちゃったの。ねえ、どう思う、カッライス?」
悪戯に誘うような眼差しを向けられ、私は自分の中の良心と向き合った。
悩む。
激しく悩んでしまう。
ダイアナの言う通り、これは人間社会にとって有益な機会となるはずだ。
だが、それでは、ルージュを奪われてしまう。
すぐに奪い返しに行けるなら、モリオンと協力するふりをして、抜け駆けも出来るだろう。
しかし、今回は無理だ。
ここを放ってそんな事なんてできない。
散々悩んだ挙句、私は深く溜息を吐いた。
黒猫姿のダイアナは抱き上げ、ぐーんと伸びる胴体のその重みを感じながら、私は彼女に言った。
「全く、君は悪い猫だね。だけど、生憎、私はここを離れられない。イケメン好きの君が若い狩人君と急に遊びたくなっちゃったのなら、それを止める事なんてできないや」
そんな私に対し、ダイアナは猫の顔のままにやりと笑い、小さく囁いてきた。
「お代は後でいただくからね」
「……分かった。頼むよ」
そう言ってダイアナを床にそっとおろすと、そのまま彼女は何処かへと走り去っていった。
その姿を見送りつつ、気持ちは急いていた。
本当ならば、一緒に行きたい。
モリオンに盗られたくない。
そんな焦りに気が苛立ち、ついには頭を抱えてしまった。
そこへ、彼女はやってきた。
「お疲れですね、カッライスさん」
ヴィオラだ。
彼女は私の近くにちょこんと座ると、眼鏡を手で押さえながら小さく微笑みかけてきた。
「もっとも、疲れているのは私も同じみたいです」
「ヴィオラさんも?」
さりげなく問い返すと、ヴィオラは苦笑しながら頷いた。
「はい、だって、カッライスさんが猫と話しているように見えたのですから」
ギクッとしてしまったのは言うまでもない。
この動揺が表情に出ていない事を祈りながら、私は軽く目を伏せた。
「それは……だいぶお疲れですね」
上手く誤魔化せたかどうかはともかく私がそう言うと、ヴィオラは苦笑を返してきた。
そして軽く溜息を吐いてから、彼女は軽く首を振った。
「いいえ、弱音なんて吐いてはいけませんね。この一件でアリアは限界に近い。それに、オーバードも、ここ最近は憔悴しきっているみたいで」
「オーバードさんも……ですか」
「はい。この次に予定している新作歌劇の作曲が思うように進まないようなのです。そこへ、この一件が重なったものですから、だいぶストレスをためてみたいで。毎日、夜遅くまで部屋に閉じこもっているようなのです。私、彼の事が少し心配なんです。心労がたたって……なんてことになったらどうしようかと」
そう言って、彼女もまた目を伏せた。
黒縁眼鏡の下で、菫色の目が少しだけ潤んでいる。
その表情はまるで、恋する人を心配しているかのように見えてしまった。
悪い妄想だ。
我ながらそう思い、すぐに私は思考を変えた。
「ヴィオラさんは普段、オーバードさんに付きっ切りなんですよね。……今は?」
「将来の奥様にお会いしているところですよ。二人きりでお話がしたそうだったので、暇をつぶしているんです。ああ、劇場へ来たのはいつもの通り、リハーサルのためですよ」
「昼はここでリハーサル、夜は作曲……。確かにお忙しそうだ」
「忙しいのは今に限ったことではないのですけれどね。それだけに、早く犯人が捕まってほしい。人間にしろ、魔物にしろ……」
急かすわけでもなく、ただ願うように彼女はそう言って、空を仰いでいた。
その疲れ切った様子に、私は私で焦りを深めていた。
この劇場での事件の犯人は、恐らくルージュではない。
いつまでもルージュにばかり気を捕らえてはいられない。
モリオンの動きは気になるけれど、今だけはアカリュース劇場の事に専念しなければ。
それからしばらく、日が暮れるまで、私は劇場を隈なく見て回った。
様々な目撃情報を頼りに、魔物の気配を探る。
