7.起きて欲しくなかった騒ぎ
大丈夫じゃないだろう、そんなアンバーの予想は残念ながら当たってしまった。
その報せを真っ先に運んできたのはダイアナだった。
時刻は早朝。
窓を軽く叩くその音で、私は目覚めた。
アンバーはまだ鼾をかいている。
その横で脱ぎ捨てられた衣服を拾い上げ、手早く着てから窓を開けると、途端に冷たい風に迎えられた。
黒猫姿のダイアナが入ってすぐに閉めたものの、その冷たさに身震いしてしまった。
「やっと起きてくれた。あんまり遅いなら魔法で開けるところだったわ」
黒猫姿のまま、後ろ足で耳の付け根を掻きながらダイアナはそう言った。
「おはよう、ダイアナ。新しい情報はある?」
「ある。というか、その話で町は騒ぎになっている」
「騒ぎ? ルージュの事で?」
「いいえ、違うわ。別の魔物よ」
「別の……?」
と、寝惚けた頭で問い返したものの、私はすぐに昨晩の事を思い出して青ざめてしまった。
すぐさまベッドへと駆け寄り、鼾をかき続けている相棒の体を揺さぶった。
「アンバー、ねえ、アンバー、起きて」
そんな私の様子を見て、手伝おうと思ったのかダイアナも近づいてきた。
猫の姿のままベッドへちょこんと飛び乗ると、だらしなく眠るアンバーを見つめ、猫ながら不敵な笑みを浮かべた。
「ふふん、どうやらあたしの腕の見せ所ね」
と、言いながら爪をシャキンと伸ばしたところで、アンバーは目を覚ました。
「ん? んああ?」
急に動いたものだから、その腕がダイアナの小さな体にぶつかった。
そのまま寝惚けていたのだろうか。
アンバーは「うへへ」と妖しい笑いを口にしながら、ダイアナの体をぎゅっと抱きしめ始めた。
「うぐう、何すんのよ、放して、放しなさーい!」
「あ? ああ? あれ、ダイアナじゃん。もうそんな時間なの?」
目を擦りながら起き上がるアンバーに、私はそっと答えた。
「いつもよりまだ早いよ。でも、ダイアナが……」
と、ダイアナへ視線を送ると、彼女はどうにかアンバーの腕から抜け出してから、アンバーと私の前でちょこんと座った。
小さいながらもまるでお偉いさんのよう。
そんな表情で、ダイアナは私たちに告げた。
「簡潔に言うから、よく聞いてちょうだい。昨晩の間に町で殺人事件があったの。それも、ただの殺人じゃない。被害者は女性で、ところどころ肉を噛み千切られていたそうよ。どう考えても人間の仕業じゃない。魔物がやったんだってさっそく騒ぎになっているの」
それで、と、ダイアナはその目でじっとアンバーを見つめた。
「で、犯人と思しき種族として名前が挙がっているのが、人狼ってわけ」
「……人狼」
アンバーはその単語を繰り返す、寝癖で乱れた髪をさらにかき乱した。
苛立った様子で顔をしかめ、そして唸るように呟いた。
「アイツだ……アイツがやったんだ」
「アイツ?」
首を傾げるダイアナに、私はすぐさま答えた。
「昨晩、怪しい人狼の男に会ったんだ。女性に乱暴しようとしていたところへ割り込んで、トラブルになった。多分、そいつが犯人だと思う」
「──なるほどね。可能性は高いわね」
「これからどうなりそう?」
私の問いに、ダイアナは猫ながら険しい表情で答えた。
「事件は警察が捜査するはずだけれど、人狼探しについては民間人も疑心暗鬼になりかねないわ。うん、悪いことは言わない。あまり目立つような事をしては駄目。特にアンバー。出来るだけ外出は控えた方がいいわ」
「分かったよ」
素直に返事をするアンバーに少しだけ安心しつつ、私はそっとダイアナに問いかけた。
「情報はそれだけ? ルージュの事は?」
「心配しないで。ちゃんとあるから。ルージュは相変わらずアヴァロンにいるわ。血は吸っていないみたい。この騒ぎですもの。彼女もそう目立った動きは見せないはず。もしかしたら、アヴァロンの付近から出てこない可能性もあるわね」
「そっか。やっぱりアヴァロンか……」
悩む私に対し、ベッドの上からアンバーの声がかかった。
