8.互いを信じて
思っているよりも、状況は悪いかもしれない。
ダイアナに言われ新聞を確認し、私は真っ先にそう思った。
人狼の被害と思しき殺人事件の記事は、大々的に報じられていた。
勿論、人狼の仕業を装った人間の犯行という線も疑われているようだが、遺体の様子は野良犬に食い荒らされたにしては、酷いものだったらしい。
そして、その犯人が人狼かもしれないとなれば、人々の恐怖は計り知れない。
ただでさえあまり治安のいいとは言えない町である。
その上、混乱が広がる事など誰も望んではいない。
となれば、求められる事は人狼の駆除であるのだが、どうやら既に対策として、人狼狩りのハンターたちが手配されたらしい。
──うちの組合ではないようだ。
記事にあった名前は、人狼狩りで名高いとされる組合である。
所属している者たちの実績も記されていた。この町に暮らす人たちを安心させるためだろう。
だが、その紹介を見ているうちに、私は不安になってきた。
──もしも、彼らにアンバーの正体が知られてしまったら。
不安を抱えつつ、私は部屋へと戻った。
そして、軽い朝食の後、再び情報探りに外へと出かけたダイアナを見送ってから、私は心を落ち着けて、相棒へと向き合った。
ダイアナが時間を作ってくれたお陰もあって、寝起きの時よりは感情もだいぶ落ち着いていた。
アンバーもそうなのだろう。
私の買ってきた朝食に文句も言わず、黙々と食していた。
眼差しも、態度もいつものアンバーと変わらない。
それでも、二人きりになってみれば、流れる空気は重たく感じられた。
アンバーはベッドの上で今朝の新聞を読んでいた。
見つめているのは、あの記事だろう。
「……ドッゲか」
ぽつりとアンバーは呟いた。
確か、人狼狩りのために派遣される男性ハンターの一人の名前だった。
「知っているの?」
問いかけると、アンバーは新聞を見つめたまま頷いた。
「あんたが家に来るより前の事なんだけどね、師匠から聞いたことがあるんだ。ドッゲという名のハンターを覚えておいてって。だいぶ前から人狼を専門に活躍していたらしいね。何でも、アタシの両親を巡って、うちの組合とひと悶着あったそうだよ。長く狙っていた獲物を横取りしたとかなんとか因縁つけられたらしくてさ」
「……そうなんだ」
深く聞いていいものか悩ましい話だった。
しかし、すぐに恐ろしい可能性に気づいた。
アンバーの両親を知っていた。
という事は、もしかしたら、アンバーの存在についても知っているのではないかと。
「ドッゲだけじゃないな。ブルにコリー、リッジ、ロット……。ここにある名前、どいつもこいつも人狼狩りのプロだ。師匠が見たら、きっと眉を顰めるだろうね」
そう言って、アンバーは大きくため息を吐いた。
仰向けになりながら天井を見つめ、考え込む。
そんな彼女の姿を見ていると、不安を感じずにはいられなかった。
「ねえ、アンバー。一度ここを離れよう」
「出来るなら、そうしたいところだけどさ……あんた、アタシと一緒に大人しくしていてくれるわけ?」
「近くの拠点まで一緒に行くよ。……そこで待っていてもらう事になるけど」
正直にそう言ってみれば、アンバーはまたしても大きくため息を吐いた。
「それで、あんただけ、またこの町に戻るってわけか。そんな事、アタシが納得するとでも思った?」
「──で、でも」
反論しかけたその時、アンバーが不意に起き上がった。
真っすぐ私の傍まで近づいて来る。
その表情を目にするや否や、本能的に身の危険を感じ、私は後退りした。
だが、逃れる間もなく、伸ばされたその手に捕まってしまった。
「……アンバー」
「この町を離れるのは賛成だ。だが、あんたも一緒だ。一人で戻るのは許さない。どうしても、戻りたいっていうのなら、今この状況でアタシに力で勝ってからだ」
「そ、そんなのズルいよ」
「ズルくない」
「いや、ズルいよ。捕まえてから条件を言うなんて」
「じゃあ、ズルでもいい。いいさ、ズルいのが魔物なんだ。そして、狩人は同じくらいズルくなければいけない。あんたはどうだ? そして、奴は? 今も高級ホテルで待ち構えているあの女はどれだけズルいか分かっているのか? あんた一人で挑んだって、捕まって終わりだ。いいか、カッライス、今のあんたは、奴に生かされているだけなんだ」
はっきりと断言され、私は奥歯を噛みしめた。
悔しかったからだ。
それは違いない。