ルージュが目撃されたと思しき場所も含まれてはいたが、そうではなく恐らく目の錯覚に過ぎないだろう場所も虱潰しに探っていく。
そうこうしているうちに、気づけば夕食時となっていた。
そろそろ、アリアが劇場を去る時刻だ。
そうなれば、アンバーも付きっ切りの警護から解放される。
──少し、宿舎に戻るか。
時間があるようならば、蓄積した疲労をシャワーで洗い流してもいい。
そんな事を思いながら宿舎へと戻ってみれば、管理人に呼び止められた。
「ああ、ああ、狩人さん。待っていましたよ」
「……私を?」
問い返す私に頷きながら、彼はごそごそと何かを取り出す。
こちらに差し出してきたのは、書き置きだった。
「えっと、ラルゴだったかな。劇場で働いている兄ちゃんが、狩人さんに渡してくれってさ。今日中に読んどいてね」
「ありがとうございます」
受け取ってみれば、確かにラルゴの名前があった。
部屋に戻りながら開けてみれば、そこには少々粗い字でこう書かれていた。
『親愛なる狩人さんへ。直接伝えたいことがあって来たのだが、どうやら今日は無理のようだ。明日の朝一番に、劇場裏口──関係者入り口で待っている。ラルゴ』
伝えたいこととは何だろう。
直接ということは、管理人に読まれることを厭っての事だろう。
その内容が非常に気になった。
「──で? 一人で会うつもり?」
夕食後、共に戻った狭い部屋で寛ぎながら、アンバーは何処かからかうようにそう言ってきた。
そんな彼女の眼差しを、わざと避けながら、私は手紙を確認した。
「一人で来いとは別に書いていないね」
「ふうん、じゃあ、アタシが一緒でもいいってわけだ」
「ねえ、アンバー。言っておくけれどさ、ラルゴさんとはそういうのじゃないからね?」
「そういうの、って?」
わざとらしく訊ね返してくる彼女に、私もまたわざと深い溜息を吐いて横になった。
「──それよりさ、君はどうだったの? 途中でオーバードさんが来たでしょ?」
「ああ、ヴィオラさんがそっち言ったんだっけ。そうそう。二人っきりになりたがっていたから、気を利かせてみないようにしていた。耳は欹てちゃったけどね」
「君って人は……」
「しょうがないじゃーん。警備はしなきゃだし、万が一、不届きものがやってきたら大変でしょ?」
にやりと笑いつつ、アンバーは続けた。
「──まあ、たまたま聞こえてきた二人のその会話の内容は、特にあんたに話すような重要なもんでもなかったよ」
「それはよかった。こっちも特に収穫はなし。それどころか、嫌な話を耳にしてさ」
「嫌な話?」
「うん。ダイアナからね。どうやらモリオンがルージュの居場所を突き止めたらしい。それで、このまま放っておけば、ひょっとするとひょっとするかも……って」
「へえ、モリオンがねえ」
興味なさげにアンバーは言った。
「いい事じゃん。いけ好かないあの吸血鬼女もお終いってわけだ」
「どうかな。どっかの黒猫ちゃんが急にモリオンに付きまとって、狩りの邪魔をしなければ……の話だけれどね」
「はあ……あんたねえ。世の為、人の為に、悪しき吸血鬼が退治されそうになっているってのに、そうならないように仕組んだっていうの?」
「私はただ、彼を気に入ったのなら遊んでもいいよって言っただけさ」
「やれやれ怖いやつだよ、あんたもあの黒猫も」
そう言ってから、アンバーはふと、私に近づいてきた。
背後からそっと抱かれ、その感触に私は身を委ねた。
胸元に垂れる黒髪を、アンバーは背後から触れてくる。
そして、静かに言った。
「アタシとしては、モリオンを応援したいところだけれどね」
「どちらにせよ、今宵、ルージュがここへ来ることはなさそうだよ」
「ああ、その通りだね」
短く同意して、アンバーは私の首筋──古い傷跡に唇を重ねてきた。