「おい、まさかとは思うけどさ、今日は行かないよな?」
「……どうしようか迷っている」
「行かないよな?」
求めていた答えじゃなかったのだろう。
再度問い返してくるアンバーに、私はため息交じりに視線を向けた。
「行って欲しくないってこと?」
「行くなってこと」
「どうして?」
「どうしてって、あんた、こんな状況だぞ。目立った行為はよくないだろう?」
「君はね。だけど、私は違う。アンバーはここで待っていてよ。すぐに帰って来るし、夕飯は一緒に食べるからさ」
「駄目だ。どうしても行くっていうのなら、アタシも一緒に行く」
「アンバー……」
諭すように名前を呼んでも無駄だ。
こういう時の彼女の願いは一つ。
私の方が折れる事だ。
だが、そういうわけにもいかない。
私の方にだって譲れないものはあるのだから。
と、彼女と本格的に向き合おうとしたその時、ダイアナが間に割って入ってきた。
「アンバー、よく聞いて。カッライスは大丈夫だとしても、あなたは違うわ。今の状況は危険すぎるし、オススメできない。それに、カッライスなら一人でも大丈夫よ。彼女だってプロの狩人なのだし」
「──そうだけど」
と言いながら、アンバーは激しく頭をかき乱した。
「ああ、もう。どうして。どうしてこんな事に」
そう言って彼女は項垂れてしまった。
これ以上、彼女にストレスはかけられない。
そう思い、私は一度冷静になった。
アンバーだって分かっているだろう。
それに、この状況は決してアンバーのせいではない。
全てはあの男。
昨日、出会ったあの男のせいだ。
──あの時、拘束出来ていれば。
だが、何の罪でそうできただろう。
あの時はまだ、証拠なんてなかった。
彼が人狼という事が分かっただけだった。
それだけで彼を殺していいのならば、同じようにアンバーが傷つけられる事も許されるという事になってしまう。
本当に、どうしてこんな事に。
沈黙する私たちを、ダイアナは見比べる。
そして、こほんと小さく咳払いをしてから、私たちに言った。
「とにかく、あたしは今後、ルージュの事に加えて、この人狼騒ぎについても追いかけてみるわ。そして、情報が分かったらいち早く報せに来るから。あ、そうそう、念のためだけど、今朝の新聞でもこの事件の事が取り上げられているはずだから、読んでみた方がいいかもね。ま、今の時点では、あたしが言った事とあんまり変わらないと思うけれど」
得意げに笑うダイアナを抱き上げながら、私は彼女に頷いた。
「分かった。お願いするよ。でも、気を付けて。人狼騒ぎでパニックになっているのだとしたら、皆、過敏になっているかもしれない。君が魔女だって分かったら、危害を加える人が現れるかも……」
「大丈夫よ。そんなピンチ、何度も潜り抜けてきたんだから。人前で変身しなければ大丈夫だし、不用意に喋らなければいいだけ。魔法だって色々なものがあるわけだし」
「それなのに吸血鬼には捕まったんだなぁ」
気怠そうなアンバーの言葉に、ダイアナはブンっと大きく尻尾を振ってから答えた。
「あの時は未熟だったの。でも、今は違うんだから。ねえ、そんな事よりも、そろそろ朝ごはんにしましょうよ。あたし、お腹ペコペコで帰ってきたんだから」
「朝ごはんか。ねえ、アンバー。何を食べたい?」
「別に。何もいらない。お腹空いたら自分で買いに行くよ」
「……ねえ、アンバー。怒っている?」
「怒ってない」
「怒っているでしょ」
「怒ってないって言ってるだろう!」
怒った。
いや、ここは怒らせたのが正解だろう。
むしゃくしゃしてしまうのも分かるのだが、けれど、彼女の望みを叶える気にもならない。
どうしようもない空気が流れる中で、ダイアナは呆れたような表情を見せ、ぴょんと私の腕からすり抜けた。
そのまま項垂れるアンバーに体をぴたりとくっつけた。
「アンバーの事はあたしに任せて、カッライスはご飯買ってきて」
そう言って胸を張る小さな黒猫の存在が、今はかなり有難かった。