アンバーと一緒に暮らすようになって最初に自覚したのが負けず嫌いという自分の性格だった。
魔物と人間の違いをこれまで散々思い知らされ、悔しい思いは何度もしてきた。
不貞腐れそうになったこともいっぱいあった。
それでも、この時ほど、悔しかったことはない。
理由も良く分かっている。
アンバーが言っている事が、間違っていないためだ。
だって、この瞬間にも、アンバーに握られた手を引き離すことが全く出来なかったのだから。
「……分かった。私の負けでいいよ」
これ以上の抵抗が無駄だと分かり、私は一度そう言った。
だが、アンバーは抜け目なかった。
私の表情をじっと見つめ、さらに力を込めた。
「い、痛い……」
「か弱いね。アタシはちょっと力を入れただけだ。こうなってしまったら、あんたの命運は魔物に託されるわけだ。さて、これからどうしてやろうか」
「冗談は止してよ。子供じゃないんだから」
「子供じゃない? ああ、そうだね。子供じゃないって事はつまり、捕食ごっこも遊びじゃないってことだ」
「……ねえ、アンバー」
咎めはしたが、私はアンバーの目を見る事が出来なかった。
ふざけているわけではない事が、はっきりしてしまうのが怖かったのだ。
現に、アンバーの力はちっとも弱まらない。
本当に冗談ではないのかもしれないという恐怖が、頭の中にちらりと浮かんだ。
そして、それを裏付けるかのように、アンバーは私の体をベッドの方へと引きずっていった。
乱暴に押し倒され、抑え込まれると、本当に動けなくなった。
もしも、これが猛獣であれば、私はこのまま殺される。
そう思った瞬間、冷や汗が浮かんだ。
「アンバー……」
「新聞にも、ダイアナの報告にもあったね。被害者は、貪られていたって。その様子を聞いた時、アタシさ、羨ましいって思っちゃったんだ」
淡々とアンバーは語った。
その目が怪しく光るのを見て、私は硬直してしまった。
いつものアンバーじゃない。
さっきまでとは全然違った。
「本当に食いたいものは何か。それは羊肉なんかじゃない。毎晩、あんたの裸体を見るたびに、美味しそうだってふと思ってしまう。あんたの事が愛おしくてたまらない時もそうだ。齧りたいって、貪りたいって思ってしまう瞬間があるんだ。このまま食べてしまおうか。欲望に正直になって、誰にも取られないうちに……」
恐ろしい妄想を語り聞かされ、けれど、私は何も言えなかった。
目を離すことが出来ない。
怪しく光っているアンバーの眼差しに意識が囚われてしまっていた。
そんな私の首筋へと、アンバーは唇を近づけていった。
そこにあるのは、ルージュにつけられた古傷だ。
アンバーが何度も上から重ねた傷跡も残っている。
そこに軽く牙をあててから、アンバーは言った。
「震えているね。怖い?」
訊ねられ、私は素直に頷いた。
「……怖いよ」
「そっか。でも、力が全然入っていないね。心も体も、すっかりアタシに食べられる準備が出来ているようだ。それもこれも、あんたがアタシに体を許したからだ。そして、同じ事が、あの女相手でも起こり得る」
そう言って、アンバーはようやく体を離した。
急に解放され、私はしばし放心状態に陥った。
無力感と劣等感が後から襲い掛かってきて、気力がごりごりと削られていく。
そんな私に視線を落とし、アンバーは言った。
「ここを発つかどうかは、まだ決めないでおこう。あんたがずっと一緒に居てくれるなら発つし、あんたが一人でまたここへ戻るっていうのならアタシは行かない」
「アンバー……でも……」
「か弱いあんたがそれでもプロの狩人なら、アタシだってそうだ。ドッゲだろうが、何だろうが、上手く身を隠してやるさ。アタシは嘘が得意だからね」
「でも──」
言いかけたものの、強く否定できなかった。
これ以上、意見が対立すれば、アンバーは本当に最終手段に出てしまうかもしれない。
つまり、私を完全服従させるというやつだ。
そうなれば、ルージュを追うという行為自体が出来なくなるかもしれない。
これまでずっと、アンバーはそんな事などしないと信じてきた。
けれど、あまりにも私が聞き分けの悪い人間であれば、話は変わって来るだろう。
それに、アンバーはこれでも譲歩してくれている。
このままルージュを捜すこと自体を禁止しているわけではないのだから。
「……分かった。君を信じるよ」
そう言うと、アンバーは軽く目を細めた。




