4.本当に起きた事件
脅迫文通り、事件は起こった。
けれど、被害者はアリアではなかった。
アリアを慰めていた踊り手のドルチェ。
帰宅の途中だったのだろう。
昨日の服装のまま、彼女は変わり果てた姿で倒れていた。
死因は失血死。
首には吸血鬼を連想する目立った噛み傷。
私の首筋にもあるのとよく似た傷があった。
「何故、あの子が……」
楽屋にて震えながら呟くのは、アリアである。
ドレッサーの前でただただ俯き、人形のように動かない。
青ざめた顔を誤魔化す化粧すら困難そうだった。
そんな彼女に対し、どうにか話をしようとしていたのが、警察だった。
二人組の刑事であり、ドルチェの発見からすぐさま呼ばれて駆けつけてきたのだ。
話を聞く限り、脅迫事件の時から関わっているらしい。
これより彼らは私たちとは別の視点から事件を追う事になる。
飽く迄もこれが人の手による犯行であることを視野に入れて捜査を進める。
その過程で得た情報の中で、どうしても人間がやったとは思えないような事があれば、私たちに共有される事になる。
いずれにせよ、これは単なる嫌がらせではない。
その事だけはハッキリとした。
「……ご協力ありがとうございます。私たちはこれで」
大して聞き出せることもなかったようだが、頃合いを見て彼らはそう告げた。
アリアは少しホッとした様子で頷き、そのままドレッサーの前で座り込んだ。
こういう時に慰めてくれていたのがドルチェだったのだろう。
だが、今は違う。
彼女を心配する者は多かったが、すぐに傍へと寄り添って、慰められる人物がこの場にはいなかった。
──オーバードさんは何処にいるのだろう。
入り口から中を窺いつつそんな事を思っていると、不意に話しかけられた。
立ち去ろうとしていた刑事の一人だ。
「ああ、あなた方がこの度、呼ばれたという狩人さんですね」
慌てて視線を向けると、刑事のうちの一人──壮年の男性が帽子を外して会釈してきた。
黙ったままそれに軽く応じると、彼は訊ねてきた。
「その紋章、以前にもお世話になったことがあります。……ですが、生憎、その時の犯人は魔物ではありませんでした。この度もひょっとしたら魔物のふりをした人間かもしれない。町中でこういった事件を起こす怪物は、大抵の場合、そうですからね。あなた方はあなた方で動く事になるでしょうが、もしも、我々の管轄だと判断した場合は、いつでも遠慮なくご連絡いただきたい」
「怪しい人間を見かけたら、知らせて欲しいってわけですね」
私の代わりにアンバーがそう答えると、彼は満足そうに笑った。
「ええ、そういう事です。勿論、こちらも我々には手に負えない相手だと判断した場合はそう致します。魔物を退治できるのはその資格を持っている方だけと聞きますからね」
「……よろしくお願いします」
静かにそう返すと、彼は満足した様子で仲間と一緒に立ち去っていった。
その背を笑顔で見送り、すっかり見えなくなると、アンバーは大きくため息を吐いた。
「やれやれ、厄介なことになった。楽な仕事だと思ったのになぁ」
呟く彼女を横目に、私はしばし思い悩んだ。
脳裏に浮かぶのは、ドルチェが倒れていた場所だ。
その石畳の地面に口紅で描かれていたのが、短いメッセージだった。
──まずは一人。ルージュ。
シンプルなその内容。
走り書きで残された署名。
それらが本当にルージュの仕業なのかどうか、短時間では判断しかねなかった。
それがずっと頭に引っ掛かっている。
「ねえ、アンバー。少しの間、ここを任せてもいい?」
「駄目」
「な、なんで?」
慌てて問い返すと、アンバーは答える代わりに目配せした。
視線に釣られてそちらを見ると、廊下の向こうから総支配人のアジタートがやって来るのが見えた。
だいぶ険しい顔をしている。
向かう先はこちらだ。
用があるのは、恐らくアリアではないだろう。
アンバーと二人で静かに覚悟を決めていると、アジタートはとうとう目の前にやって来た。
「警察は移動したようですね」
開口一番、彼はそう言った。
「あなた達にお願いがあります。ここの警備に関することです」
「何ですか?」
半ば不安に思いながら問うと、彼は険しい表情のまま言った。
「警備の範囲を広げて欲しいのです。アリアさえ守ればいいと私は思っていた。ですが、今回の被害者はアリアではなかった。この事で、早くも劇団員たちがヒステリーを起こしかけているのです」
「……でしょうね」
と、静かに答えたのはアンバーだった。
「では、こうしましょう。相方がここを守るので、その間にアタシが劇場内を──」
「逆だ」
とっさに突っ込むと、彼女は肩をすくめた。
そんな私たちのやり取りに、アジタートはうんざりとした様子で溜息を吐いた。
「どちらでも宜しい。とにかく頼みましたよ」
そのまま苛立った様子で立ち去っていく彼の背を見送り、アンバーが私にそっと耳打ちしてきた。
「総支配人さん、どうやら冗談が通じないタイプっぽいね」
「こんな状況だもの。仕方ないよ」
そして、改めてアンバーを軽く睨んだ。
「ともかく、見回りは私が行くから、君はここをお願いね」
「はいはい、しくじんなよ、相棒」
そう言って手を振られ、私はようやく解放された。
鎖から解き放たれた猟犬のようにその場を足早に去り、真っ先に向かったのはドルチェの遺体が見つかったあの場所だった。
劇場の裏口。
関係者入り口でもあるその場所。
遺体はすでに運び出されていたが、倒れていた場所には印がつけられ、その横にはメッセージがまだ残されている。
劇場の敷地外から遠巻きに見ている人がいる。
野次馬だろう。
もうこの事件の噂も、外へ広まっているのだ。
その好奇に満ちた眼差しに、アジタートの苛立ちの意味を痛感する。
グラヴェ町長も、さぞ頭を抱えていることだろう。
「まずは一人。ルージュ」
石畳に書かれたそのメッセージを口にしながら、私はその筆跡を目に焼き付けた。
これは本当にルージュの筆跡だろうか。
駆け出しの頃ならば、迷いはしなかった。
けれど、今は迷ってしまう。
それだけルージュと共にいた頃の記憶が遠ざかってきたという事なのかもしれない。
──ルージュ。
じっと筆跡を睨み続ける事しばらく。
これまでに目にしてきた筆跡と頭の中で照らし合わせていると、不意に劇場内からこちらへ歩み寄ってくる者の気配があった。
男性のようだ。
もしや、アジタートあたりに油を売っていると思われでもしただろうか。
そんな事が頭を過り、慌てて立ち上がってみると、突然動いたからだろう、近づいてきていた彼の方が、一瞬怯んでしまった。
アジタートではない。
前に顔を合わせた記憶があるが、名前は知らない。
確か、裏方の一人のはずだった。
「あの……何か?」
何か言われる前に先にそう訊ねてみると、彼は気まずそうに視線を逸らしながら、言葉を探し始めた。
しばらく待っていると、彼はようやく口を開いた。
「あの、俺、ラルゴっていうんだが……普段は大道具の仕事をしていて……」
喋っているうちに、思考がまとまってきたのだろう。
今度は真っ直ぐ私を見つめ、はっきりとした口調で続けた。
「あんたさ、狩人なんだよな? ドルチェの件で動いているんだよな?」
「その通り。魔物狩りの資格を持っている。それで、正確に言うと、この事件の犯人が魔物の仕業かどうかを調べているところだ」
「似たようなもんだ。犯人が魔物だったら仕留めてくれるんだろう?」
「そうだね。魔物であれば、相手が誰であろうとそのつもりだよ」
ルージュだとしても、そうでなかったとしても、撃つのは変わらない。
ルージュだったらいいと願ってはいるが、手を抜くつもりは一切ない。
ましてや、犠牲者が出てしまっている以上、見捨てるわけにはいかないだろう。
たとえモリオンの方が当たりだったとしても、こればかりはやっておかないと。
そんな事を内心思っていると、ラルゴは頭を掻きながら私に言った。
「あのさ……俺も、手伝っていいか?」
それは、思っても見なかった申し出だった。